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メッセージ主題:『たましいを任せる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年5月16日

聖書拝読:ペテロの手紙第一4章12節~19節(新改訳聖書)

中心聖句:

「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」(19)

メッセージ主題:『たましいを任せる』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

と申しましても、この日は、結婚式の司式に出かけております。前日録画でございます。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週末から、6月のような夏日が続いています、つまり梅雨のようなムシムシ暑さですが、皆さまは体調いかがでしょうか。主によって守られていらっしゃることを願います。マスクをつけてこれだけ暑さが増しますとまいりますね。その暑さのなか、こうやって時間を作って、メッセージを聞いてくださる皆さまに感謝いたします。神様からのメッセージで共に恵まれますようお祈りいたします。

さて、先週は、ペテロの手紙第一の第3章から、『Plan-B』と題しまして、神様からのメッセージをたまわりました。第一ペテロ書第3章では、1節から7節では、ペテロからの「妻たるもの、夫たるもの」の姿勢が示され、そして8節から22節までは、「義のために受ける苦しみは幸いである」ことが記されています。正しいことをすると、それをほめられる時もあれば、その正しさによって、迫害や苦しみを受けることがございます。この時のPlan-Aは「正しいことをすることでほめられる、だろう」ということでありますが、そうそう、うまくはいかず、かえって苦しめられるはめになることがございます、で、その時にPlan-B が発動するのでございます。クリスチャンにとって、この Plan-B は「逃れの道」であり、イエス様ご自身であり「主に拠り頼み、主を求める」ことでもあるでしょう。私が Plan-Bとつけさせていただいたのは、神様の救いのご計画が、必ず私たちには備えられているということを、強調したかったのでございます。また万策尽きた時の最後のとりでが神様であることを確信してほしかったからなのです。私たちは、ついつい自分の思いで行動してしまいます。また苦難の時には、「溺れる者は藁をもつかむ」で、心の余裕もございません。しかし、神様のPlan-Bがいつも必ず備えられていると思ったら、苦しみや悲しみの中であっても、ちょっとは、神様を見上げることできるのではないかと思っているのです。落ち込んでいる自分に、「ああ、ダメ人間や」と追い込むようにムチ打つのではなくて、神様の助けを求めてほしいなと願うばかりであります。先週はそのことを学ばしていただきました。

さて、今朝は、ペテロの手紙第一の第4章から、『たましいを任せる』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。第一ペテロ書第4章では、1節から11節では、神の恵みを受ける者の心構えが記されており、そして12節から19節までは、「キリスト者は苦しみを受けるものである」ことが記されています。キリストの名のために非難をうけ苦しむのは、逆に幸いであることであるとペテロは主張します。パウロも同じようなことを述べておりますから、キリスト者は迫害をうけるのが当たり前で、そして苦しめられることによって、「神の御霊がとどまってくださるから」だということです。(1ペテロ4:14)今朝は、このことと、「神に自分のたましいを任せる」ということを考えさせていただきます。

短くお祈りいたします。

クリスチャンが苦しめられることによって、「神の御霊がとどまってくださる」という表現は、正直、私にはピンときません。私たちは、イエス・キリストを救い主としてまた、神の御子として信じた時点で、私たちの心に、イエス様が聖霊様をお送りくださり、聖霊様はとどまります。ですから、苦しみを受けようが受けまいが、私たちの心には神の御霊がとどまってくださっており、それゆえに、私たちは、神の宮として存在し続けるのです。しかし、私たちは神の宮としての存在を意識し続けるぐらい意志の強いものではありません。皆さまは平和ボケという言葉をご存じでしょう。平和が続くと、その平和が当たり前となって、平和であることのありがたみが薄れ、感謝をしないものとなる状態です。信仰でも同じことが言えます。つい先日も、あるところで、「信仰の平和ボケにご注意あれ」というタイトルで、歴代誌第二16章からお話しさせていただきました。

歴代誌第二の14章から16章までは、南ユダの王アサのことが記されております。アサ王は、創造の神を熱心に信じ、偶像礼拝をやめさせていました。ところが、北イスラエルとの長い戦いに苦慮していたアサ王は、神に助けを求めるのではなく、シリア・アラムの王と同盟を結び、その王に助けを求めました。このことが、神への背信として責められ、両足ともに病気になってしまいます。しかし、その時でさえ、アサ王は、悔い改めて主に救いを求めず、医者に治療を求めてしまい、2年後に死んでしまいます。神を信じ、神に拠り頼むことを知っていたアサ王でしたが、なぜ、神により頼むことを忘れてしまったのでしょうか。

