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メッセージ主題:『交わり』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヨハネの手紙』

2021時年7月11日

聖書拝読:ヨハネの手紙第一1章1節~10節(新改訳聖書)

中心聖句:

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(9)

メッセージ主題:『交わり』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

東京五輪が、非常事態宣言下の中、基本無観客で行われることとなりました。私には、非常事態という危機的な状況にある中での、オリンピックという平和とスポーツの祭典が行われることに、どうも違和感があります。さまざまな意見や思惑があり開催ということになり、無観客ということになりました。末端の関係者は、今てんてこ舞いだそうです。しわ寄せはいつも弱い立場の人に現われます。私の個人的な考えはどうあれ、いったん、開催すると決まったのですから、オリンピックとその後のパラリンピックが、初めから終わりまで、コロナ禍からも守られ、感染者数や重症者数が抑えられますように、また、オリンピックの奴隷のようになって、働いていらっしゃる方々やアスリートの方々の健康もお守りくださいとお祈りしたいと思います。

短くお祈りいたしましょう。

さて、先週は、ペテロの手紙、最終章、3章から、『人間の時間と神の臨在』と題しまして、神様からのメッセージを心に刻みさせていただきました。主の永遠のいのちは、「主の救い」と「主の栄光」と「主の臨在」に、密接に関係していることも学ばせていただきました。

さて、今週からは、ヨハネの手紙に入ります。今朝は、ヨハネの手紙の第一、1章から、「交わり」というタイトルでメッセージを取り次がせて頂きます。この第一ヨハネの1章は短いのですが、その中に、「もし」という言葉が5回も出てきます。

●6節「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、」

●7節「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、」

●8節「もし、罪はないと言うなら、」

●9節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、」

●10節「もし、罪を犯してはいないと言うなら、」

これらの「もし」は罪と悔い改めの問題を提示しています。そして、6節8節10節は、私たちキリスト者としてはあってはならないことを、ヨハネは、恐らくあるグループを念頭におきながら、手紙をしたためているような気がします。

●6節「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」

キリスト者であり、うわべだけは、熱心に教会生活をしつつも、教会以外では、神に背き、罪を犯し続けている人に対する警告とも取れます。私たちは、みな罪人であり、誘惑にも弱く、罪を犯さない人はいません。しかし、ヨハネは私たち全員を対象にして、訴えているのではありません。もちろん、キリスト者全員が、そのような歩みをする危険性をはらんではいますから、あえて「もし私たちが」と述べています。

「やみの中に歩んでいる」とは、悔い改めをしない人たちです。いえ、悔い改めをできない状態にあるのかもしれません、つまり、罪の意識が鈍っている人、一方で、「主よ、イエス様」と祈りをしつつ、罪の意識が鈍らされているので、「ま、いいか」と思ってしまい、それが常習化してしまっている人たちかもしれません。「自分はそうでない」と思っているかもしれませんが、「ま、いいか」と無かったことにしてしまう、それが癖になってしまう。罪の意識が鈍ってしまい、最後には、罪に対して無感覚になってしまう。そして、イエス様を見失ってしまうことになります。これほど、怖く、質(たち)の悪いことはありません。そして、誰にでもおこることなのです。

「ま、いいか」とか「ちょっとぐらい」と思う軽い気持ちから、その病は始まります。罪の痛みを感じるときは、まだいいのです。その病状が進んで行きますと、その罪の痛みを感じなくなる。痛みを感じなくなるというのは、死んだ状態と同じです。体もそうです。神様は私たちの体になにか異変が起きれば、熱がでたり、痛みがあったりするように造られ、私たちに警告を与えられます。生まれつき痛みを感じない方がいらっしゃるそうですが、その方は、痛みがないので、自分の体の異変に気が付くのが遅れ、取り返しのつかない状態に陥り、死んでしまうことが多いのではないでしょうか。

また、喧嘩もそうです。叩かれたり殴られたりして痛い思いをするから、程度を覚え、それ以上やったら、相手は死ぬからそこでやめておこうとなるのです。痛い思いをしなかったら、相手の痛みも理解できないので、結局、相手を死に追いやるのではないでしょうか。神様は私たちをお造りくださったとき、良心をも植え付けてくださっていますから、その良心によって罪による心の痛みが生じるのですが、その心の痛みが麻痺してしまえば、私たちは、主の道を歩めなくなってしまうでしょう。「ま、いいか」「ちょっとぐらい」と思う心の隙は、あたかも麻薬のように私たちに判断力をなくさせ、闇の中に導くのです。

