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メッセージ主題:『人間の時間と神の臨在』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ペテロの手紙』

2021時年7月4日

聖書拝読:ペテロの手紙第二3章8節~18節(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(8)

メッセージ主題:『人間の時間と神の臨在』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

集中豪雨のため、熱海の土石流が発生し、その映像がニュースを騒がせています。見るたびに、生存者が早く助けられますようにと祈るばかりです。日本は主に火山を中心とした花崗岩でできていますので、雨にはもろく、鉄砲水や土石流が同じところに繰り返し発生しやすいということです。また、日本には竜神伝説がたくさんありますし、龍の文字が入った土地も多く見受けられますが、そこはかつて、鉄砲水や土石流の被害があった場所でもあることが多いそうです。とくに、今、地球温暖化で雨の量が半端ではなくなってきていますから、先ほどのような土地は、要注意なのでしょう。今回の熱海の被害地もハザードマップの要注意地域でもありました。コロナ禍に加えての自然災害、注意したいものです。

熱海の被災者の方々のために、短くお祈りしたいと思います。

さて、先週は、ペテロの手紙第二の第2章から、『敬虔』と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。第二ペテロ書第2章では、偽教師についての警告がなされております。偽教師は「敬虔」の対極にいる方々でしょう。ペテロはこの偽教師のことについて説明しつつ、その対極にある「敬虔」を浮かび上がらせているような気がします。

敬虔という状態は、祈りに現れ、また、そのように祈る人に現わされるのかも知れません。敬虔なクリスチャンという表現がありますが、それは、その人の「全ては主の栄光が現されるために」と祈る祈りにおいて、そして、主に素直になれるときこそ、敬虔が現わされるということも、主に学ばせていただきました。

さて、今朝は、ペテロの手紙、最終章、3章から、『人間の時間と神の臨在』と題しまして、神様からのメッセージを心に刻みさせていただきます。私たち人間には、1日24時間という時間感覚があり、太陽を中心とした太陽暦と、月を中心として太陰暦が混在しています。しかし、永遠である神様の時は私たちの時間とは異なります。私たちは、そのことを、いとも簡単に忘れて、私たちの都合で祈ったり行動したりすることもあります。まあ、それは仕方のないことでもありますが、そのことを戒めるペテロの言葉が、16節にございます。

●「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」

聖書のことばの中には、「理解しにくいところもあります」ので、そのような自分勝手な解釈によって、神の御旨を読み間違うことも出て来るのでしょう。そういう私も、牧師として、いろいろと御言葉を解釈しようとしますから、その危険はあるわけです。「人のふり見て我がふり直せ」とはよく言ったものでございます。

しかし、私たちは、今日のこの2ペテロの手紙3章の中の2つの言葉を心に留めたいと思います。

●「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」(15節)

ペテロは、主の日であるイエス様の再臨、イエス様の裁きの日のことを述べております。ペテロの生きていた時代でも、主の日はいつかいつかと待ち焦がれていました、そして、2000年経った今も、私たちは、主の日を待ち望んでいます。主の日は近いと言われます。いえ、言われ続けています。そして、ペテロは●「主の日は、盗人のようにやって来ます。」(18)と述べています。だから、私たちは目をさまして、●「しみも傷もない者として、平安をもって御前にでられるように、励みなさい。」(14)と、ペテロは愛を持って、私たちが救いからもれることのないようにと警告しているのです。そして、主が再び来られる日が裁きの日でありますから、それまで、主は一人でも多くの方が救われることを望んでおられるのです。あたかも、主がアブラハムの交渉にわざわざ応じたぐらいですから。(創世記18:23-32)

●「アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。、、、』主は答えられた。『もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。』」(略)

アブラハムの交渉はまだまだ続き、45人では、40人では、30人、20人、そしてついに10人。

アブラハムはこのように主に食い下がります。いえ、主がアブラハムの食い下がりをお赦しになったのであります。親が子どもの必死なる訴えを、尊重して聞くように、主はアブラハムの交渉に応じ、また同時にソドムを救おうと試みるのであります。まことに「主の忍耐は救い」なのであります。

