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メッセージ主題:『Plan-B』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年5月9日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌359「罪深きこの身を」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「御腕に抱いて」

交読: 交読文28:詩篇第91篇:新聖歌p. 902-903

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「主を仰ぎ見て」

聖書拝読:ペテロの手紙第一3章8節~22節(新改訳聖書)

中心聖句:

「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主として、あがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人にはだれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(14-15)

メッセージ主題:『Plan-B』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、週中、体調がよくなくて、寝ていなくても、横になっている時間を多く持ちました。少し熱もありましたので、ひょっとしてコロナではないかと、ちょっとビビッておりました。私には心臓疾患がございますが、私自身の身の危険というよりは、他の方に感染したり迷惑をかけたりするのではないかと、それが心配でございました。しかし、熱はさがりましたので、「コロナ」の疑念もかぎりなく薄くなりました。まあ、まだちょっと頭の芯のところに熱がこもっている感じではあるのですが、ほれ、この通り元気にしております。主に感謝でございます。

「ひょっとしてコロナ」と疑った「ひょっとして」という気持ちに、人は、簡単に喜ぶときもあれば、怯えるときもあるのだなと先週は思わされました。そして私もそのひとりでございます。英語で「ひょっとして」という表現は、”What if” となります。この ”What if” は、良い予想のときも悪い予想のときも使われます。が、しかし、今回の私のように、悪い予想をする場合が少なからずあるようでございます。

悪い予想は、当たってほしくはないものでございますが、万が一のことを考えて、もう一つの計画、英語ではPlan-Bと言いますが、その「逃れの道」を備えておく、それが、今で言うところのリスク・マネージメントなのかも知れません。今朝は、そのPlan-Bのお話でございます。

その前に、まずは先週のおさらいから。

先週は、ペテロの手紙第一の第2章から、『生ける石として』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。第一ペテロ書第2章では、3部構成となっております。1節から10節までは「生ける石」、11節から17節までは「神のしもべとして生きる」、そして18節から最後の25節までは、「しもべとしての心構え」、でございます。先週は、その中の第1部にある「生ける石」のことを考えさせていただきました。「生ける石」とは、イエス様のことでもございますが、イエス・キリストを信じる私たちも「生ける石」として、イエス・キリストに倣う者とされること、また、その「生ける石」とは霊のいけにえ、つまり悔いた砕けた心をささげる人であり、主の御前に膝まづいて、主をあがめる人のことでもあるということを学びました。

さて、今朝は、ペテロの手紙第一の第3章から、『Plan-B』と題しまして、神様からのメッセージをたまわります。第一ペテロ書第3章では、1節から7節では、ペテロからの「妻たるもの、夫たるもの」の姿勢が示され、そして8節から22節までは、「義のために受ける苦しみは幸いである」ことが記されています。正しいことをすると、それをほめられる時もあれば、その正しさによって、迫害や苦しみを受けることがございます。この時のPlan-Aは「正しいことをすることでほめられる、だろう」ということでありますが、そうそう、うまくはいかず、かえって苦しめられるはめになった、で、その時にPlan-B が発動するのでございます。クリスチャンにとって、この Plan-B は「逃れの道」であり、イエス様ご自身であり「主に拠り頼み、主を求める」ことでもあるでしょう。今朝は、このことを考えてみたいと思います。

短くお祈りいたします。

今朝は、もう答えが出てしまっております。事態が予想外にうまく運ばなかった場合のPlan-B「逃れの道」は、「イエス様」であり、「イエス様にすがる」ことでもあります。しかし、このPlan-Bは、クリスチャンであっても、実際にうまくいかないことも多いのではないでしょうか。牧師として、この正論を振りかざすことは簡単でありますが、それでは、Plan-Bを必要としている人に寄り添ったことにはならないのではないかと、私なんかは思ってしまうのであります。この天下の宝刀「逃れの道」を出すまえに、いろいろと悩み苦しむ必要を感じるのでございます。