アサ王が、クシュ人の大軍勢と戦わざるを得なかったとき、アサ王は主に拠り頼みました。14章11節で、アサ王は次のように主に懇願しています。

●「主よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたは変わりありません。私たちの神、主よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください。」

アサ王の祈りは聞かれ、主がクシュ人を打たれ、アサ王の軍隊は、それを追撃し、クシュ人は聖絶され、兵士たちは多くのぶんどり物を得ました。

また、15章では、預言者オデデの子アザルヤに主の霊が臨み、次のようにアサ王たちに告げました。(2)

●「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」

この預言によって、アサ王はなお一層、主をもとめ、民たちにもそのことを奨励します。

●「主と契約を結び、心を尽くし、いのちを尽くして、父祖の神、主を求めることと、だれでもイスラエルの神、主を求めない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、死刑にされることとした。」(12-13)とある通りです。この時は、アサ王は、主に拠り頼むことを喜びともしていました。

しかし、王国分裂後、大きな戦いの起こらない日々、平和が、アサ王の治世15年~35年まで続きます。この20年という平和が、アサ王と民に、心のゆるみを与えてしまいました。

アサ王の治世36年に、イスラエルの王バアシャがユダに上って来て、ラマという町を築き始め、ユダのアサ王のもとに出入りができないようにしてしまいました。つまり、ラマという町が関所の役目をはたし、アサ王を孤立させる役目を担っていたのでしょう。

ここで、アサ王は主に助けを求めるべきでした。が、しかし、この20年という平和は、アサ王に心のゆるみを起こさせ、主に拠り頼むことを第一としない、人間の知恵に依存する思考を植え付けてしまっていました。結末は先ほど述べた通りであります。

アサ王は、今でいうなら、熱心なクリスチャンでありました。かずかずの困難を主は乗り越えさせてくださり、クリスチャンは主に拠り頼んできたことに自信をもち、主の御名を賛美し、主を喜ぶのであります。そして、教会に平安がもたらされます。目立った悪魔の攻撃や誘惑も、また外からの迫害もなく、いそいそと日曜礼拝に足をむけ、御言葉に感謝し、また聖書の学び会や祈り会にも参加し、自らを「ああ、私はなんて熱心なクリスチャンや」と自画自賛し、満足するのであります。もちろん、そこはクリスチャンらしく、賢く振舞わなければいけませんから、大胆に自画自賛することはございません。謙虚に、「いえいえ、クリスチャンとして当たり前のことをしているだけです。私はまだまだ足らない者です。」とつつましく振舞うのであります。そういう方は、朝のディボーションを欠かすこともありません。なにせ、優等生クリスチャンですから。

では、この信仰生活になにが足らないのでしょうか。この答えが分からない方は、優等生クリスチャンであろうがなかろうが、信仰の平和ボケをしていると言えるのではないでしょうか。かく言う私もそうでした。私も教会生活に一生懸命でした。私の生活は教会が中心となっていました。あの当時、私に欠けているものが、今朝の答えです。

私たちは、パウロを通しての、主のご命令をよく知っています。1テサロニケ5章16節~19節まででございます。

●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」

「御霊を消してはいけません」とは、「神様が私たちと共にいらっしゃらないように思えたり、失望してはいけない、そして平和ボケしてはいけない」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。

そして、神様がこのこと、つまり「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する」ことを私たちに望んでおられるのは、私たちが、主の証し人として、直接的にも間接的にも、主イエス・キリストの恵みを、そして救いを伝えるためであります。

もちろん、福音を伝える私たちも救いからもれることはあってはなりません。

ですから、パウロは、1コリントの9章で次のように訴えております。

●「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」(16)

●「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(23)

パウロは、クリスチャンは、福音を伝えて、なんぼ、伝えなければ災いであると私たちに迫ってきています。もちろん、誰しもが、雄弁な伝道師になりなさいと言っているわけではございません。伝道とは、言葉だけではありません。もちろん言葉も大事でございます。言葉を通してでしか伝わらないことも多くあるからです。しかし、その人の雰囲気や信仰は言葉だけではなく、その人の態度からも伝わります。むしろ、そちらの方が大きな割合を占めていると言っても過言ではないでしょう。ですから、主は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」とおっしゃるのであります。つまり、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。」とは、福音を伝えるためのものでもありますし、また私たち自身が、福音にもれることがないようになるためでもあるのです。

ゆえに、イエス様も次の大宣教命令を私たちにお与えになりました。

●「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

イエス様の大宣教命令は、もう一歩踏み込んでいます。「あらゆる国の人々を弟子としなさい」。つまり、主を信じる者をすべて、主の証し者として立て、弟子となるように教育しなさいとおっしゃるのです。

