メッセージ:「殺されても神を待ち望む、がむしゃらの祈り」(15分間メッセージ)

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

5月27日

担当:若竹孝行

メッセージ:「殺されても神を待ち望む、がむしゃらの祈り」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ヨブ記13章〜15章

13章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:13:15-16

「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、御前にでることはできない。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

私は、今朝のこのみ言葉を読んだ時に、なぜか、「刑事」というイタリア映画の主題歌「死ぬほど愛して」が頭に浮かびました。不謹慎と言えば不謹慎でございますが、浮かんでしまったのですから仕方ございません。皆さまも、一度は耳にしたことがあるかもしれない歌でございます。「アモレ・アモレ・アモ~レ、アモレミ~ヨ」というフレーズから歌が始まります。(わたしは、あなたをとても愛している)という意味でございます。もちろん、「神が私を殺しても、私は神を待ち望む」とは、表現はちがうかもしれませんが、この表現はヨブなりの神への愛の表現だと私は思うのであります。

文字通りに、神がヨブを殺してしまえば、ヨブは神を待ち望むことはできません。それに、続きの表現「なおも私の道を神の御前に主張しよう」とは、『自分の言い分を神に訴える決意を固めた』ことを意味しますが、死んでしまえば、その訴えも起こすことはできなくなる訳でございます。

ですから、ヨブの言う「神が私を殺しても」とは「命がけで」という意味でございましょう。ちょっと乱暴な言い方をすれば、江戸っ子が「殺せるものなら殺してみやがれ」と啖呵を切って、後ろ向きに胡坐(あぐら)をかいて座って、無抵抗を装っているような、神に対して大胆に訴えかけているのかもしれません。映画や芝居の中で、「殺せるものなら殺してみやがれ」と啖呵を切っている江戸っ子が、本当に刀を振り降ろされそうになると、「あぶねぇじゃねぇか、怪我したらどうする!このすっとこどっこい」とおよび腰になりながらも強がりをいうような、そんな状況にあるのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。ヨブが神様に背を向けて、「殺せるものなら殺してみやがれ」と乱暴なことは言うはずもございませんが、ヨブは、「神は私を殺しはしない」と確信しているかも知れません。ヨブは、心のどこかで、神の救いを信じ期待しています、いや、心の底から救いを望んでいるのであります。ですから、16節の「神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、御前にでることはできない。」とは、神への救いの期待であります。ヨブは、ぼろぼろになっても神を敬い恐れるものでありますから、だからこそ大胆に御前に近づき、ヨブの言い分を神に訴えるのでございましょう。

これは、ヨブが神を信頼し、神を愛しているからこそ、出てくる表現であります。ヨブの神への愛は、理性ではありません、どちらかといえばむき出しの感情です。がむしゃらに神に訴えかけるのです。まるで、子どもが泣きながら親に何かを必死にせがんでいるような激しいものです。きっと神は答えてくださると信じ、期待して、訴えているのです。

このような訴えは詩篇でもよく見受けられます。

●詩篇6:1「主よ、御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください。」

●詩篇13:1「主よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで、御顔を私からお隠しになるのですか。」

●詩篇22:1「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」

この詩篇22:1は、イエス様の十字架上でのお言葉の一つでもあります。

●「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

イエス様の悲痛な訴えでありますが、天の父はイエス様を見捨てられないことを確信しつつも、このような逆説的表現で、天の父なる神に訴えられたのであります。ご存じのとおり、御子イエス様は天のお父様を愛しておられ、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」その逆説的表現なのであります。そこには、知的なイエス様ではなく、がむしゃらに神を求めているイエス様の姿を垣間見ることができます。十字架におかかりになる前に、ゲッセマネで、血のような涙を流されて、天の父なる神様に訴えるように祈られたイエス様の姿を、私は忘れることはできません。

さきほどの、「アモレ・ミヨ」の「死ぬほど愛して」という歌には、「あなたと一緒でなければ、わたしは死んでしまいます。」という歌詞があり、これも愛がゆえの訴えであります。ヨブも同じで、「主がわたしと共にいらっしゃらないのなら、主の御前にでることができないのなら、わたしは死んでしまいます」と神に訴えているのではないでしょうか。

また、イエス様の衣のすそにふれて、長血が癒された女性も同じです。彼女は十二年間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかったのですが、イエス様のことを聞きつけて、彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった、とあります。彼女もがむしゃらにイエス様に救いを求めた結果であります。イエス様もその女に「あなたの信仰があなたを救ったのです。」とおっしゃいました。このように、イエス様に救いを求めた人たちは、周りを気にせず、がむしゃらにイエス様に救いを癒しを願ったのです。このお方なら何とかしてくださると信じて。

アブラハムを見てください。神の約束とおり、やっと授かって大きくした息子イサクを、ある時「ささげなさい」という神のご命令を聞き、大きく悩んだはずであります。聖書には、アブラハムの悩みは記していません。しかし、どの親が、自分の跡取り息子を、悩まずに神に差し出すでしょうか。しかし、アブラハムが、最後、悩んだ末、息子イサクに手をかけようとしたとき、神はアブラハムの信仰を見て、イサクを助けだしました。アブラハムは、神は約束を守るかたであることは熟知しておりましたから、何らかの方法で、イサクを助けだすだろうと悟ったのかもしれません。アブラハムの神への信仰を、神は見られ、イサクを助けました。アブラハムも、理性だけで神を信じ、イサクは神の約束の印であるから、必ず神が助けると確信したとは思えません。一人になって祈る時に、神にがむしゃらに問うたのではないでしょうか。「イサクはあなた様との約束の子です。なぜその子を召し上げようとなさるのですか。それも私の手で。なぜ私にそれを命じるのですか。」なんどもなんども問うたことでしょう。神からの答えはございません。しかし、アブラハムが、神に訴え続けている間に、自らが神を心底愛していることに、そして神を信頼しようとしていることに気づくのです。また、アブラハムは、まず先に神がアブラハムを選び、導き、守り、愛してくださっていることを悟るのであります。神は絶対に約束を反故にすることはない、神のゆるぎない愛に気づくのであります。

ヨブもアブラハムと同じ道をたどったのではないでしょうか。私たちも同じであります。時には、神が私たちを忘れ、見放し、捨て去られたように思える時があります。しかし、それは真実ではありません。神はいつも私たちと共にいてくださいます。それを可能にされたのはイエス様の御霊です。そして、静まって主こそ神であることを知る、わけですが、神は時として、理性ではなく、しかし感情だけでもなく、魂の飢え乾きをもって、神の御前に近づくことを、私たちに要求してこられます。私たちが神を本当に愛し、神こそが信頼すべき方であることをはっきりと確信させるためのものなのではないでしょうか。そして、その確信は、神は私たちを心底愛してくださっていることを悟ることを導くのです。

お祈りのまえに、賛美歌を聞きながら、黙想いたしましょう。

「賛美歌320番・主よみもとに近づかん」

https://www.youtube.com/watch?v=OyFexSU11S8

お祈りいたします。

主のいのり