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メッセージ主題:『たましいの救いを得て、いきいきと生きる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年4月25日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌261「流し給いし」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「祈ります求めます」

交読: 交読文26:詩篇第84篇:新聖歌p. 900-901

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「主を仰ぎ見て」

聖書拝読:ペテロの手紙第一1章3節~25節(新改訳聖書)

中心聖句:

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(8-9)

メッセージ主題:『たましいの救いを得て、いきいきと生きる』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、ヤコブの手紙の第5章から、『信仰による祈り』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。ヤコブ書5章では、おもに忍耐と祈りのことが記されています。忍耐することと祈りは、信仰生活の同一線上に平行してあります。耐え忍び、心を強く保つためには、祈りが必要です。主により頼むためには、無心で祈り込むことが重要です。先週は、その「祈り」のこと、特に「祈り愛」LOVEの愛ですが、「お互いに祈りあう」ことの大切さを学ばせていただきました。

今週から、ペテロの手紙に入ります。

今朝は、ペテロの手紙第一の第1章から、『たましいの救いを得て、いきいきと生きる』と題しまして、神様からのメッセージを拝します。第一ペテロ書1章では、おもに「主にあっていきいきと生きる」ことへの励ましが記されています。ペテロがローマで殉教されたとする紀元64年ごろより少し前に、ローマ帝国の支配下にあって、キリスト者に対する悪意からの非難や攻撃に苦しむ兄弟姉妹を励ますために、この手紙は書き送られたものです。今朝は、信仰の試練は、たましいの救いを得て、希望へ、そして確信へと導かれることを学びたいと思います。

短くお祈りいたします。

ペテロは、信仰者は、「しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならい」(1:6)と述べています。信仰には試練がつきものであり、それを悲しんでもいいんだと兄弟姉妹を諭しています。悲しいときに無理して喜ぶ必要はないと言っています。これは、ある種、ひとつの救いではないでしょうか。悲しいときには泣き、嬉しいときには喜ぶ。自然体と信仰を、主はペテロを通して、私たちに指し示してくださっているように思えるのです。信仰ゆえに、つらい時に無理して喜ぶ必要はない、信仰とはもっと自然体であっていいのではないかと私なんぞの凡人は思うのであります。

私たちは、パウロの次のような言葉を知っています。「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)このみ言葉は確かに真実です。パウロの言いたいことも理解できます。しかし、「患難さえも喜んでいます」とは、患難のまっさ中にある人にとっては、なかなか言えないことばであります。また、「心頭滅却すれば火もまた涼し」的な悟りを開いた人なら、いざしらず、凡人の私たちには、いえ、煩悩どっぷりの私には「気持ちの持ち方ひとつで、いかなる苦難・苦痛も感じられなくなる」というは、無理に近いのではないかと思うのであります。

しかし、ペテロは「痛い時は痛い、悲しい時は悲しい、つらい時はつらい、と言っていいんだよ」と言ってくれているように感じます。もちろん、それだけではダメで、この痛みをともなう信仰の試練は、「金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉にいたるものであること」(7)であると加筆しています。詩篇でもそのように歌っています。「神よ、まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。」(66:10)。そして、私たちは、主は私たちに乗り越えられない試練を与えられない、ということも知っています。パウロが1コリント10章13節で述べている通りです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」この脱出の道とは、必ずしも具体的な助けというわけではなく、試練を乗り越える内からの力、つまりイエス様であり聖霊様であり、聖書のみことばのことだと解釈できます。また、イエス様への信仰だとも言えるでしょう。

ペテロはそのことを、今日の中心聖句で訴えています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(8-9)

イエス様への信仰には、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに」みたす力があります。その喜びとは、たましいの救いの喜びであります。私たちが、一度このたましいの救いの喜びを、また平安といっていもいいでしょう、その喜びを味わったなら、その喜びや平安を力として、試練を乗り越えることが出来るのかもしれません。いえ、できるのです。私たちの愛する主は、乗り越えられない試練を与えられません。逃れの道として、たましいの救いの喜びと平安を与えてくださいましたし、聖書の御言葉を備えてくださっています。ですから、パウロは、先ほども申しましたように、「患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出す」からだと、強調しています。では、今さらかも知れませんが、パウロの言う希望とはなんでしょう。パウロは、1コリントの13章愛の章で、締めくくりに「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13:13)私たちが、天の御国に戻る時、私たちの信仰も希望も、現実のものとなるのです。ですから、残るのは神様の愛と神様への愛です。信仰とは「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」であるとヘブル書(11:1)では説いていますように、私たちが天の御国に戻る時には、天の御国への信仰は現実のものとなり、信仰ではなくなります。また、私たちの希望は永遠のいのちを持ち、神様と共に平安に過ごすことでありますから、天の御国ではこれも現実ものもとなります。

