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メッセージ主題:『敬虔』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年6月27日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌203「ああイエス君、こよなき友よ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: ワーシップソング「御腕に抱いて」

交読: 交読文29:詩篇第95篇:新聖歌p. 903

十戒: 末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: ワーシップソング「主を仰ぎ見て」

聖書拝読:ペテロの手紙第二2章1節~10節(新改訳聖書)

中心聖句:

「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」(9)

メッセージ主題:『敬虔』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

最近、ニーバーの祈りというのを毎日のように、黙想しています。もちろん日本語でです。ラインホールド・ニーバーと言う方で、日本語訳は、大木英夫氏のものです。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

「変えることのできるもの」とは、神様の力をかりて、自発的に変えることのできるもの、例えば信仰もそうかも知れません。私もイエス・キリストを知る前までは、なんとなく仏教でした。しかし、イエス・キリストを信じる人々と出会い、イエス・キリストを知ることになり、イエス・キリストを信じてみよう、クリスチャンになろうと決断し一歩を踏み出すには、勇気が要りました。先祖の宗教と離別することを意味しますから。しかし、私はただ変えようと決断をしただけで、あとはすべて神様の憐みで、その信仰を続けることができました。神様はすべてにおいて関与し働かれておられますが、未来を切り開くことができるのは、私たちの決断ではないかと思うのであります。神様はその決断をする自由意志を尊重されます。もちろん、決断だけではなく、努力も必要です。最近、テレビドラマで「ドラゴン桜」と言うのがやっているそうですが、それも今夜が最終回だとか。私はまったく観ていないのですが、劣等生が東大を目指すストーリーのようですね、少なくても2005年に放映されたシリーズ1はそうでした。東大を目指すという決意をして、それに対して努力を積み重ねていきます。実際の東大受験は、みんなが努力をしていますが、みんなが合格するわけではありません。当り前の話です。しかし、その決意と努力は、なにがしかの形で、それぞれに、それぞれの形で報われるのではないかと、私は神様に期待しております。

また、「変えることのできないもの」、実は私たちの悩みの多くは、この「変えることのできないもの」が原因となっているのではないでしょうか。例えば、「過去のこと」「過去の犯した罪や行動」などは変えようと思っても変えられません。また、「他人のこと」「他人を変えようとすることは、ある意味傲慢であり無謀なことです」。「変えることのできないもの」とは、「神の力でしか変えられないもの」のことでもあるとも言えるでしょう。私たちの決断や努力の届かないところにあるものでしょう。私たちの「過去の過ちや罪」は、私たちではどうしようもありませんが、神の御子であられるイエス様が自らのいのちをいけにえとしてささげ、私たちの罪を贖ってくださいました。また、私たちは「他の人の考えを変えてください」と祈るかもしれませんが、実際に変えてくださるのは、その祈りをお聞き届けくださる神様であります。

そして、ニーバーは、「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」と続けます。これは、ソロモンが神様に願った知恵でもあるのではないでしょうか。ソロモンが願ったのは●「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」(1列王記3:9)識別する知恵と聞き分ける心、この冷静なる判断力は私たちが、生きる上でとても大切なものなのではないでしょうか。

私は、牧師としてだけではなく、一人の人間として、この冷静なる判断力を与えたまえと、主の御前に願い出る者であります。ニーバーの祈りは、私にとって、とても敬虔なる祈りのように思えます。敬虔とは、私たちが、主にすべてを丸投げするのではなく、主にあって私たちのできることを全力でなすべき姿勢だと思うのであります。私たちは、主にあっての、私たちの責任を果たす必要があると思います。敬虔とは、その判断を求める姿勢なのかもしれません。

短くお祈りいたします。

今朝は、ペテロの手紙第二の第2章から、『敬虔』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。第二ペテロ書第2章では、偽教師についての警告がなされております。偽教師は「敬虔」の対極にいる方々でしょう。ペテロはこの偽教師のことについて説明しつつ、その対極にある「敬虔」を浮かび上がらせているような気がします。まずは、ド直球に「敬虔」という言葉は、国語辞典で調べてみることにしましょう。

「敬虔」とは、「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依(つまり、服従し、すがって)、つつしみ仕えること。」だそうです。

