メッセージ:「信仰の平和ボケに注意」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

5月6日

担当:若竹孝行

メッセージ:「信仰の平和ボケに注意」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:2歴代誌16章〜18章

16章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:16:9

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つとなっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

歴代誌第二の14章から16章までは、南ユダの王アサのことが記されています。アサ王は、創造の神を熱心に信じ、偶像礼拝をやめさせていました。ところが、北イスラエルとの長い戦いに苦慮していたアサ王は、シリア・アラムの王に同盟を結び、助けを求めました。このことが、神への背信として責められ、両足ともに病気になってしまいます。しかし、その時でさえ、アサ王は、主に救いを求めず、医者に治療を求めてしまい、2年後に死んでしまいます。

アサ王が、クシュ人の代軍勢と戦わざるを得なかったとき、アサ王は主に拠り頼みました。14章11節で、アサ王は次のように主に懇願しています。

●「主よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたは変わりありません。私たちの神、主よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください。」

アサ王の祈りは聞かれ、主がクシュ人を打たれ、アサ王の軍隊は、それを追撃し、クシュ人を聖絶し、兵士たちは多くのぶんどり物を得ました。

また、15章では、預言者オデデの子アザルヤに主の霊が臨み、次のようにアサ王たちに告げました。(2)

●「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」

この預言によって、アサ王はなお一層、主をもとめ、民たちにもそのことを奨励します。

●「主と契約を結び、心を尽くし、いのちを尽くして、父祖の神、主を求めることと、だれでもイスラエルの神、主を求めない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、死刑にされることとした。」(12-13)とある通りです。

そして、王国分裂後、大きな戦いの起こらない日々、平和が、アサ王の治世15年~35年まで続きます。

しかし、この20年という平和は、アサ王と民に、心のゆるみを与えてしまいました。

アサ王の治世36年に、イスラエルの王バアシャがユダに上って来て、ラマという町を築き始め、ユダのアサ王のもとに出入りができないようにしてしまいました。つまり、ラマという町が関所の役目をはたし、アサ王を孤立させる役目を担っていたのでしょう。

ここで、アサ王は主に助けを求めるべきでした。が、しかし、この20年という平和は、アサ王に心のゆるみを起こさせ、主に拠り頼むことを第一としない、人間の知恵に依存する思考を植え付けてしまっていました。結局、アサ王は、シリア・アラムの王ハダトと同盟を結び、アラム王ハダトにイスラエルの王バアシャとの同盟を破棄させます。

このことが、主に対する背信とみなされ、主の怒りを買うことになります。結末は先ほど述べた通りであります。

私たちは、ここで何を学ぶべきでしょうか。もちろん、主を求め主に拠り頼むべきことは周知のごとくであります。が、今朝は、アサ王の平和ボケに注目したいと思います。

アサ王は、今でいうなら、熱心なクリスチャンでありました。かずかずの困難を主は乗り越えさせてくださり、クリスチャンは主に拠り頼んできたことに自信をもち、主の御名を賛美し、主を喜ぶのであります。そして、教会に平安がもたらされます。目立った悪魔の攻撃や誘惑も、また外からの迫害もなく、いそいそと日曜礼拝に足をむけ、御言葉に感謝し、また聖書の学び会や祈り会にも参加し、自らを「ああ、私はなんて熱心なクリスチャンだ」と自画自賛し、満足するのであります。もちろん、そこはクリスチャンらしく、賢く振舞わなければいけませんから、大胆に自画自賛することはなく、謙虚に、「いえいえ、クリスチャンとして当たり前のことをしているだけです。私はまだまだ足らない者です。」とつつましく振舞うのであります。そういう方は、朝のディボーションを欠かすことはありません。なにせ、優等生クリスチャンですから。

では、この信仰生活になにが足らないのでしょうか。この答えが分からない方は、優等生クリスチャンであろうがなかろうが、信仰の平和ボケをしていると言えるのではないでしょうか。かく言う私もそうでした。私も教会生活に一生懸命でした。私の生活は教会が中心となっていました。あの当時、私に欠けているものが、今朝の答えです。

私たちは、パウロを通しての、主のご命令をよく知っています。1テサロニケ5章16節~19節まででございます。

●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」

では、なぜ神様はこのことを私たちに望んでおられるのでしょうか。私たちが、主の証し人として、直接的にも間接的にも、主イエス・キリストの恵みを、救いを伝えるためであります。

もちろん、福音を伝える私たちも救いからもれることはあってはなりません。

ですから、パウロは、1コリントの9章で次のように訴えているのです。

●「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」(16)

●「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(23)

パウロは、クリスチャンは、福音を伝えて、なんぼ。伝えなければ災いであると私たちに迫ってきています。もちろん、誰しもが、雄弁な伝道師になりなさいと言っているわけではありません。伝道とは、言葉だけではありません。もちろん言葉も大事です。言葉を通してでしか伝わらないことも多くあるからです。しかし、その人の雰囲気や信仰は言葉だけでなく、その人の態度からも伝わります。むしろ、そちらの方が大きな割合を占めていると言っても過言ではないでしょう。ですから、主は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」とおっしゃるのであります。つまり、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」とは、福音を伝えるためのものでもありますし、また私たち自身が、福音にもれることがないようになるためでもあるのです。

ゆえに、イエス様も次の大宣教命令も私たちにお与えになりました。

●「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

イエス様の大宣教命令は、もう一歩踏み込んでいます。「あらゆる国の人々を弟子としなさい」。つまり、主を信じる者をすべて、主の証し者として立て、弟子となるように教育しなさいとおっしゃるのです。

信仰の平和ボケは、悪魔のささやきのように、じわじわと私たちの信仰に輝きをなくさせていきます。そして、私たちの信仰の目的をぼやかせてしまいます。そして、その信仰の平和ボケからは、なかなか立ち直れないのです。アサ王が病気の時に主を求めず、医者を求めてしまったことでも分かるでしょう。もし、私たちが、真剣に主の証し人として、主の愛を伝えていく者となるなら、それを阻止しようと、悪魔の総攻撃を受けるかもしれません。逆に信仰のぬるま湯につかり平和ボケしている人には、悪魔は攻撃してきません。彼らは悪魔の術中にはまってしまっているからです。悪魔は、主と心ひとつにしている、又はしようとしている人を攻撃します。しかし、主に拠り頼む者を、主は滅ぼすようなことはなさいません。必ず、主が勝利します。どうか、信仰の平和ボケに注意してください。そして、キリストの証し人として、福音を伝える者にならないのなら、災いであるということを真剣に考えてみてください。主の証人として、この世に対して堅く立つことが、どれほど主がお喜びになるかを考えてみてください。また、主の喜びが、自分の喜びとなる人生こそ、世の光地の塩として生きる幸いであることを考えてみてください。

お祈りいたします。

主のいのり