メッセージ:「祭壇と宮の礎」(15分間メッセージ)

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

5月13日

担当:若竹孝行

メッセージ:「祭壇と宮の礎」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:エズラ記1章〜3章

3章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:3:1-3, 11-13

「イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来た。そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシュアルディエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるため、イスラエルの神の祭壇を築いた。彼らは、周りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた。彼らはその上で主に全焼のささげ物、すなわち、朝ごと夕ごとの全焼のささげ物を献げた。」

「そして彼らは主を賛美し、感謝しながら『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い交わした。こうして、主の宮の礎がすえられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

バビロン捕囚から解放され、エルサレムへ帰還した民の最初に行なわれる合同の活動は、イスラエルの神の礼拝の場所を設けることでした。また、第七の月とは、仮庵の祭り、つまり秋の収穫祭の時期であり、以前は、エルサレムの神殿で7日間で70頭の牛がささげられていたとあります。仮庵の祭りは収穫祭でもありますが、その次の年を迎え、新たに出発する意味もありました。この新たな出発を祝う仮庵の祭りの時に、バビロン捕囚から解放された民は、こぞって元神殿の祭壇のあった場所に、新たに祭壇を設け、全焼のいけにえを献げることにしたのであります。3節に「彼らは、周りの国々の民を恐れていた」とありますが、その周りの国々の民とは、サマリヤの民をさしていたのかもしれません。サマリヤ人は、神殿再建に手を貸そうと申し出ますが、イスラエルの民はそれを断りました。そこにはいろいろと駆け引きがあったのかも知れません。ですから、「祭壇を所定の場所に設けた(もとの位置に設けた)」と強調したのかも知れません。とにかく、彼らは、昔の王国の繁栄も願って、自らの手で、神殿の再建にとりくむ、そのまず初めに祭壇を設けました。

祭壇は、神に香ばしいいけにえを献げる場所であります。「祭壇を設ける」という記述は、旧約聖書には多々あります。ノアは洪水が収まり、水が引いて、箱舟の動物たちを外に出した時、威の一番にしたことが、「主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた」ことであります(創世記8:20)。ノアは、主に感謝の心をささげました。

また、アブラハム、その時はアブラムでしたが、彼が、主の告げられた通り、ハランを離れて、カナンの地へ入った時、主がアブラムに現われて、「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える」と告げられ、その場所に祭壇を築いたとあります(創世記12:7)。神の臨在を感じ、神の仰せに応答すべく、感謝の礼拝をささげるために祭壇を築きました。

では、私たちの祭壇はどこにあるのでしょうか。教会堂でしょうか。確かに教会堂も礼拝をささげる場所でありますし、週の初め、心新たにして、主を迎え、主にささげ物をささげる場所であります。ささげ物は今では献金も一つですが、それよりも大切なのは、自分自身をささげるということです。詩篇51篇では次のように記されています。

●「まことに、私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:16-17)

私たちのへりくだった、悔いた心を主はお喜びになり、受け入れてくださいます。

そして、この詩篇はなおも続きがあります。

●「どうかご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築き直してください。そのとき、あなたは、義のいけにえを、焼き尽くされる全焼のささげ物を喜ばれます。そのとき、雄牛があなたの祭壇に献げられます。」(18-19)

主は、砕かれた悔いた心をいけにえとして受け入れられ、そのあとで、主はエルサレムの城壁を築き直され、祭壇の全焼のささげ物を喜ばれます。結局、神は全焼のささげ物を喜ばれますが、それは、神が民の悔いた心を、神に対する真の感謝の心を見たからであります。

エズラ記3章3節では、「朝ごと夕ごとの全焼のささげ物を献げた」とあります。

主の祭壇は、主の臨在を感じた所、そして朝ごと夕ごと、つまり毎日、砕かれた心をささげられる場所であります。パウロはコリント人への手紙第一で次のように述べています。

●「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることをしらないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」(3:16-17)

聖霊様が宿る私たちの心は、神の宮であり、そこに祭壇があります。つまり、私たちはいつでも、どこでも主に心のささげ物をすることができるのです。それを可能にしてくださったのは、イエス・キリストです。

そして、そのイエス・キリストは神殿の礎です。詩篇では「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」(118:22)とありますが、その石こそが、イエス・キリストであります。パウロはそのことをエペソの手紙で次のように述べています。「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」(2:20-21)

そしてエズラ記では、「主の宮の礎がすえられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」

この民に喜びは、主の救いの喜びであり、また老人たちの泣く姿は、悔い改めの姿ではないでしょうか。一説には、老人たちが泣いたのは、以前のソロモンの栄耀栄華を極めた神殿から比べると、今回のものはみすぼらしく見え、それに至った自分たちの不信仰を悔い改めた涙ではなかったかとあります。いずれにせよ、泣く声と喜びの声が入り混じって、主を賛美する。それが本来の礼拝の姿かもしれません。

では、私たちは、礼拝における、真の悔い改めと賛美をささげているでしょうか。自らに問い、礼拝に対する姿勢を改めないといけないかもしれません。

また、イエス・キリストご自身が要の石となり、宮の礎となってくださったおかげで、私たちは、私たち自身のありのままの姿を主にささげることができるのです。主の前で、喜びもし、悲しみも嘆きもする、私たちの素の姿を主にさらけ出すことが許されるのです。

私たちは何と幸せ者でありましょうか。イエス・キリストの尊い贖いによって、私たちは罪赦された者とされただけではなく、イエス様がお送りくださった聖霊様によって、私たち自身が神の宮とされ、いつでもどこでも、主に大胆に近づき、泣いたり喜んだり、ありのままの自分を主にささげることができるのです。

どうか、主の前にあって、自分自身を繕わないでください。主は砕けた心を喜ばれるとありますように、私たちの素の心、ありのままの自分を主に見ていただく、主にささげることが大切なのであります。皆さんは主の宮であり、祭壇はあなたの心にあります。またあなたの心にある祭壇とあなた自身である主の宮の礎は、私たちを常に全力で愛してくださる、ゆるぎないイエス様であることを覚えておいてください。私たちのありのままの姿を、主はすでにご存知です。どうか主の前で、自分を繕うことなく、今のありのままの姿を主にささげようではありませんか。

お祈りいたします。

主のいのり