メッセージ:「器を十分に用意しよう」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

4月15日

担当:若竹孝行

 

メッセージ:「器を十分に用意しよう」(10分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:2列王記4章〜6章

4章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:4:6

「器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。『もっと器を持って来なさい。』その子どもが彼女に、『もう器はありません』と言うと、油は止まった。」

 

おはようございます。そして、お帰りなさい。

 

第4章は、預言者エリシャの奇蹟が記されています。一つは、借金に追われている預言者のやもめ家族に対して、油の湧き出る油つぼによって、油を売り、負債をなくすという奇蹟。

もう一つは、年老いた夫をもつ婦人に子どもが授かるという奇蹟。そして、その男の子が成長過程で死んでしまったが、生き返ったという奇蹟。そして、最後に飢饉のさなかに食物があまるほどに与えられるという奇蹟です。

 

これらの奇蹟は、「求めよ、さらば与えられん」というマタイ7章7節の御言葉が真実であることの証であります。今朝は、この奇蹟の中の油つぼの奇蹟に注目したいと思います。

 

預言者のやもめの妻がもっていた油つぼは一つでした。おそらく、生活に困窮していましたから、その油つぼの中には、ほんの少ししか油が入ってなかったかもしれません。しかし、エリシャは、そのご婦人に、空の器をできるだけたくさん用意しなさいと指示します。そして、人目につかぬようにして、その油つぼから空の器へと油を注いでいきます。するとどうでしょう。空の器には、なみなみに油が注がれますが、いくら注いでも、元の油つぼがからっぽになることはありませんでした。しかし、集めた器にすべて注ぎ終わると、「油は止まった」とあります。

 

果たして、やもめの婦人はその油を売り、負債を支払うことができました。めでたし、めでたし。

 

いえいえ、めでたし、めでたし、ではありません。この4章の最後の奇蹟では、食事は余ったとあります。つまり、みんなが満腹になってもなお余った食べ物があったということです。本来、主の祝福はこのようであるのではないでしょうか。私たちの主は、ケチケチしていません。もっと豪気な太っ腹なお方ではないでしょうか。食べ物のことで思い出すのは、イエス様の五つのパンと二匹の魚の奇蹟です。5000人の男性が食べて満腹しました。つまり、女性や子どもも勘定にいれると、それの倍以上の人が食べて満腹になったのですが、食べた残りがあり、12のかごいっぱいに集まりました。つまり、12弟子たちも満腹になったのです。主は私たちが望む以上のものをお与えくださるのです。

 

やもめのご婦人は、子どもたちに空の器を集めて来なさいと近隣を回らせました。子どもたちもできる限りの数の器を集めてきました。エリシャが、1個2個ではダメですよと告げたからです。しかし、どのような気持ちでそうしたのでしょうか。子どもたちは、自分の家の油つぼにいくら油が入っているかを知っていました。ひょっとしたら、子どもたちは、空の器を集めるとき、「もうこんなもんでいいんじゃないか」と思ったかもしれません。また、「たくさん器があっても、いれる油はそんなに多くないし」と疑ったかもしれません。

たしかに、主の憐みによって、必要は満たされました。しかし、その必要とは、人間が思っている量であって、私たちは、神様の祝福に、知らず知らずのうちに上限をつけてしまっているのではないでしょうか。「ま、このぐらいでいいか」みたいな。器は、1個2個ではダメなのです。主の祝福はそれ以上のものなのです。

 

欲深な私は、この6節の「油は止まった」という表現に対して、もったいないなと思ったわけです。せっかく神様は気前よく、祝福してくださろうとしているのに、もう充分ですと、遠慮して、また不信仰のゆえに、空の器に蓋をしてしまうようなことをしているのではないでしょうか。口語訳の詩篇16篇11節には次のようにあります。

●「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」

 

喜びが満ちあふれるぐらいに、主は私たちを祝福してくださるのです。イエス様はおっしゃいます。

●「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」(ヨハネ15:11)

イエス様のお話とは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(9)ということです。イエス様の愛にとどまることで、イエス様を信頼することで、私たちは「救われた」喜びで満ちあふれることになります。

 

また、パウロも次のように説きます。

●「もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。」(ローマ5:15)

神の恵みがみちあふれるとは、神様の永遠のいのちを、私たちは、ただただイエスキリストを信じることで受け取ることができる、そして、私たちの心に住みたもう聖霊様によって、私たちは、罪を犯しにくい性質へと変えられていき、天の御国での平安と喜びを、今味わうことができる、まったくの恵みのてんこもり、太っ腹の神様のみわざであります。

 

どうか、神様のあふれんばかりの祝福を、人間の知恵で制限しないでください。神様の限りない祝福を、全身全霊をもって味わうためにも、また、油を止めることのないように、常日ごろから心の油の器を十分用意しておこうではありませんか。油は私たちには聖霊様です。聖霊様の働きを人間の知恵で制限してはいけません。そのためにも、日々の生活において、主を想い、主と語り、御言葉を味わい、主への賛美を口にとどめさせていただきましょう。そうすれば、あなたは、器をいくらでも用意することができるでしょう。

 

お祈りいたします。

 

主のいのり