· 

メッセージ主題:『鏡よ鏡』

ぶどうの木キリスト教会

主日礼拝

2021時年6月13日

聖書拝読:ルカの福音書11章33節~36節(新改訳聖書)

中心聖句:

「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(35)

メッセージ主題:『鏡よ鏡』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

今朝は、昨日に続いて、結婚式の司式がございまして、八さん、熊さんはお手伝いに駆り出されております。それと、私もちょっと立て込んでいる状況がありまして、いつものペテロの手紙からのメッセージではなく、証し風のメッセージを短くさせていただきます。なにとぞ、ご容赦のほど、よろしくお願い申し上げます。

先日、休憩時間にアマゾンのプライムビデオで映画を観ました。長い休憩だとは思わないでください。英語の映画でありまして、英語の勉強にもさせていただいているのでございます。まあ、なんて言い訳がましいのでしょか。お許しください。

映画のタイトルは「白雪姫と鏡の女王」でございます。ジュリア・ロバーツとリリー・コリンズのダブル主演。ジュリア・ロバーツと言えば、「プリティウーマン」や「ノッテングヒルの恋人」などが有名で、かつてはラブストーリー映画の女王でありました。今回は同じ女王でも、白雪姫の継母で意地の悪い役柄でございます。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰。」

これは、皆さまよくご存じの女王の名文句でございます。鏡の答えは、女王の期待に反して、「白雪姫」。怒り浸透の女王は、それでも鏡は割りません。代わりに、白雪姫を無きものとしようと企みます。女王には鏡は割れない理由がございました。その鏡は女王の良心だからです。女王は、世界で一番美しいのは白雪姫であることに、気付いていましたが、それを認める勇気も意志もなかったのであります。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰。」鏡の前で、うっとりしながら、このようにつぶやいている美魔女の方も多いのかもしれません。最近は、男性の方もエステをなさるそうですから、「鏡よ鏡、世界で一番ハンサムなのは誰。」と鏡に映ったご自身に問うている方もいらっしゃるのではないでしょうか。まあ、私にはまったく無縁の世界でございますが。

この問いかけは何も鏡の前だけとは限りません。モーセが交渉していたエジプトのパロも「鏡よ鏡、世界で一番偉大なのは誰。」と、ああ鏡は省いて、「世界で一番偉大なのは誰。」と自問自答したに違いありません。もちろん神はパロのこころを頑なにしましたので、いくらモーセを通して神の力を見せつけても、「世界で一番偉大なのは私だ、またはエジプトの神だ」と思っていたのでした。

なにもエジプトのパロだけではございません。もちろん、「世界で一番」という形容詞はつかないかもしれませんが、「先生」という名のもとにある方々は、この勘違いの誘惑に陥る危険が常にございます。政治家の先生方は、「自分の選挙区では、私が一番偉い」と思い、誘惑に負ける方もいらっしゃるでしょう。また、学校の先生も「この教科ではこの学校で一番賢い」と知識をひけらかす御仁もいらっしゃるかもしれません。そして、私たちクリスチャンの教会でも、牧師先生方も「この教会の中で一番の権力者」と心の中で自負する方もいらっしゃるかもしれません。私たち牧師はここのところを気をつけないといけません。

また、逆のパターンもございます。「鏡よ鏡、世界で一番みじめなのは誰。」被害妄想、セルフイメージの低いかた。ここまでひどくなくても、「鏡よ鏡、誰も愛してくれないのは誰。」とか「鏡よ鏡、グループでいつも浮いているのは誰。」とか、誰もが、大なり小なり、この疑問を鏡に映った自分にぶつけているのではないでしょうか。

私たちはほぼ毎日鏡に映った自分を見ます。私もそうであります。まあ、私の場合は、朝に髭をそって、髪を整える時ぐらいであります。ある時期、私は、鏡を見ていますと、自分の醜いところが、映っているような気がしておりました。こう、目の下がたるんできたり、年をとると、いろいろなところが重力に負けてきます。いえいえ、そういうことではございません。自分の醜い心が、鏡に映っているようで、その時期、鏡をなるべく見ずに過ごしていたことがございます。そんな時にイエス様はある聖書の箇所を示されました。

ルカの福音書には、11章の34節~36節です。

●「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないから、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

ここでの「目」とは実際の目ではなく心の目です。私も、このように、私の身体全体が輝いて見えるのであれば、その心の健全な目をください、と神様に祈りました。すると、イエス様は、次のようにおっしゃられたような気がしたのです。『鏡の前のあなた自身をよく見なさい、あなたの心の醜いところ、不健全なところを、はっきりと意識しなさい。目をそらしてはいけません。その不健全な心の目を、あなたは自分自身で治せないのだから、私に任せなさい。私はそのために私の光をあなたの心に送って、あなたを内から輝かせます。これは、あなたとの共同作業です。あなたのなすべきことは、あなたの不健全なところをちゃんと認めることです。』

そして神様は、イザヤ書の43章4節を通してわたしにおっしゃいました。

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

神様の目は、正義の目であり、健全そのものです。そのお方が、私を愛してくださる。

「愛している」というのが、こそばゆければ、「あなたを大切に思っている」と言い換えればいかがでしょうか。私は、この言葉にとても慰められました。こんな私でも、神様は大切に思ってくださる。

それからというもの、私は鏡に映った自分の姿を逆に見るように努めました。しばらく、じっと鏡の前に立っておりますと、次第に分かって来るのでございます。おお、だいぶシミが増えたなぁとか、お腹がたるんできたなぁとか、いえいえ、そうではございません。このボケ二回目でございますね。すみません。なんか、こう顔色が明るくなってきているような気がするのです。神様の光が私の内から輝き始めているのではないかと、うれしくなり、神様に感謝することが多くなりました。肉体は衰えていきますが、気持ちはその光のおかげで、若返っていくのでございます。「あなたの心の中へ、わが子イエスからの光のプレゼントによって、内からあなたを輝かす。」とおっしゃってくださっている神さまに、感謝でございます。

世間の人は、それは気の持ちようだとおっしゃるかもしれません。しかし、私が努力して、気持ちを若返らそうとしているのではございません。神様の光が私を内から変えて行ってくださっているのです。ただ私は、神様の光を遮るような、私の悪い心を取り除いてくださいと祈り、その祈りが聞かれると信じて感謝をささげているだけなのでございます。

イエス様は私にいつも問いかけてくださいます。

●「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを大切に思っている。」

そして、私は鏡に問いかけます。

「鏡よ鏡、今日も神様の光で輝かせていただいているのは誰。」

お祈りいたします。

https://www.youtube.com/watch?v=yHraxLa3ZEg&list=RDyHraxLa3ZEg&start_radio=1