信仰の平和ボケは、悪魔のささやきのように、じわじわと私たちの信仰に輝きをなくさせていきます。そして、私たちの信仰の目的をぼやかせてしまいます。そして、その信仰の平和ボケからは、なかなか立ち直れないのです。アサ王が病気の時に主を求めず、医者を求めてしまったことでも分かるでしょう。もし、私たちが、真剣に主の証し人として、主の愛を伝えていく者となるなら、それを阻止しようと、悪魔の総攻撃を受けるかもしれません。逆に信仰のぬるま湯につかり平和ボケしている人には、悪魔は攻撃してきません。彼らは悪魔の術中にはまってしまっているからです。悪魔は、主と心ひとつにしている、又はしようとしている人を攻撃します。しかし、主に拠り頼む者を、主は滅ぼすようなことはなさいません。必ず、主が勝利します。どうか、信仰の平和ボケに注意してください。、、、、と、このように私が申し上げたとしても、信仰の平和ボケにどっぷりつかっている御仁には、馬の耳に念仏、馬耳東風、でございましょう。

そこで神様は、私たちが信仰の平和ボケにならないよう、試練として苦しみを与えられるのです。そのことによって、私たちは神様に拠り頼まざるをえなくなり、結局、いつも神の御霊がどどまってくださっておられることを意識でき、感謝するからでございます。キリストの名のために非難され苦しみを受けるのは、いわば、信仰における、平和ボケ防止ともいえるではないでしょうか。ん?だれでしょう、ありがた迷惑と思ってらっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんね。しかし、アサ王の例を思い出してみてください。信仰の平和ボケは、霊的死をもたらすかもしれないのです。

さて、これで、「苦しめられることによって、神の御霊がとどまってくださる」ということを考えさせていただきました。まだ、「神に自分のたましいを任せる」という、今朝の主題が残っております。これは、八さん、熊さんにお任せしたいと思います。さあ、皆さんお待ちかねでございましょうから、お邪魔虫は、少し休憩させていただくことにいたします。八さん、熊さん、よろしくお願ね。

―――――

八: あ、牧師さん、ずるいわ。主題になんもふれずにいってしもた。

「神に自分のたましいを任せる」ってわかったようでわからんなぁ。なぁ、熊。

熊: あて、おもろいこと考えたでぇ。よく世間では「悪魔にたましいを売る」って、ゆうやん。

八: そりゃ、あれやろ。自分の野望をかなえてもらいたいために、

悪魔と交渉するっていうかつやろ。あれもあほなこっちゃ。

世の中の成功を収めたとしても、悪魔にたましいを売る、ちゅうことは、

悪魔に支配されるゆうことやから、結局は損するだけや。

悪魔のあやつり人形になってしまうんやから。

熊: そうやな。けど、その反対にあることばが、「神様に自分のたましいを任せる」

ちゅうことと、ちゃうんかな。神様に自分のたましいを売る訳やないけど、

お任せすんねやろ。

つまりやな、神様に、自分のたましいを安全な投資信託にあずけているみたいなもんや。

八: 熊、ちょっとまって、その投資信託ってなんやねん。

熊: わての友達がな、その投資信託ちゅうのんしとんねん。2年間で100万円、

こつこつその投資信託にお金を預けたわけや。するとやな、投資の専門家が、

本人に代わって、そのお金を運用してくれん。運用のことは聞かんといてや、

その人もわても分からんから。そして、この前、通帳みたら、驚かんといてやぁ、

130万円ぐらいになっててんて。銀行より利子ええねん。ただただ、あずけるだけやで。

八: へぇ~、そりゃ、すごいな。けど、その投資信託って、損することはないのんか。

熊: 損することもあるらしいでぇ。けど、わてらのあずける相手は、神様やろ。

めっちゃ、安全やん。神様はぜったいな方や。

わてらのたましいを目減りさせるようなことはせぇへんやん。

八: そりゃそうやろな。神様は、約束は絶対に守られる方や。

約束、破るんは、わてら人間の方やから、いつも。

熊: わてらのたましいは、神様の投資信託によって、豊かになるんや。

八: 豊かになる? あ、なんかわかったような気がする。

熊: 八、何がわかったんや。

八: イエス様がゆうてはったやんか。「自分の宝は、天にたくわえなさい。

そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」って。

熊: おお、そりゃ、マタイの6章20節21節やな。

八は、その宝を、わてらのたましいやゆうんやな。

八: そや、そう思うねん。わてらのたましいが、イエス様によって、豊かにされるんや。

熊: あぁ、そう思うと、あれやな。パウロはんのゆうてた言葉もそれらしく聞こえるわ。

八: パウロはんのどのことばや。

熊: ほれ、2コリントの8章の9節。

八: あ、それかいな。それわての好きな言葉やねん、ゆわして。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は豊かでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。

それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」やろ。

熊: ♬「主は豊かであったのに、貧しくなられた、わたしたちが主によって、豊かになるために。」

八: 熊、ずるいわ。わてがうたおう、思てたのに。

熊: おさきぃ。すんまへんな。早いもん勝ちや。

八: けど、あれやなぁ。神様に、わてらのたましいを投資信託するって、おもろいなぁ。

いっそのこと、ぜ~んぶ、あずけてしもたらええねん。

熊: けど、わてらに、その投資信託の資格、あるんやろか。

八: ええ、どうゆうこっちゃ、イエス様いのちのわてらやでぇ。とうぜんやろ。

熊: けんど、ペテロはんは、「神のみこころに従ってなお苦しみにあっている人々は、

善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」

ゆうてはったやろ。ちゅうことは、苦しみにあって、善をおこなおうとしている

クリスチャンでないと、投資信託でけんのとちゃうか。

八: あほ、ゆうたらあかんは。あれは、ペテロはんが、苦しみを受けているクリスチャンに

対して、励ましていることばや。投資信託はだれでも、でけんねや。

イエス様が投資の専門家やで。

熊: イエス様が投資の専門家って、そりゃ、どういうこっちゃ。

八: イエス様がわてらの味わうであろう苦しみをぜ~んぶ味わってきてはんねん。

わてらの気持ち、すみからすみまで分かってくださってんねんでぇ。

そのお方を信用して、投資信託したら、たましいは豊かになるに決まってるやないか。

熊: せやな。で、どうやったらわてらのたましい、投資信託でけんねやろ?

八: そりゃ、あれとちゃうか。いつもの牧師さんの十八番(おはこ)の御言葉。

熊: 第一テサロニケか?

八: そや、それやがな。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。」これが、わてらが、イエス様に、わてらのたましいを投資信託する、

ちゅうこっちゃな。

熊: 結局、ここにもどってくるなぁ。あほのひとつおぼえや。

八: シッ、声が大きいい。壁に耳あり、障子に目ヤニや。

熊: それも言うなら、障子に目あり、やろ。なにしれっとボケかましてんねん。

だれも牧師はんのことゆうてないで、わてらもあほのひとつおぼえや、ゆうたんや。

八: 熊、もうここらでやめとこ。なんか墓穴掘りそうな気がするから。

牧師さ~ん、休憩から帰っておくんなはれ。

―――――

八さん、熊さん、あほのひとつおぼえで、悪かったね。けど、わてはあほでんねん。このみ言葉だけでも生きていけそうな気がしまんねん。けど、おおきにな。イエス様にたましいの投資信託。こんなん考えるん、八さん、熊さんだけやと思うわ。これで、みんなのたましいが豊かになってくれて、天に宝をつめるんやったら、わて、あほでけっこうや。次もよろしゅう、たのんますね。

さて、八さんと熊さん、おもしろいこと考えられました。イエス様にたましいの投資信託。なんか、わくわくしてきました。神様は、私たちを、信仰の平和ボケから守られるため、試練や苦しみをお与えくださいます。私たちが信仰的に目をさましていられるようにです。そして、その試練の中にいらっしゃる人には、神様にたましいの投資信託をすれば、そのたましいは豊かにされ、しいては、天に宝を積むことになると、ペテロをとおして、主はおっしゃってくださるのです。どうか私たちが、常に、主に自らを明け渡し、そのことによってたましいは豊かになり喜びにみたされることを確信し、主とともに前に進む一歩を踏み出せるよう、聖霊様に導いていただきましょう。

ただいまより、黙想に入りたいと思います。

今朝のメッセージで学ばれたこと導かれたこと思わされたことを振り返ってみてください。黙想の時に、詩篇10篇をお読みいたします。

また、黙想の前に、マタイの福音書5章10節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

(詩篇10篇)

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

お祈りいたします。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。』愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「たましいを任せる」という神様からのメッセージで、私たちは、主にたましいを任せるとはどういうことなのかを考えさせていただきました。また、「苦しみの中にある人には、神の御霊がとどまる」ことの理解もさせていただきましたから、感謝いたします。私たちが、常に信仰的に目をさまし、主に私たち自身を明け渡すのは、結果、天に宝を積むことになるのだとお教えくださいましたからありがとうございます。私たちの心に宿っておられる聖霊様がそのように導いてくださいますように。

ご自分が貧しくなって、私たちのたましいを豊かにしてくださる、私たちの主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。