メッセージ:「日々巡礼」(15分間メッセージ)

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

7月1日

担当:若竹孝行

メッセージ:「日々巡礼」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:詩篇119章〜120章

120章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:120:1-2

「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。主よ、私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から、救い出してください。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

この詩篇は、エルサレムに巡礼する人々によって歌われた、「都上りの歌」群134篇までのいわば序章であります。

詩篇120篇も7節と短いですので1節ずつ見て行きたいと思います。

●1「苦しみのうちに私が主を呼び求めると主は私に答えてくださった。」

これは、苦しみからの救いを求め、それを主はききとどけてくださった、と過去の救いに対しての主への賛美のことばだとも取れます。これから、主を礼拝しに都エルサレムに向かうときの、口火を切る歌のはじめの出だしが、過去の救いに対する証しであり、賛美であるのです。主はわたしたちの願いを聞いてくださっている、昨日も今日もという連続性を強調しているとも考えられます。

●2「主よ、私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から、救い出してください。」

1節目とは違い、2節目では、苦しい現状が記されています。「偽りの唇、欺きの舌」とは日常的に起こるいざこざであり、フラストレーションであります。争いを好み、偽善的で、不誠実な人々のなかでの生活に疲弊しきった魂を、都での礼拝で新しくしていただこうと願うのであります。旅自体は、英気を養うためのものでもあるでしょうし、まして、都への巡礼の旅は、彼らの魂を生き返らせるのであります。巡礼の旅は、聖地礼拝において、自らを主にささげるために、主によって、整えていただくためのものともいえるでしょう。

●3「欺きの舌よ、おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるだろうか。」

不信仰な者に対する神のさばきを期待し、かつ、今その世界から逃れて都に上る自分たちが、都に近づくにつれ、一皮一皮、そぎ落とすように、悪をふり払うような、そんな思いが伝わってきます。または、巡礼の準備をしつつ、世間のほこりを払い落す行為でもあるでしょう。

●4「勇士の鋭い矢、そして、えにしだの炭火だ。」

不信仰な人たちに、加えられるのは、戦闘用具の火矢、矢の先に火をつけて、矢を放ち、相手の陣営や住みかを焼き払う。まるで、ソドムとゴモラに対する神の怒りを思い起こさせます。(創世記19:23-25)

●「太陽が地の上に昇り、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主は硫黄と火を、天から、主のもとからソドムとゴモラの上に降らせられた。そうして主は、これらの町々と低地全体と、その町々の全住民と、その地の植物を滅ぼされた。」

この4節は、世俗の世界との決別を意味していることばともとれます。そして、その逆に、ソドムから救い出されたロトの姿を自分にかぶせているようにもとれます。

●5「ああ、嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕に身を寄せるとは。」

「嘆かわしいこの身よ」とは、都から遠く離れた巡礼者が、自らの現状が、霊的にも遠く離れていることを嘆いています。彼らが、まるでメシェク(黒海に住む野蛮な民族)のごとくであり、ケダル(アラビア砂漠に住む部族)のような不信仰者と同じであると、嘆きつつも悔いているのであります。

●6「この身は、平和を憎む者とともにあって久しい。」

悔い改めは、自らの非や罪を認め告白することから始まります。自分たちの罪を悔い改め、巡礼へと向かう準備をしているともとれるのではないでしょうか。そして、いかに、この巡礼の旅を待ち焦がれていたかが想像できます。巡礼には、時間も費用もかかります。日々の生活に追われつつも、この巡礼を待ち望みつつ、そのための費用を少しづつ、ねん出していく、期待をこめて。「久しい」という言葉に、私は彼らの期待を感じるのであります。

●7「私が、平和を――と語りかければ、彼らは戦いを求めるのだ。」

巡礼者の住む町では、「平和」がない。「戦いを好む」者たちに、圧倒された、彼らの窮屈な生活状況が読み取れます。そこからの唯一の解放が、巡礼であるのでしょう。巡礼者の「魂の平和」に対する期待度の高さがうかがわれます。

この都上りの歌では、過去の、主に求めて答えられたことへの感謝と主への賛美、そして今回の巡礼への期待。また、主に求めるのは、7節の「平和」であることを明確にし、締めくくられています。

私はこの詩篇120篇を詠んでいて、創世記の19章があたまに浮かんできて仕方がないのです。ソドムに住んでいたよそ者ロトの家族、その家族に御使いが二人、訪れます。しかし、それを聞きつけたソドムの男たちが、その二人を引き渡せと迫ります。二人はロトを家の中に引き入れ、戸を閉め、彼らは目つぶしをくらったので、力も萎えてしまいます。その二人はソドムを滅ぼすために遣わされた方で、ロト家族を助け出し、平和を実現します。

ロトは自ら進んでソドムに住み着きました。しかし、彼は後悔していました。ソドムの民は、不信仰極まる者たちで、彼らとの生活は苦闘の連続でした。そこに、二人の御使いが現われ、ロトは彼らに「平和」を見たのです。そして、彼らを家に招き入れ、つまり、ロトは悔い改め、平和を受け入れたのであります。ロトは、彼らを家族よりも大切なものとして扱いました。それがゆえに、ロトの家族はソドムから導き出され、救われます。

詩篇120篇は、過去の主のなさった御業の感謝と賛美、そして、巡礼の旅の途中また、準備段階での、罪にまみれた現状生活への離別と悔い改め、「平和」への期待が記されています。

この詩篇は私たちの日常生活における信仰のありかたを示されているのではないでしょうか。ほとんどのクリスチャンは、社会の中でもまれて生きています。日々の生活の中で、主が救い出してくださっていることを、まずは感謝し、主をほめたたえる。それから、主に期待し求めるのであります。しかし、主に近づき、主を求めるときに、私たちは自らの罪を認め、悔い改めなければなりません。そして、古い生活スタイルからの決別を決心しなければなりません。そうでなければ、私たちは、ロトの妻のように、塩の柱になってしまうでしょう。塩には命は宿りません。塩の柱は、死を意味します。そして、この巡礼は日々行われることなのです。巡礼の日々、それが現代のクリスチャンのなすべき生活スタイルではないでしょうか。私たちは、主の恵みの中で、私たちに聖霊様が宿ることで、私たちの体は主の宮とされます。つまりは、日々、都詣でができる恵みにあずかっています。これこそが、イエスキリストの恵みなのです。

さあ、今日も都詣でをいたしましょう。

愛を伝えるために(カバー)歌詞付き - ルア・ワーシップ

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=MR0tW7pWV8Y&list=RDGMEMMib4QpREwENw3_jAc0YgNw&start_radio=1&rv=yHraxLa3ZEg

お祈りいたします。

主のいのり