たとえば、友人や知人が、学校や職場で、いじめにあっているとします。パワハラやモラハラでも結構です。あなたは、正義感がつよく、それを相手に抗議したとします。Plan-Aでは、相手は悔い改め、謝罪していじめはなくなるはずでした。ところが、Plan-Aの予想に反して、まあ、この予想はえてして裏切られることが多いのでございますが、、、相手は、今度はあなたをいじめの対象にしてきました。いじめられていた友人や知人は、知らん顔をきめてしまい逃げてしまいました。さて、ここでPlan-Bの登場です。あなたのPlan-Bでは、イエス様が助けてくださるはずです。イエス様がスーパーヒーローとなって、相手のいじめを阻止してくださるのでしょうか。イエス様がスーパーヒーローとなって現れてくださることは、まるで映画の世界ですが、イエス様が誰かを遣わせて、救い出してくださることはあり得ますでしょう。しかし、ほとんどのいじめの場合、いじめられる側は孤独です。ある牧師は、ここで詩篇13篇を出してくるかもしれません。まず初めの1節から4節をお読みいたします。

主よ。いつまでですか。

あなたは私を永久にお忘れになるのですか。

いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。

いつまで私は自分のたましいのうちで、

思い計らなければならないのでしょう。

私の心には、一日中、悲しみがあります。

いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。

私に目を注ぎ、私に答えてください。

私の神、主よ。私の目を輝かせてください。

私が死の眠りにつかないように。

また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。

私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。

ダビデは、敵にやられっぱなしで、「神様は私と共にいらっしゃるはずではなかったのですか」と疑いをもつぐらいにまで、落ち込んでしまいます。しかし、それでも、主を求め、主に助けを乞うています。ダビデは今までの経験からも、主が必ず救いの手を伸べてくださると信じているからです。

では、その後はどうなったのでしょうか。5節6節は、次のように続きます。

私はあなたの恵みに拠り頼みました。

私の心はあなたの救いを喜びます。

私は主に歌を歌います。

主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

この5節で、ダビデは、失意のどん底にあっても主の憐みにすがり、主に拠り頼みます。その結果、主がダビデに勝利をもたらします。単純明快な「信仰は勝利」の図式であります。これこそが、クリスチャンの「勝利の方程式」でありましょう。しかし、4節から5節には、大きなステップが隠されているような気がします。この4節から5節のところで、信仰のV字回復がみられるような気がします。つまり、4節までで、ダビデは、人間のできる限りの手立てを施したのでしょうが、すべてが思惑通りにはいかなかったことを示唆しているのではないでしょうか。八方塞がりの末、ダビデは人間の力を放棄し、神の憐みに寄りすがったのです。人はこの八方塞がりの状態の時、二つの道を選ぶのではないでしょうか。一つは自死であり、もう一つは神にすがるという道です。そして、神にすがるときに、どんな神でもいいわけではございません。世界最強の、この世を創られた創造の神、、、その創造の神を知っているものこそが、V字回復を期待できるのでしょう。そして、その期待によって、先取りの感謝をささげることもできるのです。しかし、ダビデも空手ではV字回復はありえませんでした。この4節と5節の間には、主による具体的で絶対的な助けがあったはずです。それは、この詩篇では記されておりません。しかし、Plan-Bである「主に完全に拠り頼む、寄りすがる」と言った方がいいかもしれませんが、その『寄りすがり』が導いたGod’s Rescue神の具体的な救いの業がなされているはずなのです。

さて、先ほどのいじめの問題ですが、その苦しみを分かち合う人がいらっしゃれば、乗り切れることもあるでしょう。が、しかし、いじめられている人はいたって孤独であります。その孤独が、その人を死へと追いやります。ダビデもその苦しみの中では孤独であり、八方塞がりでした。しかし、ダビデには、強い味方がいらっしゃることを確信しておりました。そのことは、いままでの、その強い味方である神様に寄りすがる経験と信仰が、その確信へと導きました。

