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15分メッセージ:『私は漁に行く』

大阪朝祷会2021.5.10

15分メッセージ:『私は漁に行く』

 

聖書:ヨハネによる福音書21章3(新共同訳)

「シモン・ペテロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」

 

おはようございます。そして、みなさん、お帰りなさい。

 

私は、この聖書の箇所が不思議でならないのです。

マタイ書では、28章7節に、天使が、マグダラのマリアに次のように告げます。「あの方は使者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」

 

このことは、弟子たちに伝わります。そして16節~17節に「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあります。その後、イエス様は、大宣教命令を弟子たちに伝えます。

 

しかし、マルコ書やルカ書では、イエス様はマグダラのマリアに現われ、つぎに、エマオへの道中の二人に現われ、また十一人の弟子たちが食事をしているときに現われ、その後、大宣教命令を伝えられます。

 

ヨハネ書でもイエス様は同じように現れますが、20章で一応の区切りをつけています。そして、補足的に21章でガリラヤ湖畔のことが記されています。イエス様がガリラヤ湖畔で弟子たちに現われなさったのですが、私が不思議に思うのは、なぜペテロたちが漁にでたかと言うことでございます。

 

弟子たちがガリラヤ湖に出かけて行ったのは、イエス様に再び会うためのはずです。イエス様はその前にエルサレムで弟子たちに現われ、弟子たちは、主の復活を喜び、神を賛美したはずです。弟子たちは、いそいそとガリラヤ湖に出かけ、主であるイエス様を捜したはずです。では、なぜ漁にでたのでしょう。それも全く魚のとれない、ボウズとなる漁にでるのです。この漁に出たが、まったく収穫がないという事実は、その当時の弟子たちの気持ちの現われであります。ここは私の黙想でありますから、疑いをもってお聞きいただければと思います。

 

ペテロをはじめとする弟子たちの何人かは漁師でした。ペテロたちは、イエス様に出会ったとき、職業である漁師をやめてイエス様に従いました。イエス様が十字架で処刑された後、失意のどん底にいましたが、復活されたイエス様にお会いして、再び希望を得ました。そして、その希望をもって、再びイエス様に会えると信じて、3年前からイエス様に従って宣教の旅をしたガリラヤ湖畔に戻って行きました。弟子たちは、復活したイエス様を捜されたはずです。しかし、彼らはイエス様を見つけることはできませんでした。彼らは再び失意のどん底まで落とされたのです。エルサレムで起こった悪夢は現実で、イエス様は死なれた。イエス様が復活されたように思ったのは、自分たちの錯覚ではなかったか。ガリラヤ湖畔には、イエス様の姿はいくら捜してもありません。この三年間はなんだったのだろう。さあ、三年前の仕事にもどろう。ペテロたちは自分の家にいって、網を持ち出し、桟橋につけてあった小舟に乗り込み、夜に漁に出かけました。

 

しかし、まともに漁をする気にはなりません。ペテロたちの心は、すべてにおいて空っぽになっていました。この三年間を思い出しながら、希望にあふれるのではなく、しぼんでしまった心をかき立たせようと網をうっても、網で水をすくうように、空しさだけが残る。彼らの網には、一匹の魚もかからないほどに、彼らの心の網は空を打ちます。また、コヘレトの言葉、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉を実感していたのかもしれません。彼らは待ちくたびれ、自暴自棄になってしまっていました。

 

これは私の黙想です。

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また、こうは考えられないでしょうか。

弟子たちは、イエス様が「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」(マタイ17:22-23)と言われた言葉が、実際となったことに、驚いただけではなく、弟子としてイエス様といっしょに暮した、その三年間、イエス様のことを何も分かってなかったことに、自信喪失してしまったのではないでしょうか。

 

―――

ヨハネ: ペテロはん、何落ち込んでんのんな。

ペテロ: おう、ヨハネのボンかいな。ワシな、このガリラヤ湖に来る途中で、

ずーっと考えてたんや。

ヨハネ: らしくないなぁ、ペテロはんは、考えるより、さきに行動するタイプやのに。

ペテロ: あほぅ、ワシかて、考えるときもあるがな。

ヨハネ: で、何を考えてはりましたん?