もう一つの言葉は、18節です。

●「このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン」

これはとても興味深い表現だと、私には思えるのです。

「永遠の日に至るまで」とは、イエス・キリストの再臨の日までのことであります。私たちには、主の再臨の日がいつなのかは分かりません。しかし、主の日の瞬間からは、永遠でありますから、主の栄光は永遠に続くことになります。では、私たちクリスチャンがよく口にする、「神に栄光あれ」の「主の栄光」とは何でしょう。一口で言えば、「神の霊の美しさ」でしょうが、これもまだ分かりにくい表現です。「神が神である要素」これもまだ分かりにくい。では、このように考えてはいかがでしょうか。私たち人間も神の栄光を現すものとして造られました。(イザヤ43:7)

●「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

土の器が人間とされるのは、私たちに神の栄光が現わされるからであり、逆にいえば、神の栄光を入れる器が私たちという事もいえるでしょう。

●「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(2コリント4:7)

つまり、私たちが、美しいと感じ、神の創造に心惹かれるものが神の栄光であるとも言えるでしょう。

神の栄光は、神がこの世界を創造された時から現れているのですが、イエス・キリストによって、神の栄光は、「愛」であること、つまりイエス・キリストの福音が、神のこの世界の創造と同じように、愛の結晶であるということが表されました。(ヨハネ3:16)

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

また、この意味では、「永遠のいのち」も神の栄光であるとも言えるでしょう。

さて、遠回りをしてしまいましたが、今朝のメッセージタイトル「人間の時間と神の臨在」を少し考えたいと思います。つまり、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」という御言葉です。永遠なる神、過去・現在・未来を自由自在に存在できる神は、私たち人間の時間感覚では理解できないお方であります。神を信じない進化論者の計算する、地球の誕生と現代人の誕生を、彼らの時間軸で表しますと、「もし地球の46億年の歴史を1年間におきかえて考えると、20万年前の人類誕生は12月31日の午後11時37分となる」そうです。地球の歴史に比べると、人類の歴史はまだまだ始まったばかりだという面白い比較であります。しかし、永遠ということを考えると、46億年も20万年も、まったく「あっ」と言う間のことなのです。「あっ」という間だから、永遠の神が重要視しないということではありません。神は私たちの1日ですら、大切に思ってくださるのです。なぜなら、神は常に私たちと共にいてくださり、私たちを見守っていてくださるからです。また、私たちの1秒という一瞬の間ででも、大きな働きをなしてくださることも可能なのです。「一日は千年のようであり、千年は一日のよう」であるとは、永遠なる神様の時間感覚であり、いえ、永遠ゆえに私たちの思う時間感覚というものがないとも言えるでしょう。神様にあるのは、臨在感覚だけなのではないかと、私などは思ってしまうのです。

ですから、私たちが神様に何かを願う時、主の臨在こそを願う、祈りの対象者が自分であっても、他の人であっても。

さて、今日は、八さん、熊さんは、結婚カウンセリングのお手伝いで出かけております。

八さん、熊さんがいらっしゃったら、怒られているかもしれませんね。

今日は、三つのことが、頭にグルグル回っていて、まとまりがついていません。

「主の忍耐は救い」であること、「主の栄光は、神の霊の美しさである愛と永遠のいのち」、そして、「時間と神の臨在」のことを黙想させていただきました。この三つの鍵となるのが、「永遠」であります。この永遠ということを抜きにしては、「救いも栄光も臨在」もありえないのではないでしょうか。神の「永遠」とは、「いのち」のことであり「愛」でもあるでしょう。「永遠の愛といのち」は神だけに存在し、その「永遠の愛といのち」を共有できるのは、イエス・キリストを通して、神の共同相続人とされた、キリストを信じる人たちなのであります。

神様から相続させていただいた「永遠の愛といのち」を、私たちが、この世に生きているあいだに、どのように輝きをもたせていただけるか、それはペテロの言うところの「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において、どのように成長させていただくか」(18)ということにかかっているのでしょう。

さて、黙想の時を持ちたいと思います。どうか、今朝の学びの中で、示されたこと思わされたことをもう一度振り返ってみてください。

黙想の時に、詩篇16篇をお読みいたします。

黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。ヨハネの福音書4:14です。

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

では、黙想いたしましょう。

詩篇16篇。

お祈りをいたします。

愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「人間の時間と神の臨在」という神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。主の永遠のいのちは、「主の救い」と「主の栄光」と「主の臨在」に、密接に関係していることを学ばせていただきました。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において、私たちが、どのように成長させていただけるかを、聖霊様の導きに大いに期待いたします。

私たちの主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。