Plan-Bがあるかないかによって、God’s Rescueという絶対的な神の救いを得られるか得られないかが決まるのです。「神の絶対的な救い」を導き出すのは、「神への無防備なまでの寄りすがりであり、明け渡し」であるPlan-B「逃れの道」であり、Plan-Bは、神への信仰とそれまでの神との歩みに支えられています。はぁ~、結局、牧師の正論に戻ってしまいました。いえ、これこそが「逃れの道」の真実だからこそ、ここにたどり着いてしまうのかもしれません。

いじめや苦痛を強いられている人の前で、牧師は無力です。いえ、私は無力です。プロの心理カウンセラーでもなければ、プロのソーシャルワーカーでもありません。ただただ、その方が、真のPlan-Bを得てくれることを祈り願うだけであります。また、その祈りの中で、上からの知恵が与えられる時もあるでしょう。

私は、Plan-Bである「主への寄りすがり」を支える、主に対する信仰と主との歩みを、その人が日々の生活の中に取り入れ、その人の呼吸と同じぐらい大切なものとなってくれるよう、イエス様とイエス様がお送りくださった聖霊様が働いてくださるように祈ることしかできません。私は実に非力であり無力です。

さて、今朝のメッセージのまくらは、このぐらいにして、皆さん、お待ちかねの天国長屋の八さん、熊さんにご登場ねがいましょう。八さん、熊さん、今朝の『Plan-B』というメッセージで、何か思わされたこと考えさせられたことはございますでしょうか。いかがでしょう。

―――――

八: Plan-Bって、英語は苦手やわ。なんか、洋画なんか観てても、

しょっちゅうでてくるけどな、このPlan-Bは。熊、分かったか?

熊: Plan-Bなぁ、「にっちもさっちもいかへんなったときに、頼りになるのはイエス様だけや」

ちゅうこっちゃろ。それをいつも心にとどめとかなあかんで、って。

万が一のときにな。そう言いたいんとちゃうか、牧師はんは。

八: 熊、よう分かっとるやないか。せやけど、なんで牧師さん、Plan-Bって言いはったんやろ。

けど、イエス様がわてらの中心なんやから、Plan-Aでもええんちゃうんかいな。

熊: せやな。でも、よう考えてみぃ? いつも、はじめっから、わてら、

イエス様中心で動いているやろか。そら、いつもイエス様のこと、思ってんで。

でも、そやないことも多いんちゃうかいな。

八: あぁ~、イエス様といつもお話しさせていただいてるけど、せやな、

Plan-Aは、自分が思ってること、やりたいこと、計画していることかもしれへんな。

熊: やろ。そんなもんやって、わてらは。聖人とちゃうねん。

八: え? じゃあ、わてら、子どもか。

熊: こども? あほかいな、その成人とちゃう。けど、わてら、神様のこどもやけどな。

八: 熊、うまいこと方向かえたな。ま、ま、わかってる。ちょっとチャチャ入れただけや。

たしかに、わてら、どっからみても聖い人とはちゃうわな。

熊: もう、ややこしいこと、せんでもええんやで。

聖人やなくても、それでも、ええんちゃうか、イエス様ゆるしてくれはんで。

うまいこといったときには、神様に感謝して、素直に、ハレルヤ!や。

けど、うまいこといかへんかった時には、やっぱりPlan-Bなんや。

神様に拠り頼むしか、手はあれへんねん。こっちは、もうお手上げなんやから。

八: わかんで、熊のゆうてることは、よう分かんねん。

けどなぁ、どうもイエス様がPlan-Bっていうのが、なんかいややねん。

熊: じゃあ、牧師はんのゆってはった、「逃れの道」っていうんやったら、ええんか?

