メッセージ:「キリスト者としての毅然とした態度」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

5月20日

担当:若竹孝行

メッセージ:「キリスト者としての毅然とした態度」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:エステル記1章〜3章

3章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:3:2

「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対して膝をかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイは膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

2006年の映画で「プリンス・オブ・ペルシャ」というのがありました。エステル記の映画化ですが、YOUTUBEでは、「ワン・ナイト・ウィズ・ザ・キング」というバイブル映画が無料で見れます。機会があれば、ぜひ見てください。

バビロン捕囚から、ペルシャのクロス王の計らいで、紀元前539年に、捕囚の民はそれぞれの故国に帰るように促されました。しかし、実際に帰還した民はわずかだったようです。その大部分はペルシャに残留したのでした。ユダヤ人もその例にもれず、安定した生活を基盤に、ペルシャ社会になじんでいました。

エステル記は、その残留ユダヤ人社会に起こった歴史的記録でもあります。ルツ記とならんで、エステルという女性を中心とした美しい物語風の記録です。

ユダヤ人社会では、現在も祝われているお祭りのひとつに「プリム祭」があります。毎年2月か3月に行なうものです。「プリム」とは「くじ」の意味で、このエステル記に登場しますユダヤ人の敵ハマンは、すべての首長のトップに収まった人で、そのハマンがペルシャにいるすべてのユダヤ人を根絶やしにする日、3章の13節に記されています、第12の月、すなわちアダルの月の13日を「くじ」を引いて決めたという記述(7節)に由来しています。7節では「プル」となっています。結局、このアダルの月の13日には、王妃エステルが身を挺して、王に嘆願し、計画された虐殺は、間一髪で実行されずに終わりました。その時のユダヤ人の救いをお祝いするのが「プリム祭」です。

このハマンによるユダヤ人虐殺、今話題になっています言葉ジェノサイドの計画の発端は、日ごろからのユダヤ人に対する悪感情もありますが、一番の原因は、ユダヤ人の長であるモルデカイのハマンに対する態度であります。それが、今朝の中心聖句です。

●「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対して膝をかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイは膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」

皆は、王の次に偉いハマンに対してひれ伏しましたが、モルデカイだけは、ハマンにひれ伏すことを拒みました。モルデカイのひれ伏す相手は、ユダヤの神、創造の神以外にないからです。

ハマンはそれが気に入らず、結局、ユダヤ人の虐殺ジェノサイドを行なうことになりました。

このモルデカイの神への忠誠は、バビロン捕囚中のダニエルの忠誠と同じであるように思います。私たち日本人は、昔から、「郷に入れば郷に従う」ということを学んできています。また、「朱に交われば赤くなる」ということわざも知っています。これらのことは、争いごとをこのまない処世術とも言えます。しかし、信仰を曲げるということとは異なります。信仰を曲げるということは、救いからもれることを意味しています。もちろん、社会生活では、いろいろと交わらないと生きていけません。人との交わりと信仰を曲げることとは別問題であります。モルデカイのように毅然とした態度をとることが望まれます。キリストにあって優柔不断という言葉はあり得ないのです。しかし、私たちの根本にある信仰は、常識という名の社会通念によって、歪んでいないでしょうか。他人のことはともかく、自分のことに対して、「まっ、いいか」と聖書を閉じてしまっていないでしょうか。

私は、モルデカイの毅然とした態度を見ると、殉教していったキリストの弟子たちや信仰の先輩たちを思い出さずにはいられません。また、日本でもカトリックではありますが、キリシタン時代の「日本二十六聖人」という殉教者たちのリストはよく知られるところでございます。もちろん、名のない信者の方たちの中にも、毅然と迫害に立ち向かって行った人たちがたくさんいらっしゃいます。そのことを思うたびに、「あなたの信仰はどうですか」とイエス様に問われているような気がするのです。

そして、私は、ヨハネの黙示録のことばを思い出すのです。3章15節16節です。

●「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」

「口からあなたを吐き出す」とは、救いにもれることを意味します。

また、ヘブル書でも、「信仰の馳場を走り抜く」ことが書いてあります。12章1節~3節。

●「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでください。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような犯行を耐え忍ばれたことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」

ヘブル書の著者も述べていますように、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さない」ことが、私たちに毅然とした態度を取り続ける勇気を与えてくださるのです。

最後に、この歌をお聞きくださって、聞いてくださっている間、再び黙想してみたいと思います。

「キリストには代えられません」

https://www.youtube.com/watch?v=MDR0io7xfrc

お祈りいたします。

主のいのり