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メッセージ主題:『信仰による祈り』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヤコブの手紙』

2021時年4月18日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌388「いとも良きものを」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「強くあれ、雄々しくあれ」

交読: 交読文25:詩篇第73篇:新聖歌p. 899-900

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「主を仰ぎ見て」

聖書拝読:ヤコブの手紙5章7節~20節(新改訳聖書)

中心聖句:

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(15-16)

メッセージ主題:『信仰による祈り』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、短い証しかできず、もうしわけございませんでした。今後、結婚式の御用がある日曜日は、先週のように、メッセージが間に合わない時は、証をさせていただこうと思います。よろしくお願いいたします。

先々週は、ヤコブの手紙の第4章から、『主のみこころなら』と題しまして、神様からのメッセージをたまわりました。ヤコブ書4章では、おもに三つの忠告がなされています。①神に服従すること、②信仰の兄弟姉妹を裁かないこと、③誇り高ぶらないこと、です。これら三つのことは、神を自分の中心におき、神に自分自身を明け渡すことで成し遂げられることであるように思います。神に自分を明け渡すということは、『言うはやすし、行うは難し』であります。とても難しいことではありますが、このことをしようとしない限り、主からの祝福は期待できません。先週は、この至難の業である、「明け渡し」のことを、神様に導いていただきました。

今朝は、ヤコブの手紙の第5章から、『信仰による祈り』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。ヤコブ書5章では、おもに忍耐と祈りのことが記されています。忍耐することと祈りは、信仰生活の同一線上に平行してあります。耐え忍び、心を強く保つためには、祈りが必要です。主により頼むためには、無心で祈り込むことが重要です。今朝は、その「祈り」のこと、特に「祈り愛」LOVEの愛ですが、「お互いに祈りあう」ことの大切さを学びたいと思います。

短くお祈りいたします。

ヤコブは13節で次のように明確に述べています。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」まず、私たちの、より頼むべきお方は主であり、より頼むには、主に祈ることであるとヤコブは主張します。また、うれしいことがあった時には、主に賛美をささげ、栄光を主にお返しすべきであると続けています。これが、私たちが真っ先にすべきことであります。友達や家族や教会の兄弟姉妹や牧師に相談するのも良いことですが、まずは、主に祈る、主と一対一で対峙する、このことは信仰生活が長ければ、自然とそのように整えられてくることなのかもしれません。礼拝でのメッセージを聞き、聖書を読み、デボーションで主との時間を大切にすればするほど、この大切さを肌で感じ、キリストに倣う者とされるのでしょう。

また、14節では、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」とあります。オリーブ油は神の臨在の象徴でもありました。詩篇には次のようにあります。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(23:5)神の臨在によって、敵の前であっても、敵の前だからこそ平安をえることができるのです。また、オリーブ油は薬と考えられていました。ヤコブはここでは、オリーブ油を薬として扱っているようですが、神の臨在の意味も込められているような気がいたします。ですから、「祈ってもらいなさい」と言っています。

15節では、「信仰による祈りは、病む人を回復させます」と説いています。信仰による祈りは、体の回復だけではなく、霊的な回復にも有効です。ですから「祈れば罪は赦される」とあります。「罪が赦される素地は、すでにイエス・キリスト様の血潮によってなされています。」あとは、罪を告白し、赦しを乞う祈りだけなのです。

ただ、私が少しひっかかりますのは、16節にある「義人の祈りは働くと、大きな力がある」というところです。義人の代表例として、ヤコブは預言者エリヤをあげています。では、一般の私たちの祈りには力はないのでしょうか。これはちょっと難しいですね。私は、「祈りの人」と言われる方を知っています。その人は、神様から祈りの賜物をさずかっていて、その人の祈りは、主が力を注いでくださるのです。しかし、勘違いをしてはいけません。その人に力があるわけではなく、主がその人の祈りを聞かれるということです。また、祈りはいつも聞かれるとは限りません。その祈りの人と呼ばれる方の祈りであってもです。ヤコブも「義人の祈りは『働くときには』」という条件つきで、「大きな力がある」と言っています。

