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メッセージ主題:『平和こそ上よりの知恵』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヤコブの手紙』

2021時年3月28日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌302「恵みある主」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「主を見上げて」

交読: 交読文24:詩篇第67篇:新聖歌p. 898-899

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「永遠にあなたと」

聖書拝読:ヤコブの手紙3章1節~18節(新改訳聖書)

中心聖句:

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(18)

メッセージ主題:『平和こそ上よりの知恵』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。今朝は、先週鳴門の教会での落語奉仕に行っていた八さん熊さんも出席してくださっています。感謝いたします。

先週は、ヤコブの手紙の第2章から、『信仰と行ない』と題しまして、神様からのメッセージを拝しました。ヤコブ書2章では、人を分け隔てせずに、隣人を自分のように愛することと、行いを欠く信仰は死んだも同然であることが記されています。先週は、その中の後半部分を主に「信仰と行い」のことについて、主から学ばせていただきました。

今朝は、ヤコブの手紙の第3章から、『平和こそ上よりの知恵』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。ヤコブ書3章では、言葉の恐ろしさと、その言葉は2種類の知恵からくることが記されています。「言葉の恐ろしさ」とは、9節が記していますように「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」私たちの口からは、神を賛美しつつ、人を傷つけるのです。人を傷つけ、自分を誇る言葉は、世の知恵からの産物ですが、天からの知恵は、義を行い、平和をつくるのであります。今朝は、これらのことを、もう少し詳しく見させていただきたいと思います。

短くお祈りいたします。

ヤコブは、6節で「舌は火であり、不義の世界です」8節では「舌を制御することは、だれにもできません」と、徹底的に「舌」を攻撃しています。いえ、舌ではなく、私たちの肉の思いを非難しています。パウロは、肉の思いを次のように述べています。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:5-6)肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安。これが、もっともヤコブがこの3章では言いたかったことではないでしょうか。再びパウロの言葉を借りれば、「肉の思いは神に対して反抗するもの」であり、「神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:7)

私たちは、まことに残念ではありますが、多かれ少なかれ、「賛美とのろいが出る」口をもっていませんでしょうか。教会で神を賛美し、外に出れば、人の悪口をいう。ひどいときには、教会の中で罵り合う、そのようなことを見たり、聞いたり、はたまた、その張本人であったりしていませんでしょうか。私は、みなさんを攻めているのではありません、自分自身を振り返って、言っているのです。私は牧師ではありますが、聖人君主ではありません。思いっきり罪人です。人を妬むこともあれば、うらやむこともあります。それがよくないことだど分かっていても、気のゆるみでついついやってしまうのです。そう、それは今の私にとっては「気のゆるみ」なのです。ふと、「神様のことを忘れてしまう瞬間」なのです。その時には、私には平安はありません。これが私だと開き直るつもりはありません。いけない、いけないと思いつつ、肉の思いに負けてしまうときがあるのです。私はいつも自問自答します。こんな者が牧師でいいのか、いやクリスチャンでいいのかと。

パウロも同じようにこのことでもがいています。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。、、、私は、私のうちに、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、しかくない悪を行っています。」(ローマ7:15,18&19)

あのパウロでさえ、このようにもがき、肉の思いに対して苦しんでいます。しかし、彼はそのもがきの中に合って、自暴自棄になってはいません、失望してやけくそにはなっていません。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24)パウロは、そのように言うのですが、これに対する答えをすでに見つけだしています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(25)主イエス・キリストが、パウロを救い出し、主イエス・キリストを信じ、信頼しつづけることで、彼は、自分のみじめさに失望してはいません。主イエス・キリストは、そんな罪人を救うために、ご自身を十字架にかけ、すべての罪人の罪を贖い、罪を赦していただくために、ご自身の命を差し出されたからです。パウロは、自分のみじめさに失望してしまうことは、主イエス・キリストの十字架を無駄にする、イエス・キリストを犬死させることであると知っていたからです。

このことで明らかなことは、私たちは、この世では、義人にはなり得ないということです。主を賛美する口で、嫉妬し、ねたみやそねみやののしりをする自分に苦しむということです。「義人はひとりもいない」(ローマ3:10)とう言葉が胸につきささります。人間は、罪人というレッテルからのがれることはできません。しかし、幸いなことに、私たちには、イエス様の十字架が与えられています。イエス様を信じることで、またイエス様をお送りくださった天の神様を信じることで、神様は私たちを、イエス・キリストにあって義と見なされるのです。そして、イエス様は、信じる私たちに、助け主である聖霊様をお送りくださいます。

