メッセージ:「恐怖と嫉妬や保身は主の祝福から遠い」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

3月25日

担当:若竹孝行

 

メッセージ:「恐怖と嫉妬や保身は主の祝福から遠い」(10分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:1サムエル記16章〜18章

18章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:18:28-29

「サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。」

 

おはようございます。そして、お帰りなさい。

 

第一サムエル記17章から、ダビデが記されてきます。ダビデは、エッサイの8番目の息子です。エッサイは、ルツとボアズの息子オベデの息子であります。サムエルに「サウルの代わりに、イスラエル人の王となるのは、エッサイの息子である」と、主が告げられ、順に息子をサムエルのもとに遣わすが、どれも主の目にとまらず、最後の8人目の息子ダビデを選ばれました。そして、主の霊が、サウルから離れ、ダビデへと下ったのです。

●16章13-14節「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からのわざわいの霊が彼をおびえさせた。」

 

ここでの「主からのわざわいの霊」とありますが、「主の霊」ではありません。私は、これは「原因の分からない怯え」ではないだろうかと思うのです。人は自分の地位や立場を脅かすだろうと思われる未来の敵に対して、恐怖し、その芽をつぶそうとします。それは、自己防衛の機能であり、神に頼るのではなく、自らの力や知恵にたよるものです。

 

一方ダビデは、主の力を借りて、ペリシテ人の代表戦士ゴリアテと、石投げだけを武器として、戦うことになります。サウルたちは、ゴリアテに対して、意気消沈し、非常に恐れてしまっていました(17:11)そこで、ダビデが一対一の戦いに選ばれたわけです。少年ダビデはゴリアテに対して、恐怖を抱きませんでした。なぜなら、今まで、ダビデは神に守られてきていることを知っているからです。

●17章37節「ダビデは言った。『獅子や熊の爪から私を救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からしもべを救い出してくださいます。』」

そして、ダビデはゴリアテに対して、次のように言います。

●17章46節「きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺して、おまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。」

ダビデは、完全に主がダビデと共にいてくださり、ダビデを守り祝福してくださることを確信しています。そして、あっけなく一撃で勝利を収めます。

 

ダビデがペリシテ人に勝利し帰って来た時、サウル王は次の歌でつまづきます。

「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」(18:7)

サウルは、このことばを聞いて非常に怒り、不満にいだきます。また兵士たちや息子ヨナタンまでも、ダビデを称賛します。

ここに、サウルはダビデに対して、嫉妬と恐怖を覚えることとなりました。

『いつかダビデが、わたしを王の座から引き下ろすのではないか。』このような、疑心暗鬼に陥ります。一度は槍でダビデを討とうと試み失敗し、その後は『敵がダビデを倒してくれれば』と願うようになり、そのように戦いの最前線へとダビデを送り込みます。また、それがかなわぬ時には、のちのち再び自らの手でダビデを亡き者にしようと企むのであります。

 

サウルの保身による、ダビデに対する恐怖や嫉妬は、主の祝福から遠いところにあります。主の霊がサウルから離れたというのは、サウルが主に信頼をせず、主に祈りをささげなかった、保身という自己中心に陥ってしまったことを意味します。

 

私たちも同じであります。私たちの心に宿る聖霊様が遠くにいらっしゃるように感じられるときは、私たちが主を信頼できなくなった心の状態を表しています。主を喜び、主に祈り、主に感謝することが出来なくなった時、またそのように落ち込んでしまえば、心に住みたもう聖霊様が消えてしまったのではと、また落ち込むのです。サウルは、主がダビデを送ってくださったことを、感謝できませんでした。負の連鎖の始まりです。

 

その負の連鎖を断ち切るには、とにかく、まず、声に出して主に感謝をささげることです。感謝をささげるという行為は、主の御業に気づき始めることから始まります。そして、主への感謝それ自体が、主への祈りとなり、祈りの内に喜びが生まれます。これがプラスの連鎖となって行きます。そして、そのプラスの連鎖が、主のご臨在、主が伴われることと、主がすでに救ってくださっておられることの確信へと導いてくれるのです。プラスの連鎖は、主への感謝から始まります。そして、その感謝は、主の御業の気付き、また気づこうとする積極が原動力となります。そしてその原動力は聖霊様なのです。

 

最後に、1テサロニケ5章16節から24節をお読みして終わりたいと思います。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

 

お祈りいたします。

 

主のいのり