· 

メッセージ主題:『生ける石として』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年5月2日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌282「見ゆるところによらず」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「あがめます」

交読: 交読文27:詩篇第90篇:新聖歌p. 901-902

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「主を仰ぎ見て」

聖書拝読:ペテロの手紙第一2章1節~10節(新改訳聖書)

中心聖句:

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(4-5)

メッセージ主題:『生ける石として』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

もう5月になりました。今はゴールデンウィークの真っ最中です。楽しいはずのゴールデンウィーク。けれど、コロナ禍で身動きがとれません。去年もそうでした。今年も同じですが、来年は活気のあるゴールデンウィークであってほしいと願っています。さて、5月から、ほんの少しスタイルを変えたいと思います。もう少し肩の力を抜いた、すみません、いまでも肩の力をぬいているじゃないかというご批判はあるかもしれませんが、もっと神様と素でお付き合いをさせていただこうかと思わされています。神様と素でお付き合いさせていただくということは、おききくださっておられる皆さまとも素でお付き合いさせていただく所存です。まあ、まだ今日が初日ですし、イエス様のことをお話しするわけでございますからそうそう変わりはいたしません。以前とまったく変わってないやないかとおしかりを受けそうでございますが、私の心の中では変わっておりますので、それが徐々ににじみ出てくればと思います。何事にも辛抱が肝心、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

昨日、アマゾンのプライムビデオで、「ローマ法王の休日」という映画を見させていただきました。全編イタリア語ですから、もちろん字幕スーパーでしか理解できません。悩める法王の姿、最後の結末がショッキングでした。新法王が悩んだ末、就任時の挨拶で「自分は不適切だと」辞任するのです。すべての人の期待を裏切り、またその映画を見ている人たちも失望のどん底に陥れました。映画はそれで終わっているのでございます。あってはならないことでありますが、彼は誠実であったとも言えます。人生において何が誠実なのか、自分自身に誠実でないものが、神様に誠実であるはずがございません。昨日はそんなことを考えさせられました。まあ、だからと言って、今日からのメッセージのスタイルが少し変ろうとしたということではないのですが。

さて、先週からペテロの手紙に入っております。先週は、ペテロの手紙第一の第1章から、『たましいの救いを得て、いきいきと生きる』と題しまして、神様からメッセージをいただきました。第一ペテロ書1章では、おもに「主にあっていきいきと生きる」ことへの励ましが記されております。ペテロがローマで殉教したとされる紀元64年ごろより少し前に、ローマ帝国の支配下にあって、キリスト者に対する悪意からの非難や攻撃に苦しむ兄弟姉妹たちを励ますために、この手紙は書き送られたものでございます。先週は、信仰の試練は、たましいの救いを得て、希望へ、そして確信へと導かれることを学ばせていただきました。

今朝は、ペテロの手紙第一の第2章から、『生ける石として』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。第一ペテロ書2章では、3部構成となっております。1節から10節までは「生ける石」、11節から17節までは「神のしもべとして生きる」、そして18節から最後の25節までは、「しもべとしての心構え」、でございます。今朝は、その中の第1部にある「生ける石」のことを考えさせていただきたいと思います。

短くお祈りいたします。

「生ける石」とは、なんでございましょう。もちろん、私たちの主、イエス・キリストのことであります。4節に示されている通りです。「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」けれども、「イエス・キリストが生ける石」として、この手紙を読み、その朗読を聞いた人たちが納得したのでしょうか。いえ、納得したのなら、なぜでございましょう。英語の表現で、「博識の人」のことをWalking Dictionary と言います。つまり、「歩く辞書」でございますな。この「歩く辞書」という表現は、聞けば「ホホーウ、なるほど」と納得する人は多いのではないでしょうか。では、「生ける石」はどうでしょう。学のない私には「生ける石」と言われてイメージするのは、ちょいと、、、、まあ、むりくり言いますと、石から水が流れ出て、そこを通る人々の喉を潤し、疲れた人々をいやす、そのような石でございましょうか、岩清水のようなイメージしかございません。この聖書の箇所の「石」は、英語の聖書では、cornerstone と訳されております。ただ単なる「石」ではございません。日本語では、cornerstone は「建物の隅石、礎石」となります。隅石や礎石は、その建物の基盤・基礎となるものでございます。大切なものであることは分かりますが、「生ける隅石、礎石」これでもまだ、私にはピンときません。