ペテロ: ワシら、十二弟子は、イエス様とい~つも一緒にいた。

まあ、イスカリオテのユダのどあほは、裏切りよったけどな。

でも、ワシら、イエス様のお供するのがうれしかった。

また、鼻高かった。みんなが一目おいてくれてたからなぁ。

ヨハネ: そうでんなぁ。イエス様が、いろんな人、癒したり、また、祭司長の連中を

へこましたりして、ええ気持ちやった。

ペテロ: けど、三年間お供したけど、イエス様のこと、な~んも分かってへんかった。

三日目に復活、ゆうても、信じひんかった、

いや、イエス様のおっしゃってることが分からんかったんや。

ヨハネ: そりゃ、み~んな、そやったやないですか。だ~れも、分からんわ。

ぺテロ: ボン、これから、どうなると思う?

ヨハネ: イエス様、復活なさって、これから、みんなでガリラヤ湖で

おちあおうゆうてんねんから、イエス様から、な~んか

ご指示があるんとちゃうかな。

ぺテロ: イエス様はもう、昔の大工の息子のイエス様とはちがうんやで。

ほんとうは、キリスト様や。偉いお方なんや。

それにひきかえ、ワシらはどうや。こんなもんでええんかいな。

い~っこも、成長してへんがな。

ヨハネ: わてらの大将はイエス様や、キリスト様や。胸張ってたら、ええのんちゃう。

ペテロ: ボンは若いな。怖さちゅうもん、知らん。ま、それもええとこやけど。

ヨハネ: ペテロはん、それって、自信喪失ちゅうやつか。にあわんなぁ。

ペテロ: あ~ぁ、あのニワトリ事件があったやろ。

ヨハネ: ニワトリが泣く前に、三度、イエス様を知らん、って言うって、

イエス様に言われて、ペテロはんが、実際にそうなったっていう。

ペテロ: あん時から、ワシ、自信のうなってん。イエス様の弟子っていうのん。

漁師に戻ったほうがええんちゃうかって、思てんねん。

ほら、(見回して)、他の弟子たちも、しょんぼりしてるやろ。

同じ気持ちや思うで。

イエス様に会いたいけど、どの面下げて会えるんや、ちゅうこっちゃ。

みんな、そう思てんとちゃうかな。

ヨハネ: わて、あんまりそんな風に思ってなかったわ。

いつも、イエス様の横におったからなぁ。

ペテロ: そら、ヨハネのボンは、イエス様のおきにいりやさかい。

ヨハネ: ペテロはん、それゆわれたら辛いわ。ペテロはんが一番でしやでぇ。

ペテロはんが、弟子やめんねやったら、わてかて、弟子やめる。

ペテロ: (ため息)さあ、ちょっと、家、帰ってくるわ。

ヨハネ: 家、帰って、何しまんの。

ペテロ: 網、もってきて、舟のろかと思て。

ヨハネ: 漁にでますのかいな。

ペテロ: ああ、ワシ、漁にでるで。自分がどうしたいのか、海で考えてみるわ。

ヨハネ: じゃあ、わてらもいっしょに行きますわ。まってください、ペテロはん!

―――

 

弟子たちの気持ちは沈んでいます。そしてその心の沈みは、漁で、魚が一匹もとれなかったということに、反映しています。弟子たちは、イエス様の弟子を続けることをあきらめていてしまっていたかもしれません。しかし、あきらめずに弟子たちを待っている方がいらっしゃいました。イエス・キリスト。イエス様は岸辺に立たれ、彼らを迎え、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と口をひらき、そして、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と続けました。弟子たちがそのようにすると、網を引き揚げることができないぐらい、おびただしい魚がとれたのです。ここに「イエスの恵み」があります。失意のどん底にいる人たちに、心が空っぽになってしまった人たちに、イエスは手を差し伸べ、何も求めずに、ただただ、平安と喜びで、その人たちを包むのであります。イエスの弟子として、イエスを信じる者として、何かをしないといけない、また弟子としての資格がいるということではありません。主の一方的な恵みに感謝し、イエス・キリストを信じ、また信じ続けるということが、私たちの、主のあふれるばかりの恵みに対する応答ではないでしょうか。

 

お祈りをいたします。