メッセージ:「愛のバトン」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

4月22日

担当:若竹孝行

メッセージ:「愛のバトン」(10分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:1歴代誌1章〜3章

1章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:1:1-4

「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラエル、ヤレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、それにヤフェテ。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

歴代誌第1章からしばらく、私たちの始祖であるアダムからの人の系図が延々と続きます。まるで新約聖書のマタイの福音書の1章と同じです。この系図は名前の羅列ですから、一見面白くないように見えます。まあ、実際、この名前だけを淡々と読んでいますと、つまらないものです。いえ、淡々と読んでいる私が、本当は実につまらない者なのです。この人たちが、神様が愛し、いとおしく思った人々であると思えば、また味わい深いのではないでしょうか。この人たちの他に10倍100倍1000倍それ以上の人たちがいらっしゃるはずですが、代表として、これらの人たちの名前が連ねられています。この人々の神様の愛のバトンがイエス様へとつながり、そして、バトンが新しくなって、私たちへとつながっているのです。この愛のバトンのリレー選手が一人でも欠けると、神への信仰はそこで終わってしまっていたのかもしれません。いえ、神は、この人たちを選びに選んで、信仰の系図とされたのです。

アダムは930歳まで生き、セツは912歳、エノシュは905歳、ケナンは910歳、マハラエルは895歳、ヤレデは962歳、エノクは365歳、メトシェラは969歳、レメクは777歳、ノアは950歳、セムは600歳、ハムとヤフェテの歳は分かりません。また、アダムは9代目のレメクが生まれてから亡くなっております。ノアのお父さんであるレメクは洪水の少し前で息を引き取り、ノアのおじいさんであるメトシェラも洪水前に死んだそうです。メトシェラは最年長記録保持者ですが、メトシェラのお父さんであるエノクは比較的短命でした。いえ、短命と言うより、365歳で、神に取られて、いなくなったので、そこから年齢が分からなくなっているのです。日本の文化で、解釈すれば、さしずめ、神隠しにあったとでもいうのでしょうが。神隠しというと悲惨なイメージですが、エノクの場合は神と共にいるという幸せな環境ではないでしょうか。

こう見て行きますと、神の愛された家系であっても、晩年、どのように亡くなったのかがわからない人たちが出て来ます。初めは神に愛されていても、途中で神に反抗した人もあったのかも知れません。

また、アダムは9代目のメレクが生まれるまで生きていたのですから、神様と歩んできた人生、特に、エデンの園での楽しい日々、エデンの園を追放されることになった罪のこと、また追放されてからの田畑を耕す苦労と収穫の喜び、これらのことを子どもたちや孫たちやひ孫、やしゃご、に話して聞かせたのかもしれません。アダムの子セツにしても、エノシュにしても、ケナンにしてもマハラエルにしてもヤレデにしてもエノクにしてもメトシェラにしても、じいさんアダムの回顧録や武勇伝?を、家族が集まるごとに、夜な夜な聞かされ、耳タコだったかもしれません。「アダムじいさん、もういいよ。その話は空で言えるほどに、おぼえちゃったから」と言われていたかもしれません。しかし、それでよかったのです。系図は口頭で引き継がれ、またその系図にまつわるエピソードも語り継がれました。そして彼らの神様に対する信仰も、愛も継承されました。この系図は、愛のバトンリレー表でもあるのです。

では、私たちはどうでしょう。いえ、私はどうでしょう。私は、親からこの信仰を受け継いだのではなく、私から始まっています。そして、子どもたちはどうでしょう。洗礼は受けている子どもたちではありますが、彼らは、残念ながら教会に行けていません。子どもたちが私の信仰を受け継ぐかどうかはまだ分かりません。まあ、私の信仰は吹けば飛ぶような信仰ですから、大したものではありませんが、貧乏人の私には、譲る財産もなく手渡しできるのはこのバトンしかないのです。では、もし子供たちがこのバトンを受け取ってくれなければ、私から始まった信仰のバトンは私の代で終わるのでしょうか。

アッ、今、言った私の言葉には、誤りがあります。イエス・キリストへの信仰は、私から始まったのではありません。私にイエス・キリストを紹介してくれたアメリカの大学で出会った、韓国人のパク兄弟、そして祈りのグループとして私と共に育った、年は私より若いのですが、3人の信仰の先輩、今はオーストラリア在住の韓国人のキュウ兄弟、シンガポールの中国人ウォン兄弟、そしてアメリカ在住のインド人キム兄弟、彼らから、確実にイエス・キリストの愛のバトンを受け取っているのです。では、私は、だれにこの愛のバトンを渡しているのでしょうか。私の子どもたちでしょうか。正直、自信はありません。希望はもっていますが。子どもたちには、いつかもっときちんと手渡したいと祈り願っています。

しかし、この愛のバトンの受け取り手は、だれでもいいのです。また、この愛のバトンは無尽蔵にあります。いくら渡しても、また私たちの手元には残ります。まるで、イエス様のパンと魚の奇蹟のように。

愛のバトンは、私の手元にあります。私は、今、この愛のバトンを誰かにしっかりと手渡し、その人が確実に受け取ったことを確信したいのです。町で配られているような、ポケット・ティッシュのように、だれかれ構わず、差し出して、受け取った後は知らない、ということのないようにしたいのです。できれば、アダムのように、そのバトンがセツに渡り、セツからエノシュ、エノシュからケナン、ケナンからマハラエル、マハラエルからヤレデ、ヤレデからエノク、エノクからメトシェラ、メトシェラからレメクまで受け継がれるのを見届けたい気持ちです。そして、セツからレメクまでがそうだったかも知れないように、「じいさん、あんたのイエス愛はよう分かった。イエス様はじいさんを愛し、じいさんもイエス様をとことん愛したんだよな。あんたの証しは耳タコだ。空で言えるぐらい覚えてしまったよ」と私は言われたい、と思うのです。

この歴代誌にアダム以下の名が記されているように、いのちの書に私の名前がひっそりとのせられていてほしい。愛のバトンのリレーの順番をしめした紙に、韓国のパク兄弟の次に私の名前があり、その次に私が渡すべき人の名があり、私はそのリレー表をながめて、イエス様の御名をほめたたえ、また、イエス様に「よく走ったね」とほめられたい。

パウロは、信仰のことをトラック競技になぞらえて次のように述べています。

「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」(1コリント9:24-25)パウロがなぜ、陸上競技のことを持ち出したかというのには、ある解説書では、「コリント郊外のイスムスで、二年に一度開かれた競技会のことと信仰をなぞらえたのかもしれない」というようなことが載っていました。

この歴代誌にしても、またマタイ書の第1章にしても、系図は、神様への愛のバトンリレー表であり、また神様の朽ちない冠を受けた人々の記録であります。皆さんは、誰から愛のバトンを受け取り、また誰へと渡そう、また渡してこられておられるのでしょうか。ご自身の愛のバトンリレー表を作ってみませんか。それが、そっくりそのまま、イエス様の「いのちの書」に書き写されることを願いつつ、です。

パウロは、先ほどお読みした信仰の馳場を走り抜く表現の前に、次のように、私たちに告げ、同時に自分自身にも言い聞かせ、自分自身をはげましています。

「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(9:23)共に朽ちない冠をイエス様から授けていただき、イエス様から「よく走ったね」とお褒めの言葉をいただきましょう。

お祈りいたします。

主のいのり