旧約聖書を紐解きますと、詩篇の118篇には次のようにでております。「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった」(22)とございます。「捨てられた石」とは「無価値な存在」ということでありましょう。しかし、これでも、まだ私なんぞは納得いたしません。プロの建築士が無価値な不要な石として捨てたにもかかわらず、それが建物の土台となる。どうも解せません。

もう少し、「石」そのもののことも調べたいと思いました。その際だから、「石」のイメージを膨らませてみましょう。創世記28章のところでは、イサクがヤコブを呼び寄せ、ヤコブの母リベカの父ベトエルの家に行き、リベカの兄であるラバンの娘たちの中から妻をめとるようにと、言って、ヤコブを旅立たせます。その旅の途中で、ある夜、ヤコブはその所にあった石のひとつを取り、それを枕にして、その場所で横になりました。その夜、夢の中で、「ひとつのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」のを見るわけでございます。そこに主がヤコブのかたわらに立っておられ、ヤコブの横たわっている土地をヤコブとヤコブの子孫に与え、子孫は東西南北へと広がる、と約束されるのであります。ヤコブは眠りから覚めて、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ、神の家にほかならない。ここは天の門だ。」と言って、ヤコブは自分が枕していた石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ、、、とございます。その場所をヤコブはベテルと名づけました。

石はある意味、神の宿るもの、神聖なもの、権威あるもの、として扱われてきているのかもしれません。ですから、神はモーセに次のように伝えました。「あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。」(出エジプト記20:25)また、モーセに授けた十戒も石の板でございました。主はおっしゃいました。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえを命令の石の板をあなたに授けよう。」(24:12)

これらの御言葉だけで、一般化するのは無謀でございますが、山から岩、岩から石へと、神の宿るもののイメージが膨らんできているのかもしれません。また主がモーセに仰せになったように、人間の手によって加工された石を祭壇につかってはいけない、と言うことも考えれば、詩篇の「家を建てる者たちの捨てた石。」とは、人間が加工できなかった石、加工には不向きだった石、それ自体に神の神性さが宿っているような気がいたします。神は人間に左右されない。当り前の話ではありますが、世界を造られた創造者である神が、神が造られた創造物である人間の意のままになるはずもありません。人間の意のままにならない、またそれを拒絶するほどの石が、実は、もっとも神聖で尊いものであり、それが人間が建てる建物ではなく、神の家の礎の石になるべきなのだと、聖書は語るのであります。

神様は、それをもっと明確にダニエルを通して示されました。ダニエル書2章です。バビロンの王ネブカデネザルの夢を、神様の知恵によってダニエルが解き明かしをいたしました。そのところを少し読んでみましょう。ダニエル書の2章31節からです。お読みします。「王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたがみておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。その時、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」(35) この石は、人手によらずということでありますから、神によって切り出されたものでございましょう。まことに神聖なる、神の力を秘めた石で、人間が作った国である像を打ち砕き、その石は山となった、ということであります。この夢の解き明かしは、こうです。と言っても私が解き明かしているのではございません。ダニエルを通して神ご自身が解き明かしをされておられる訳ですけれど、、、『金の頭はバビロンの国、その次の国は少し劣っている銀の国、その後に、青銅の国が現われ全土を治め、次の鉄の国はもっとも強く、しかし、足の指は、鉄の強さもあるが、粘土の弱さもある。その時代に天の神の国が現われ、その鉄の国も、その上にあった全ての国々もことごとく打ち砕いて跡形もなくなる。』 45節では、ダニエルはその夢の解き明かしのまとめをしております。「あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらず山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」 