ただ、今、この世では、私たちは、その天の御国をぼんやり映るものとしてしか見ていせんし、その一部分しか知りません。パウロが次のように説いているとおりです。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しかしりませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全にしることになります。」これが天の御国でのできごとです。

私たちは、天の御国での永遠のいのちの希望を得ていますが、ぼんやりと映るものしか見ていないし、また一部分しか知らない。ですから、不安になるのかも知れません。また、試練にあうときにゆらぐのでしょう。しかし、それは当然のことといえば、当然のことなのです。ですから、ペテロは、私たちは、「しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならい」(1:6)つまり「あがいても、もがいても、苦しんでも悲しんでもいいんだ」と諭します。先ほどからも申し上げていますが、ただそれだけで終わってしまっては何もなりません。試練は、私たちが神様に立ち帰り、より頼むためのものです。試練の先に、喜びと平安、そして永遠のいのちという希望が備え得られているのです。イエス様はおっしゃいます。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)試練によって悲しむ人は、主によってなぐさめられ、生きる希望を与えられるのです。

試練にあっても生きる希望を失わないためには、私は天の御国にて永遠のいのちと喜びと平安が与えられるという確信を得ることだと、私は考えています。信仰によって、その確信を得るのです。なぜなら、イエス・キリストは実在し、自らの尊い命を投げ出し、私たちの罪を贖われ、三日目に実際によみがえって、私たちもキリストと共に死に、共に蘇って永遠のいのちを得ることが許されたのです。そのことを信じるならば、私たちにとって、永遠のいのちは、「希望」ではなく「確信」となっているはずです。「希望」とは、将来の期待であり望みでありますが、実のところ、まだ不安定なものです。しかし、私たちが信仰によって永遠のいのちの確信をえるならば、試練の苦しみは、すでに光につつまれた出口の見えたトンネルのようなものなのです。出口の見えない苦しみほどつらいものはありませんが、出口が見えていたら、そしてその出口は、またひとつ永遠のいのちに近づいたものですから、その試練は、ある意味喜びとかわるのかもしれません。実はパウロはこのことを言いたくて、「患難さえも喜んでいます」と言っています。しかし、また堂々巡りをしているような気もしますが、このパウロの「患難さえ喜ぶ」というのは、患難を乗り越えさせていただいた後のことば、振り返ってみたときの言葉ではないかと思うのです。試練の時には、歯を食いしばらないといけない時もあるでしょう、涙が拭いても拭いてもとまらない時もあるでしょう。ある意味ふんばらないといけない、その踏ん張る力は、信仰によって救われている、罪赦されているという確信から、主への感謝からわき上がってくるものではないでしょうか。信仰は私たちの力でがんばる必要のないもの、神様から与えられているものであって、自然体で受け入れるものであるはずです。私たちは、信仰が、試練を乗り越える時の力だということは知っていますが、信仰自体は、がんばる必要のないもの、ただただ受け入れるものであることを理解しているでしょうか。私自身は、長い間勘違いをしてきていたような気がします。

さて、皆さんは、どうでしょうか。「救われた、救われている、罪は赦されている」という確信はおありでしょうか。また、みなさんにとって永遠のいのちは希望でしょうか、それとも確信でしょうか。信仰によって、その確信を神様からいただいてください。そうすれば、「たましいの救いをえて、いきいきと生きる」ことができます。試練はあります。しかし、試練に打ち勝つ力は、すでに備えられているのです。その力は、罪は赦され、救われているという確信に宿り、私たちの心の内にいきづく聖霊様の働きの結果なのです。この世にあって、いきいきと生きるには、神様からいただいたイエス様への信仰こそ、その秘訣であり力なのです。

さて、天国長屋の八さん、熊さん、今朝の『たましいの救いをえて、いきいきと生きる』というメッセージで、何か思わされたこと考えさせられたことはございますでしょうか。八さん、熊さん、いかがでしょう。

