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メッセージ主題:『しばらくの苦しみのあと』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年5月30日

聖書拝読:ペテロの手紙第一5章1節~11節(新改訳聖書)

中心聖句:

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(10)

メッセージ主題:『しばらくの苦しみのあと』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

と申しましても、今日も、結婚式の司式に出かけております。あいも変わらず深夜録画でございます。残念ながら、八さん熊さんは、お休みでございます。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週の金曜日、朝5時に起きて、ずっと出っぱなし。大阪クリスチャンセンターにて、無観客による、朝祷会の全国大会がリモートで行われました。私は大したことはしていないのですが、緊張していたのか、帰ってくるとぐったり。しかし、レッスンもセミナーもありましたので、やっとこさ解放されたのは11時過ぎ。すべては終わった時には、もうボロボロでしたし、目もしょぼしょぼでした。しかし、心地よい疲れだったようで、ぐっすりと眠ることができました。まあ、いつも寝入りはいいので、横になった時点で覚えていないのですが。緊張も疲れも、いつかは去って行くものなのでしょうね。次の朝には、6時間ぐらいしか寝ていませんが、スッキリでした。人生って、こんなことばかりですね。しんどい時も苦しい時もありますが、そんなに長くは続かない、また楽しいことや嬉しいことも同じように長くは続かない。それが人生なのかもしれませんし、この世を生きるという事なのかも知れません。

こうお話ししている間に、テレビドラマ水戸黄門の主題曲が浮かんできました。「人生楽ありゃ、苦もあるさ。涙の後には、虹も出る」。日曜日の説教には、不謹慎かも知れませんが、まあ、私の大好きな時代劇のひとつでございます。

「人生楽ありゃ、苦もある。涙の後には、虹も出る。」一見、同じようなことをイエス様もおっしゃっておられますね。山上の説教での2番目です。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)しかし、どうして悲しむものは幸いなのでしょうか。「涙の後には、虹も出る」ように、悲しいことの後には嬉しいことも起こるからでしょうか。いいえ、私たちの主であるイエス様が罪を犯す悲しみから解放してくださるからであります。イエス様を信じる人が、罪をおかしてしまう性質を悲しむ時に、その人の罪が赦され、イエス様の胸の中で慰められ、イエス様が立ちなおる力を与えてくださるからであります。

イエス様を信じても、信じなくても、つらいこともあれば、楽しいこともあります。普通の人は、「人生楽ありゃ、苦もあるさ」と自力でふんばって、つらいことや苦しいことがあってもやり過ごしていくのでしょう。では、イエス様によってどう慰められるのでしょうか。それは、山上の説教の1番目と深い関係があります。イエス様はまず、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(5:3)とおっしゃいました。自分の霊的な貧しさを知っており、『自分は罪深い者だ』と心砕かれた人は、イエス様にひれ伏して、自分の罪の性質を嘆いています。しかしイエス様はそのような心の貧しい人を、立ち上がらせ、天の御国での永遠のいのちがその人のものであると励まされるのです。同じように自分の罪を悲しむ者は、イエス様によって、罪赦され慰められるのであります。そして、天の御国での永遠のいのちという希望があたえられるのです。

ですから、私の大好きな時代劇、水戸黄門のテーマ曲「人生楽ありゃ、苦もあるさ。涙の後には、虹も出る」という一般論とは全く異なった恵みが、イエス様の内にはあるのでございます。

では、そもそもですが、一般的な苦しみや悲しみの中にある時に、イエス様は、イエス様を信じる人たちに、どのように働いてくださるのでしょうか。

イエス様はおっしゃいます。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)イエス様のくびきを負うとはどういうことでしょうか。くびきとは、牛の首のところにかけられ、その牛は、土地を耕す動力となります。普通は、二頭でペアとなります。二頭に同じくびきがかけられ、二頭がリズムを合わせて進みます。二頭がまるで一頭のように息を合わせて進みますと、すごい力が働きますし、また、くびきも軽くなります。イエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」とおっしゃいます。つまり、リーダーはイエス様です。イエス様は私たちの呼吸を整えてくださり、そして、私たちがイエス様の歩調に合わせやすいように導いてくださるのです。イエス様は私たちのことを私たち以上にご存じですから、私たちの一番よい歩調に、負担も軽くなるリズムへと導かれ、共に進まれます。イエス様のおまかせコース、これが一番楽ちんなのです。