石とは、神の力であり、また神ご自身のことでもあるのでしょう。「神様は生きておられる」と聖書も私たちも、このような表現を使います。ですから、「生ける石」とは、神ご自身であり、神の御子イエス・キリストのことでもございましょう。イエス・キリストが「生ける石」であるならば、「家を建てる者たちの捨てた石。」それは、人の手には迎合しない、人には屈しない、凛とした強さ、神性がそこには現れております。そして「生ける石」であるイエス・キリストが、礎の石になった、つまり神の家の礎となり、私たちの救いとなったということを示唆しているのでありましょう。また、ペテロの言うところの「人には捨てられた」とは、イエス・キリストが当時のユダヤ人たちに見捨てられ、十字架にかけられ、抹殺されたことを意味しております。もちろん、私たちの主は負け犬ではございません。イエス・キリストは、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石であり、また神の御子でもあますから、三日目に死を克服してよみがえり、私たちに、「永遠のいのち」の希望をお与えくださいました。

しかし、それはそれとして、ペテロはもう一歩踏み込んで、私たちに迫ってきます。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」イエス・キリストを信じる私たちも「生ける石」となりなさい、と勧めてきます。つまり、イエス・キリストと同じように、世と迎合してはならないと注意するのであります。そして、「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」では、「神に喜ばれる霊のいけにえ」とは何でございましょう。私たちが、神にささげられるもので、神が喜ばれるもの、それも霊のいけにえ。詩篇には、動物のいけにえ以外に、「義のいけにえ」(4:5, 51:19)と「感謝のいけにえ」(50:14&23, 107:22, 116:17)という表現がございます。「義のいけにえ」とは「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」と4篇5節にあります。また51篇19節の「義のいけにえ」の前の17節には「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。つまり「義のいけにえ」とは「砕かれた悔いた心で、主に拠り頼む」生き方であると言えるでしょう。

また「感謝のいけにえ」は、50篇14節では「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」とあり、同じく23節では「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」とあります。107篇22節では「彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。」116篇17節では「私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。」とございます。 「感謝のいけにえ」とは、もちろん「感謝」の心を主にささげることには違いございませんが、「感謝をして、主をあがめ主に従い、正しいことをしつつ、主にあって喜ぶ」という生き方ではないでしょうか。

結局、「生ける石になる」ということは、「私たちの主イエス・キリストに倣う」ということでありましょう。霊のいけにえである、義のいけにえ・感謝のいけにえを主にささげる、つまり、「砕かれた悔いた心で、主に拠り頼み、主に感謝して、主をあがめ主に従い、正しいことをしつつ、主にあって喜ぶ。」そのような生き方をするということ、そして石自体に神の力と神性がやどり、そして石の背景には主の山がございます。私たちは、心に宿る聖霊様という、主の絶対的な平安とその力によって、生ける石となりえるのでございます。どうか聖霊様に働いていただきましょう。聖書の御言葉は、私たちの内に宿る聖霊様によって、私たちの心に息づいて、私たちを「生ける石として」この世に迎合することなく、しかし生き生きと生きるようにしてくださるのです。

さて、皆さん、お待ちかねの天国長屋の八さん、熊さんでございます。八さん、熊さん、今朝の『生ける石として』というメッセージで、何か思わされたこと考えさせられたことはございますでしょうか。いかがでしょう。

―――――

八: なんか、ペテロはんが、「生ける石」っていうと、重みがあるなぁ。

熊: なんやねん、その重みって、石だけに重たいわな。

八: ちゃうがな。

ペテロはんは、もともとはシモンという名で石っていう意味やったそやないか。

ところがやな、イエス様がペテロはんにアラム語で「ケパ」っていうあだ名つけはって、

それが「岩」っていう意味らしいやん。

その岩をギリシャ語で「ペテロ」っていうんやから。石から岩に大出世や。

ペテロという岩男君だけに、「生ける石」って、、、

しゃれもはいってるけど、重みあるやん。

熊: ペテロはんも、わてらと同じように、「イエス様いのち」、なんやなぁ。

イエス様が「生ける石」で、イエス様を信じるわてらも、「生ける石」や言いはんねんや。

つけもん石やのうて、「生ける石」や、どうやって生きよかいねぇ。

八: 牧師さん、今日は「石」というイメージ膨らましてはったなぁ。

熊: そや。「石」は、神聖なもので、神の力が宿っている、みたいなこと、言いはった。

八: それに、あの「生ける石」は、英語でコーナーストーン。

熊: んで、八よぉ。なんやったっけ、コナストーンって?