私たちは、「義人はひとりもいない」ということを、パウロのローマの手紙の3章からも、またパウロが引用した詩篇14篇からも学んでいます。確かに私たち全員は罪びとです。ヤコブもそのことは重々承知で、また、義人の代表的人物としてエリヤをあげてはいますが、このヤコブの言葉は凡人の信仰者である私たちに向けて放たれています。先ほども申しましたが、私たちは義人ではありえません。しかし、私たちが義人と見なされる一瞬がございます。それは、主イエス・キリストを信じ、信頼して、主に心からの祈りをささげる時です。そのときは、だれでも義人と見なされる一瞬であるはずです。ですから、ヤコブは「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。」と、罪の告白と祈りを奨励するのです。そして、ヤコブは「お互いに罪を告白し祈り合う」ことの大切さを訴えます。なぜなら、イエス様がそうおっしゃっておられるからです。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)「わたしの名において集まる」とは、礼拝であり、交わりであり、祈りあう時であります。ヤコブもイエス様のこのお言葉を聞いている一人だからです。

では、私たちが一人で祈りをする時、イエス様はそこにはいらっしゃらないのでしょうか。そんなことはありません。イエス様がお送りくださった聖霊様は、私たちの心にお住まい下さり、私たちは主の宮、神殿とされています。一人のときでもイエス様はともにいらしてくださいます。しかし、私たちが、二人三人と集まって、祈る時、私たちは励まされ、祈りに力が与えられます。これは誰しもが実感することでございます。一人で祈る時でも、複数で祈り合う時でも、私たちクリスチャンは、主への祈りが聞かれると信じて、疑わずに祈ることが、主から求められているのであります。イエス様はおっしゃいます。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:31)これは、水の上を歩いてこられたイエス様をみて、ペテロがイエス様を迎えに、水の上をあるこうとして、風を見てこわくなり沈みかけた時に、手を差し伸べて投げかけられた言葉です。祈りも同じであります。疑わずに祈る祈りは、主はお喜びになり、手を差し伸べてくださいます。

また、私は「祈りを積む」ということも大切にしております。祈りはすぐに聞かれ答えが出るとは限りません。しつこく祈ることは大切なことです。もちろん、子どもがおもちゃ屋さんの前でだだをこねているような祈りをすることを申し上げているのではございません。日本には、お百度参りという信仰がありました。他宗教のものですし、また百回祈りをささげたら、聞き届けられるとは限りません。しかし、これと同じように、祈りを重ねていくことは大切だと思うのであります。お百度参りにように何も苦行をすることはありません。ただだた、主の御前に出て、真摯に祈る、それだけでございます。

さて、先週は結婚式のお手伝いに行ってらした、天国長屋の八さん、熊さん、今朝はここにいらっしゃいますので、彼らの意見をおうかがいいたしましょう。八さん、熊さん、今朝の『信仰による祈り』というメッセージで、何か思わされたこと考えさせられたことはございますでしょうか。八さん、熊さんの関西弁、好評でしたから、よろしくお願いいたします。

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八: 「信仰による祈り」なぁ、そもそも、信仰によらへん祈りってあるんかいな。

祈りちゅうのは、信じて祈るもんとちゃうか、なあ、熊。

熊: まあ、そやけど、牧師っさんは、疑わずに祈ることを強調されてんねやろな。

それに、祈りには力があるで。

八: そやなぁ、祈ってると力が、こう、湧いて来る、勇気100倍や。1000人力や。

人のことを祈ってても、祈ってる自分が励まされるんから、大したもんやで祈りは。

感謝感激、雨あれれ、ん?あれれ?

熊: ぼけてんちゃうで、八。雨あれれやあれへんで、雨あられや。でも、八の言うとおりやな。

祈りは、どんな風に祈っても、けっきょく祈ったもんが励まされる。祈ったもん勝ちや。

それに、祈り合うちゅうのは、ええなぁ。みんなが背後で祈ってくれてると思うと、

なぁんでもできそうな気がするさかい不思議やわ。

八: わてら、ほんまに、三ばかトリオやけど、あほはあほなりに祈り合ってたら、

ドーンって腹の底から、祈りがでてくる感じになるから、大したもんやで。

熊: 八、お前も感じるか。祈り合ってるとな、初めは口から祈りがでてんねん。

けどな、どんどん、下に下がって来て、腹から声がでてるような気になる。

ま、言わば、腹式呼吸とちごて、腹式祈りや。

八: 腹式祈りか。うまいこと言うやないか、熊。今日はさえてるやん。

熊: あほぬかせ。わてはいつもさえてます。ただそれを、みんなが気が付けへんだけや。

八: そうかいな。そりゃ、えらい失礼しました。ところ、ご隠居はんがゆうとったやなか。

その熊の言う腹式祈りは、それは聖霊様の働きや、ちゅうて。

熊: ご隠居はん、わてらに祈りの指南してくれはったなあ。そんときに、ゆうてはった。

祈りは「主の祈り」が基本やゆうて。

まず、初めに、主の御名をほめたたえることから始めたほうがええっでって。

八: そうやったな。「天にましますわれらの父よ。ねがわくは、御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