さて、話が脱線しすぎました。そろそろペテロに戻りましょう。

今朝は、ペテロの手紙第一の第5章から、『しばらくの苦しみのあと』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。第一ペテロ書第5章では、教会の長老たちへの勧めが記されています。長老たる者は、「群れの模範となり、かみの力強い御手の下にくだり、思い煩いをいっさい神にゆだね、身を慎み、目をさましていなさい」。そうすれば、「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる、とペテロは主張します。(ため息)長老さんは大変だと思うわけですが、それだけの責任があるということでしょう。今朝は、そちらかといえばきびしい責任のなかで「しばらくの苦しみのあとで完全になる」ということを考えてみたいとおもいます。

短くお祈りいたします。

「神がご自身があなたがたを完全にする」とはどういうことでしょうか。「完全」という言葉は、とても魅力的です。なぜなら、私の知っている完全は、ゆるぎのない、罪のない世界だからです。それは神様以外にありえません。詩篇にはつぎのようにあります。

●「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」(詩篇18:20)

●「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」

「神がわたしたちを完全にする」とは、神様の世界に私たちを招待してくださるということであります。しかし、私たちには罪があります。私たちは、不完全でありますから、そのままでは完全なる神様の世界に入ることはできません。そこで神様は、御子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、罪のないイエスを十字架にかけ、その血といのちによって、私たちの罪を帳消しにし、私たちを罪なき者とされました。また、神様は、イエスを三日目によみがえらせ、死を克服し、罪人であった私たちをも、イエスを信じることで、ともに罪人から新しく生まれ変われるものとされました。また、その上、キリストの霊である聖霊様を、私たちの心にお送りくださって、私たちが罪を犯しにくい性質へと日々新しくされるようになさいました。そして、その聖霊はイエス・キリストの平安であり、その主の平安が私たちにイエス・キリストの教えを思い起こさせてくださいます。ヨハネは次のように記しています。

●「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:26-27)

私たちが、神様の完全なる世界に入るためには、私たちには聖霊様の助けが必要です。そして、その聖霊様は、私たちがイエス・キリストを信じることによって、私たちの心にお住まいくださいます。

さて、「完全なる世界に入り、完全にされる」ということは分かりましたが、「しばらくの苦しみのあと」とはどういうことでしょうか。この世を生きて行くことは「つらい」ことが多い、それも分かります。しかし、それは「しばらく」のことなのでしょうか。この「しばらく」とはどう考えるべきでしょうか。「完全の世界」が天の御国での永遠の世界であるならば、その完全に入る前の時間が「しばらく」の時間なのかもしれません。そうであるならば、この世での時間が「しばらく」の時間であり、それは「苦しみ」の時間なのだろう。私たちは、苦しい時、つらい時、その時間は永遠に続くように思われます。が、しかし、もしも苦しみや悲しみが永遠に続くとしたらどうでしょう。わたしは、そんなのはまっぴらごめんであります。この短い人生の中でも、苦しい時悲しい時辛い時、また心が痛い時、その時間は長く感じますが、神様の憐みによって、それは過ぎ去って行きます。そして、その苦しみの中で、主を愛する者は、ある悟りを得るのかもしれません。詩篇119篇では次のようにあります。

●「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって、幾千の金銀にまさるものです。」(119:71-72)

苦しみの中に、私たちは主を以前にもまして求め、主のおきてと主のみ旨を学ぶことができるのでしょう。そして、私たちは、私たちがどれだけ主を求め、主を頼りにしているか、それと同時に、主がどれほどまでに私たちを愛してくださっているかを気づくのであります。

「しばらくの苦しみ」の間は、永遠とくらべれば、あっと言う間なのかも知れません。しかし、私は、この世の時間を、苦しみであっても、大切にしたいと思っています。なぜなら、この世での苦しみによって、創造の神様を、また御子イエス様のことを少しでも分かるようになるのであれば、「しばらくの苦しみのあと」に希望をもちつつ、精いっぱい、主を求めて歩ましていただこうと思うのであります。また、私は、この世は、神様の恵みであふれていると感じています。その恵みを少しでも多く感じて、この世を全うしたいと願っています。

「人生楽ありゃ、苦もあるさ。涙の後には、虹も出る」

楽しい時も、苦しい時も、主を見上げ、主の御名を賛美し、主の御心を学びたいと思います。

お祈りいたします。

お祈りいたします。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「しばらくの苦しみのあと」という神様からのメッセージでありました。この世で生きている間に、主を知り、主を信じ、主の憐みをいただいていますことを、苦しみの内に主を求めることによって、主のみ教えを学ぶことができることを、またこの世は主の恵みで満ち満ちていることを覚えさせていただき、感謝いたします。どうか私たちが、常に主を見上げつつ歩むことができますようお導きください。

私たちの助け主であられるイエス・キリストのお名前により、このお祈りをおささげいたします。アーメン。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。