八: それやったら、なっとくや。やっぱ、イエス様ファーストやろ。

わてら「イエス様いのち」なんやから。Plan-Bって納得でけへんわ。

熊: あ~あ、話、もとに戻ってしもたがな。

八: でも、なんで、牧師さん、わざわざ、Plan-Bって言いはったんやろ。

「逃れの道」でよかったんとちゃうん。牧師さんも、イエス様ファーストやんか。

熊: そうや、けど、、、やっぱり、、、わてら、罪人なんやって。

イエス様、いくら慕うとっても、イエス様のこと忘れることもある。

神様からちょ~っと離れて浮気することもあるやん。

神様から離れることが罪や。わかってる。けど、やっちゃうねんなぁ。

そんな罪人のわてらでも、イエス様愛してくれはんねん。

「Plan-Bでもええから、もどってきなはれ。」って、手を、差し伸べてくれはんねんや。

Plan-Bは人間の力ではどうにもでけへんと分かった時の、わてらの最後とりでや。

ペテロはん、みてみぃな。イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて来てくださるのを見て、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」ってお願いした。そして、舟からでて、イエス様のほうに歩いて行きはった。水の上をやで。ところが、風が出て来て、目をイエス様から離してしもた。ペテロはん、怖~なって、沈みかけた。つまり溺れそうになったんやな。パテロはん、「主よ、お助け下さい」って。すぐさま、イエス様は手を伸ばして、ペテロはんの手ををつかんで、ぐぃっ~て引き上げなさった。イエス様は、ペテロはんに「信仰の薄い人だな、なぜ疑うのか」って言いはったんや。けどな、そん時のイエス様、ペテロはんを叱ったんとちゃうと思うねん。「ケパのあほぅ、なんで私から目ぇ離すねん。しゃないやっちゃなぁ。」って、愛情込めて言いはったんとちゃうかな。知らんけんどな。

八: なんや知らんのかいな。まあまあ、知らんであたりまえやわな。

聖書に書いてないんやから。

熊: 八が、なんか大変な目におうて、イエス様に助けを求めたとする。

イエス様、たぶん言いはるんとちゃうかな。

「八のあほぅ、やっと頼りにきよった。おそいねん。

もうしゃぁないやっちゃなぁ」って。

八の手をしっかとにぎって、ぐいっ~て引き上げてくれはる。

八: せやなぁ。「求めよ、さらば与えられん」って言うけど、ほんまにそうや。

わてらは、イエス様見上げて、手ぇ差し伸べただけで、引き上げてくださる。

熊: それに気が付くのが、Plan-Bやがな。

八: そうか、いや、でもなぁ、わてはやっぱり、「逃れの道」のほうがええわ。

熊: あやや、また、また振り出しにもどってしもたがな。

牧師はん、今日はもう、どうどうめぐりや。ここまでにしときますわ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。私のまくらのメッセージもそうでしたが、八さん熊さんのやりとりも、どうどう巡りになってしまいましたね。Plan-B でも「逃れの道」でも、どっちでもいいんです。どっちもイエス様に助けを求めることなんですから。しかし、私が Plan-Bってつけたのは、神様の救いのご計画が、必ず私たちには備えられているということを、強調したかった、また万策尽きた時の最後のとりでが神様であることを確信してほしかったからなんです。私たちは、ついつい自分の思いで行動してしまいます。また苦難の時には、「溺れる者は藁をもつかむ」で、心の余裕がありません。しかし、神様のPlan-Bがいつも必ず備えられていると思ったら、苦しみや悲しみの中であっても、ちょっとは、神様を見上げることできるんちゃうかなぁって思てるんです。落ち込んでいる自分に、「ああ、ダメ人間や」と追い込むようにムチ打つんやなくて、神様の助けを求めてほしいなと願うばかりであります。

さて、ただいまより、黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと思わされたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇139篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書13章13節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

(詩篇139篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。「わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「Plan-B」というタイトルから、苦難の中、八方塞がりの中で、「逃れの道」であるイエス様に助けを求める、そしてそれが主のご計画であり、私たちの最後のとりででもあることを示されました。感謝いたします。私たちには、イエス様という心強い味方が常にともにいてくださること、いつも覚えさせてください。

私たちの主、助け主であられるイエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

献金の時

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。