この部分は、本当は、

「天で御名があがめられているように、地でもあがめられますように。

天の御国の平安と喜びがあるように、地でも平安と喜びがあるように、

天において主が天を治められておられるように、地においても主が治められますように。」

熊: そやなぁ。それから、ようやく、わてらの願いを、お願いするんや。

八: いやいや、ちゃうで。その前に、感謝せな。主のそれまでにしてくださったことを覚えて、

主に「ありがとうございます。感謝します」と感謝することを、具体的に申し上げて、

それに、罪を告白することもせんとな。

熊: そやった、そやった。それからやっとお願いやったな。自分の祈りやとりなしの祈り。

このお願いをする前に、主の御名を賛美し、感謝し、罪を告白することで、

わてらは、一瞬やろうけど、そのときは義人になれるんや。

いや、イエス様が義人にしてくださるんや。ありがたいなぁ。

そやから、義人の祈りは聞かれるんや。

八: 一人で祈りに集中するときも同じやけど、牧師はんは、「一瞬一瞬の祈り」も大切にしてな、

って言うてはったな。どんな時でも、何をしてても、目あいててもええから、

一瞬の祈りを重ねてたら、常にイエス様に祈りをささげていることになるやって。

熊: それも、大事や。とくに「常に祈りなさい」というみ言葉がそれで、

うまいこといくんやから。

八: せやけどなんやな。祈り合うちゅうのは、相手を愛するからこそできるんや、

「祈り愛」や。LOVEやで。

熊: 八、お前から、LOVEいうことが出るとは思わなんだ。まったく、似合わんなぁ。

八: ほっとけ。LOVEぐらい言えるわい。LOVEは大事やでぇ。

パウロはんも、1コリント人への手紙での愛の章13章で、ゆうてはったやないか。

「たとい私が、山を動かすほどの完全な信仰をもっていても、

愛がないなら、何の値打ちもありません。」って。(13:2)

熊: 祈ってても、そこに愛がなければ、祈りにならへん。ただ何かごそごそ言ってるだけや。

「あんた、そこに愛はあるんか!」って、イエス様からおしかり受けるわ。

八: 一瞬、大地真央がでてきた。ちょっとびっくりしたわ。

祈りは大事や。聖書の御言葉が、わてらの日々の糧やとしたら、

祈りは、そのみ言葉を消化させて、現実に自分のものとさせていただく、

そんな役目をしてるとも、いえんのとちゃうかいな。

牧師はん、こんなもんでよろしおまっか。

ちょっと、余計なこと、しゃべりすぎましたな。かんにんやで。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「祈り愛」愛がなければ、本当に祈ることはできません。祈りは私たちの信仰を育ててくれます。実は、私も、クリスチャンになりたての頃、2年間、毎週2時間~3時間の祈りに集中する、そのようなグループに入れさせていただきました。あの祈りのグループでの祈りが、今の私の信仰の基礎を作ってくれました。本当に感謝しております。今でも、聖書の学びの会よりも、祈りの会のほうに重きを置いております。「祈り愛」のある教会やグループは、主の祝福を大いに受けると信じています。「信仰による祈り」は、一瞬であったとしても「義人の祈り」です。また、逆に、「真剣に祈る時、その人は義人なのです」。どうか、個人の祈りも大切ですが、祈りの小グループを作りましょう。できれば、1週間に1回、実際に集まっても、またリモートでも。「祈り愛」を主によって、はぐくんでいただきましょう。

ただいまより、黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇66篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書21章21-22節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

(詩篇66篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「信仰による祈り」は、私たちを励まし、力づけてくださり、また祈りの時において私たちは義人となれることをお教えくださり感謝いたします。どうか、私たちが、常に一人でも祈り、またグループでも祈り合うことのできますよう、私たちを、あなた様の「祈り愛」で包み、満たしてください。

私たちの主、王の王、愛の主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

献金の時

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。