さて、偽教師たちは、いったい何をして、ペテロから言及されているのでしょうか。

●「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」(1節)「すみやかな滅びを招く」

これは、使徒ヨハネが言うところの「反キリスト」のことでしょう。

●「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」(1ヨハネ2:22)

キリストの愛と恵みを味わったにもかかわらず、キリストを否定するものは、すみやかな滅びを招くのであります。

●「好色」(2節)「真理の道がそしりを受ける」

節操のない人のことですが、動物は種の保存のための営みはしますが、好色は人間だけであり、神の摂理に反する者ともいえるでしょう。しかし、この人たちは、本当の愛をしらずに、愛の影を追い求めて、本質をつかめず、満たされることなく、空しくさまよっている、ある意味かわいそうな人なのかもしれません。

●「貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします」(3節)「滅ぼされないままでいることはない」

これは、今でいう牧師の立場の人のことですが、人の救いのために、尽力をつくすのではなく、私腹を肥やそうとする方々であります。牧師も一般的な生活を望んで悪いというのではありません。以前、バブル崩壊の時に、その反省として、清貧という言葉がもてはやされました。中野幸次さんの「清貧の思想」はベストセラーになりました。お金や物がふえると、反対に心が貧しくなるという考えです。いまは、「断捨離」という言葉に代わって、必要なものを見直す試みがなされています。聖書は古(いにしえ)から、そのことに注目して「貪欲」を嫌います。牧師や教師にかかわらず、キリスト者は、「貪欲」を嫌い、清貧や断捨離を心がけたいと、物が増えすぎてしまって断捨離を考えている私などは、大いに反省するのであります。

●「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」(10節)

いわゆる、「高慢、傲慢」であります。この高慢の極みが、バベルの塔ではなかったでしょうか。創造物が創造主と同じレベルに立とうとする、また、神への反抗のシンボルとして塔を建てようとしました。

●「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地にちらされるといけないから。」(創世記10:4)

神はこれを見られ、彼らの言葉を混乱させ、彼らを全世界に散らされました。

しかし、今や、バベルの塔は私たちの心の中にあります。私たちは、高慢になりやすいものです。知らず知らずのうちに神に反抗したりしてしまいます。まだすねているだけだったらかわいいものなのかもしれませんが、やはり、私たち創造物は分をわきませ、神である創造者に対して、敬意を払わないといけません。

この章でも、ペテロの言及はまだまだ続きますが、「敬虔」を理解する入口としては、これで十分かもしれません。ここまで来てお気づきのように、これらのことは、偽教師に限ったことではありません。キリスト者全体に、神はペテロを通して、注意喚起を促しています。「好色」や「貪欲」や「高慢」は、みな、自己中心から生まれてきたものであります。自己中心は、神を心の中心としない、的外れな生き方であり、それが罪であります。

さて、八さん、熊さんは今日は、礼拝に参加されてますね。感謝です。ところで、八さん、熊さんは、今日のメッセージでの感想ございますか。

―――

八: 「経験」なぁ、むかし辺見マリが歌うてやつやったっけ。

熊: 辺見マリ、懐かしいなあ。って、あほ、漢字が違うやないかい。

八: おおきに。つっこんでくれて。久しぶりの礼拝やからうれしゅうなってもてん。

せやけど、「敬虔」って、わてには遠くのものに感じるわ。牧師はん言い張ったやろ。

「敬虔」とは、「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依(つまり、服従し、すがって)、

つつしみ仕えること。」って。

熊: うやまいつつしむことって、わてらのイメージには合えへんわな。

こんながさつもんから、どうしたら「つつしむこと」という言葉が出てくるんや。

八: おい熊、わての方ゆびさして、がさつもんって言わんでもええやないか。

熊もわても、どっこいどっこいやで。

熊: けど、「敬虔」とか「つつましさ」っていうから、縁遠いもんに感じるんとちゃうやろか。

牧師さん、ゆうてはったなぁ、「敬虔」は、「好色」や「貪欲」や「高慢」の反対側に

あるもんやって。そやったら、わてらが、好色や貪欲や高慢か、心に手をあててみて考えてみたらええんとちゃうか。

八: なるほどなぁ。じゃあ聞くで。八は好色か?