イエス様はおっしゃいます。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがわなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世があたえるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:26-27)

イエス様が与えられる聖霊は、私たちの助け主であり、私たちにイエス様のおしえを思い出させ、私たちを悪から遠ざけてくださいます。そして、その聖霊様こそ、天のお父様の平安であり知恵であります。ヤコブはこのことを3章の締めくくりに使っています。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちにまかれます。」(18)つまり、神と罪人である人間との和解を成就させ、平和を実現するイエス様こそが、私たちを罪から贖い出してくださり、イエス・キリストにあっての信仰により、私たちを義としてくださるのです。そしてその義の実を結ばせる種とは、イエス様がお送りくださる聖霊様であり、すなわち天からの知恵であり、また霊的ないのちであります。

イエス・キリストを信じ信頼し、主とあがめましょう。そのような人は、天からの知恵でありいのちである聖霊様を心に宿し、詩篇の1篇のごとく、『主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみ、水路のそばに植わった木のようで、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える』のであります。

さて、2週間ぶりに、天国長屋の八さん、熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、先週は鳴門ホープ・チェペルでのご奉仕ご苦労様でした。今朝の『平和こそ上よりの知恵』のメッセージで、何か思わされたことはございますでしょうか。

―――――

八: 牧師さん、鳴門ホープ・チャペルでのご奉仕は楽しかったです。また、いつか行きたいねぇと熊としゃべっておりました。主に感謝いたします。ところで、今朝の中心聖句18節の「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」これって、ちょいとむづかしいねぇ、理解するのに。

熊: けどよ、八、牧師さんが最後に解き明かしてくれたじゃねぇか。「平和をつくる人」ってぇのは、イエス様のことだ。そして、「義の実を結ばせる種」とは、聖霊様のこと。「平和のうちに蒔かれる」とは、「イエス様を信じる時」のことだって。俺は、それ聞いて合点がいったよ。

だって、そうじゃねぇか。俺たちゃ、舌を制することのできねぇ、罪人さ。主を賛美をしながら、愚痴がでる。せっかく、イエス様を信じて、イエス様いのち、だって言ってるのによ。けど、俺たちの心に住んでくださる聖霊様が、俺たちを変えてくださるんだ。罪を犯さない性格に。

八: まあ、その変化もだんだんにとだけどな。一朝一夕にはいかねぇよ。なにせ、俺たちゃ、筋金入りの、肉の思いのかたまりだから。

熊: それでも感謝だ。最終的には、イエス様がすべてよしとしてくださるんだから。

八: けどよ。俺たちゃ、すべてをイエス様に委ねないといけねぇ。明け渡してこその服従だ。

熊: 分かってるけど、それがあっさりできねぇから、俺たちゃまだまだ、罪人なんだ。

八: 聖霊様に頼らないかぎり、罪人の根性は、そんじょそこらじゃ抜けねぇ。

熊: けど、俺は、イエス様にいつかほめてもらいてぇ。だって、イエス様いのちなんだから。

八: だよな。イエス様によって、俺たちゃ、命拾いしたんだ。

イエス様がみがわりとなってくださった。

熊: それだけじゃねぇ。イエス様は、イエス様の平和を俺たちにくださった。聖霊様だ。

俺たちゃ、その聖霊様によって、天の御国での平安と喜びを、今味わえるんだから。

八: そうだよな。感謝だ。感謝しかねぇな。牧師さん、これでいいかい。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。イエス様を早く知れば知るほど、天の御国での平安と喜びが、この世で味わえる。イエス様をご存じない方は、みんな、損をしています。イエス様は、いろんな不安から守ってくださり、いつも平安を私たちの心に残されるのです。イエス様のことばは、私たちにとっては、神の力、いきいきと生きる力です。どうか、イエス様を信じ、イエス様に従う者とさせていただきましょう。

ただいまより、黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇71篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マルコの福音書10章44-45節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

(詩篇71篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主の御名を賛美いたします。愛する天のお父様、私たちの心は弱く、自分でしたくないと思うことをしてしまう者です。どうか、内なる聖霊様によって、私たちの心を主にあって強くしてください。いつも、主を賛美することができますよう、何事にも主に感謝をささげることができるよう、私たちを守り導いてください。私たちの心には、つねに聖霊様がお住まい下さり、私たちを励ましてくださいますから感謝いたします。

私たちの主、助け主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。