―――――

八: あのペテロはんが、「がんばらなくてもええんやよ」と教えてくれていたなんて、初耳やわ。

熊: そやなぁ。ヘテロはん、ゆうたら、猪突猛進がたのお人や。

「がんばれ」という旗ふりかざしているように思ってたけど、ちゃうんやな。

なんか、ほっとしたわ。

八: 「悲しんでもええんやでぇ、痛い時は痛いゆうてもええんやでぇ。」って、

なぐさめられるわ。ちょっとみなおした。

熊: ちょっとみなおしたって、えらそうに。

八: ちゃうがな。わてのいいたいのは、ペテロはんにしてもパウロはんにしても偉いお方や。

けんどな、みんないっしょや、ちゅうこっちゃ。

「痛い時は痛い、悲しい時は悲しい、しんどい時はしんどい」正直にゆうたらええんや。

ペテロはんの信仰も、パウロはんの信仰も、みんな、わてらとおんなじや。

熊: どういうこっちゃ。信仰がおんなじやって。

八: さっき、牧師はんがゆうてはったやないか。信仰はあたえられるもんやって。

神様からのお恵みや。つまりは、救いとおんなじやちゅうこっちゃ。

神様の救いは、信じる人にも信じない人にも、平等に降り注がれている。

信仰も受け取るか受け取らへんかや。

神様は、わてらの自由意志にまかせてくれてるんや。

熊: ちょっと、待ってや。けど、イエス様は弟子たちに向かって、

よく「信仰の薄い者たち」って言ってはるやないか。

八: たしかになぁ。そうゆうてはるなぁ。でも熊、「信仰の濃い者たち」っていう言葉、

聞いたことあるか。

熊: ないなぁ。でも「信仰の浅い人」とか「信仰の深い人」とかゆうやないか。

八: 「信仰の薄い者たち」ってゆうたのは、つまりは「信仰がない」ゆうこととちゃうか。

それに「信仰の浅さ、深さ」は、信仰の受け取る程度のことをなのかもしれんで。

熊: じゃあ、これはどうなるん。イエス様がペテロはんにいいはったやん。

「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」って。

信仰ってなくなるもんかいな。

八: 信仰は、神様からのプレゼントやから、いちど受け取っても、

それを手放すこともできるんとちゃうか。

熊: ああ、なんかわからんようになってきた。ようは、救いも信仰も神様からの恵みや、

そして、「信仰こそ勝利や」ちゅうこっちゃな。

八: ちょっと、話飛びすぎやけど、「信仰こそ勝利」そして、その信仰は、みんな平等に

与えられているちゅうこっちゃ。

熊: そこは、感謝やな。ええ、おれたちゃ、学はあれへんし、財産もない。

けど、「イエス様いのち」という信仰はいただいている。

それだけで、生きていけるちゅうもんや。

八: そや、水前寺清子や。

熊: なんや、その水前寺清子って?

八: 「ぼろは着てても、心はにしき。どんな花より、きれいだぜ」

熊: わかった、そこまででやめとこ。それ以上うとたら、YOUTUBEから著作権侵害で

訴えられるかもしれへん。このごろうるさいねん。

それにな、あとの歌詞で「男なら」って出てくるやろ、どこぞの団体から

「男女差別や」って抗議来るかもしれへんから。もう今は昭和の時代じゃあらへんし。

八: 分かっとるわいな。でも、わてが言いたかったんは、心は錦の織物を着ているように、

気高くて、そして心豊かでありたい、それが「イエス様いのち」ってことやろ。

熊: でも、「イエス様いのち」っていうわてらの心には、どんな花がさいてるんやろ?

八: さしずめ、「しらゆり」ってとこちゃう?

熊: 八と「しらゆり」なぁ、(想像する)。あかん! 頭ん中で、拒否しよるわ。

八: じゃあ、熊やったら、どんな花や。どんな花が心にさいてんねん。

熊: あてのは、あ~、ひまわりやな。神様の方をいつも向いてる。

八: ええなぁ、ひまわりか。いつも心はイエス様に向けておきたいもんやな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。熊さんの心に咲いているのはひまわりですか。いいですね。生き生きと生かされている感じもよくでます。私たちの心に咲く花は、どんな花だろうと「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」なら、枯れません。たとえ、私たちが試練のまっさ中に置かれていたとしても。試練と言うトンネルの先には、必ず出口があり、その出口にはイエス様がいらっしゃいます。あたかも、弟子たちがガリラヤ湖で一晩中漁をして、収穫がまったくなく疲れはてていた時に、イエス様が岸辺に立っておられ、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と言われ、「反対側に網をおろせば、魚はとれます」と弟子たちを励まされたように(ヨハネ21章)、私たちの主はねぎらいの言葉をかけられるだけではなく、逃れの道を、いきいきと生きる道もお示しになられます。そして、私たちは、与えられた信仰によって、主の言葉にしたがうと、魚が大漁となったのと同じように、大きな祝福を得ることができるのです。ただただ、主の声に耳を傾け、疑わずその通りにするだけで。私たちは、たましいの救いを得て、顔を上げて立ち上がり、再びいきいきと生きることができるのです。

ただいまより、黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇16篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、ヨハネの福音書21章12節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「さあ来て、朝の食事をしなさい。」x2

(詩篇16篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちのとりで

だれを私はこわがろう。」愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「たましいの救いを得て、いきいきと生きる」と題されまして、主が試練の時にも変わらず私たちのそばにいてくださり、私たちに信仰を与え、私たちを励まし、力づけてくださいますから、心から感謝いたします。私たちが常に主を見上げ、主の光によって、いきいきと生かされますよう、私たちをお守りください。

私たちの主、贖い主であられる主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

献金の時

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。