熊: あほ!どこの誰ぞが、好色かって聞かれて、「はいそうです」って答えねんねぇな。

八: それもそやな。じゃあ、聞き方変えるなぁ、「クマは女の子好きか、嫁さん、ほしいか」

熊: はい、ほしいです。って、何言わすねんな。嫁さんほしいのと、好色とはちゃうやろ。

八: 難しいなぁ。色キチって聞いても、おかしいしなぁ。

熊: まあ、どっちにしたって、女性には縁遠いから、飛ばしてええんちゃうか。

それよか、「貪欲」やで。まあ、ごおつくばりやわな。

お金に縁のない、八は、縁がないだけに、ガツガツしてんちゃうか。

八: なんでやねん。確かに、お金は喉から手が出るほど欲しい、

けんど、ケチケチしているわけやあらへんで。

切り詰めてるところは切り詰めてるけど、必要なもんは、神様から与えられてる。

いっつも感謝や。

そういう熊はどうなんや。なんや最近、小銭貯めてるらしいやないか。

熊: おお地獄耳やな。実はな、牧師さん、新しい集会所を捜してはるやろ。

その敷金がいるかも知らへん。ちょっとでも足しにしてもらおうと思ってんねん。

八: さよか、そりゃあししょうなこっちゃ。わても一口かまして。

熊: まあ、塵も積もれば山となるちゅうやっちゃ。大したことはできひんけどな。

八: そうか、じゃあ、わてら、貪欲でもなさそうやな。じゃあ、高慢はどや?

熊: 高慢かどうかは、わからんけど、人を非難するのも高慢のようなものとちゃうか。

八: クリスチャン同士でやりあっていることあるわなぁ。なんか、悲しいけんど。

熊: まあなぁ、「罪びとの頭」や、言いつつ、「自分は正しい」と思てる御仁も

いらっしゃるから、なかなか難しいとこもある。違いもみとめて、

仲ようやってくれたらええんやけどな。

八: 非難もやっぱり、高慢からくることも多いねんやろな。気をつけなあかんな、わてらも。

熊: 心でおもとっても口に出したらあかんわなぁ。

八: 熊、心でおもとってもあかんやないかいな。イエス様おっしゃったやないかい。

「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、

すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

熊: ありゃー姦淫の話やろ。

八: そうやけど、あれは、心でおもてることが、態度や行動に出るんや。

だから、心でもそんなこと思わんようにせんとあかんねや、という話やないかいな。

熊: 八のいう通りやな。でも、難しいで、心で思わんようにするには。

八: わてらの力じゃあ無理や。変えてもらうように、神様に助けてもらわんとな。

熊: わてらはなんもせんでもええんか。

八: わてらの責任は、祈ることや。

傲慢な心を変えてください、思いを変えてください、ってな。

熊: おお、今日の牧師さんのまくらでゆうてはったニーバーの祈りやないかいな。

八: まあ、そやな。さて、ニーバーの祈りに落ち着いたところで、

牧師はん、そちらにお返しいたします。

―――

八さん、熊さん、ありがとうございます。敬虔という状態は、祈りに現れるのではないでしょうか。また、そのように祈る人に表されるのかも知れません。主の前に出て、「自分自身を変わらせて下さい」と祈る姿の中に敬虔が現れるのではないでしょうか。敬虔なクリスチャンという表現がありますが、それは、その人の「全ては主の栄光が現されるために」と祈る祈りの中に現れるのだと思えてなりません。また、私たちが、祈りにおいて、主に素直になれるときこそ、敬虔が現わされるのかもしれません。

さて、黙想の時を持ちたいと思います。どうか、今朝の学びの中で、示されたこと思わされたことをもう一度振り返ってみてください。

黙想の時に、詩篇40篇をお読みいたします。

黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。ルカの福音書6:45です。

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」

では、黙想いたしましょう。

詩篇40篇。

お祈りをいたします。

愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「敬虔」という神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。私たちが、主に、「変えることのできるものについて、それを変える勇気を、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを、そして、それらを識別する知恵を与えてください」と祈るとき、私たちは主に対して、素直な気持ちになれます。祈りを通して、主に対して素直な気持ちになれること自体に、敬虔が現われるのかもしれません。どうか私たちが、主に対する敬虔を忘れないようにしてください。

私たちの平和の君、イエス・キリストのお名前により、このお祈りをおささげいたします。

アーメン。

献金の時

礼拝と献金の感謝

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。