八: 粉ストーンちゃうがな。コーナーストーンや。もう忘れてしもたんかいな。

熊: ストーンやから、「石」やっちゅうのは分かるんやけど。

八: 隅の頭石や。家を建てるときの、四隅の柱を支える石や。

家の基礎・基盤となる石のこっちゃがな。

熊: そや、そや、そのコーナーストーンは、結局は、信仰の土台ちゅうことやろ。

八: その石は、人の手で加工された石とちゃうんや。

神様の山から、神様が切り出してくださった石や。

熊: それが、イエス様やな。それに、イエス様がくださった聖霊様や。

八: イエス様は生きてはる。俺たちの心には、聖霊様が生きて働いてくださっているんや。

熊: ありがたいよなぁ。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、

救いを受けるわてらには、神の力や。」、さかいな。

イエス様の救いの福音こそが、わてらの生きる糧や、生きる希望や。

八: 熊、ええことゆうやないかぁ。そうや、イエス様は生きる希望や、

わてら、霊のいけにえ、ささげるもんとならなあかんねん。

熊: 牧師はん、ゆってたな。

「霊のいけにえ」には、「義のいけにえ」と「感謝のいけにえ」があるって。

八: そうや。、、、けどな、ややこしいこと考えんでええんやで。

要はな、イエス様に接ぎ木されて、ずーっと、つながっときなはれ、ゆうこっちゃ。

熊: さよかぁ、、、ちょっと、ほっとしたわ。ぎょうさん言われると、頭ん中、ごちゃごちゃや。

もうちょいと、シンプル―にしてほしいもんやで。

八: まあ、しゃーないんちゃうか。あっちはあっちで一生懸命なんやし。

み言葉を取り次ぐのも大変なんや。

まあ、よう三振もしはるけど、ときどきヒットもあるし、バントという手も使いはる。

熊: なにゆうてんねん。今年の阪神はとにかく強い。三振もあるけど、ホームランも多い。

今から優勝まちないなしや。リモート応援も大盛り上がりや。

八: だれが野球の話をしてんねん。牧師さんの説教の話やないかいな。

熊: せやった、せやった。シンプルが一番や、ちゅうはなしやった。

八: 牧師さんは、わてらの頭ん中に「生ける石」のイメージを膨らまそうってしてはんねや。

熊: 結局、「生ける石として」ちゅうことは、イエス様に感謝して、祈って、

喜んでたらええんやな。第1テサロニケの5章16節から19節やな。

あの、牧師はんの大好きなみ言葉。

八: せや、けんど、自分に都合のええことばっかり、選んで感謝しててはあかんで。

熊: わかってるわいな、そんなこと言われいでも。

ぜーんぶを受け入れて感謝する。それが、従うちゅうこっちゃろ。

八: 神様は、ときどき、てんご言いはるようなときもあるけんどな、

本当は、わてらのことをおもて、言ってくれてはる。

熊: そや、それが分かってるから、辛抱できるんや。まあ、祈らんと辛抱でけへんけど。

八: そやで、感謝なときも祈れるけど、祈りは辛抱の力や。辛抱してたらええことある!

牧師さん、とりとめのない話してもうたな。堪忍やで。

「生ける石として」の意志を強~もって、わてら、イエス様を喜んでおります。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。神様はときどき、てんご言いはりますか。そうですなぁ。そう思うときもありますね。自分の思いとは違うところへ、ときどき神様は私たちを導こうとしはりますから。イエス様も悩まれましたから、凡人の私たちはなおさらのことです。けれど、「生ける石」は、私たちの心の中で、しっかり根付いてます。それを信じて、主を喜びつつ、前を向いて行きましょう。

ただいまより、黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと示されたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇118篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書22章21節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

(詩篇118篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」愛する天のお父様、主の御名をほめたたえます。今朝は、「生きた石として」と題されまして、イエス・キリストに倣う者とされること、また、それは霊のいけにえをささげることでもあることを学びました。私たちが常に主を想い、主に拠り頼みつつ、主にあって生き生きと生きることができますよう、常にお導きください。

私たちの主、救い主であられる主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

献金の時

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。