さて、次に8節です。

●「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」

この罪とは単数形の罪として記されていますから、ヨハネは原罪のことを言っているのかも知れません。もし、そうだとすれば、「原罪は存在しないと主張するグループ」のことを指して言っているのかもしれません。もし「神から離れるという原罪」が存在しなければ、今の私たちの罪も存在せず、イエス・キリストがこの世におくだりくださって、十字架によって私たちの罪を肩代わりし、帳消しにしてくださったことも全く意味のないものとなってしまいます。つまりは、キリストをお送りくださった創造主である神の存在をも否定することにもなりかねません。もし罪がなければ、私たちの良心の呵責のような、醜い心の部分はどう説明するのでしょうか。ヨハネはその意味で、「自分を欺いている」と訴えています。また、そのように考える人たちは、私たちが思う醜い心の部分をも自然の摂理のように考え、その行動を肯定し、世を乱していきます。全ての悪行も是認されるわけですから、ヨハネが「真理は彼らのうちにない」「彼らには神はいない」と述べるのも理解できます。

次に10節です。

●「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」

ここでの罪は複数形で記されていますので、個々個々のさまざまな罪を意味します。そのざまざまな罪を犯していないとは、自分自身を正しいものとするということではないでしょうか。パウロはローマ書で、全ての人は罪を犯していると主張しています。

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義を認められるのです。」(3:23-24)

「罪をおかしてはいない」と主張するということは、キリストの罪の贖いを無視することとなり、キリストをお送りくださった神の御業を無にすることになります。そして、聖書のみことばが、その人たちの心の中に生きて働いていないということになります。つまり、キリストを証しする聖書のみことばを軽視することでもあるでしょう。パウロはコリント人への第一の手紙で、次のように述べています。

●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1:18)

イエス・キリストの福音を信じないで、自分たちは正しいと、自己義認する人たちは、聖書のことばは、生きる力とはならないのです。

では、イエス・キリストを信じる私たちは、いったいどのようにして、これらの惑わしから遠ざかることができるのでしょうか。

ヨハネは、3節にその答えともとれることばを残しています。

●「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちも交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

クリスチャン同志の交わり、ここでは賛美と御言葉と証しと祈りを中心とする交わり、礼拝のことでもあるでしょうが、その交わりは、父なる神と、御子イエス・キリストとの交わりであると主張します。

惑わしから遠ざかるということは、つまりは、神、そしてキリストに近づくということです。クリスチャン同志の交わりを頻繁にそして密にすることによって、キリストに近づき、惑わしから遠ざかることになるのです。

私たちがイエス・キリストを救い主と信じた時点で、キリストは、キリストの平和である助け主聖霊様を、私たちの心にお送りくださり、聖霊様は私たちの心に住まわれます。しかし、それだけでは充分ではありません。聖霊様に自由に働いていただくためには、私たちの心を明け渡さなくてはなりません。しかし、それはなかなか至難の業です。そこで、主は、使徒ヨハネを通して、クリスチャン同志の交わりの大切さを説きました。この交わりが、私たちの心を聖霊様に明け渡し、聖霊様が私たちを罪を犯しにくい性質へとかえてくださり、またイエス様の教えを思い出させてくださるように働いてくださる、その助けをクリスチャン同志の交わりが促してくれるのです。もちろん、一人となって、直接、主との交わりを行う、日々のディボーションも大切です。それは言うまでもありません、が、しかし、礼拝もクリスチャン同志の交わりも、聖霊様に働いていただくための明け渡しとして、とても大切な役割を果たしています。

それは、まさに、イエス様がおっしゃる次の約束の通りです。

●「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:18-20)

そして、罪の告白も、信仰告白と同じで、主にあるクリスチャン同志の交わりの中でなされるとよいのです。確かに勇気のいることではありますが、信頼できる者同士の中で、罪の告白を行うべきだと考えます。それを聞いた人たちも祈ってくださるからです。ヨハネは9節でその罪の告白の大切さを語っています。

●「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

この意味では、自分の罪をも告白できるクリスチャンの交わりは、とても大切でかけがえのないものだと言えるでしょう。同じことを7節でもうたっています。

●「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

さて、ヨハネの第一の手紙の1章では、罪のことがメインに示されているように見えますが、これまで見てきましたように、ヨハネは罪の告白もできるクリスチャン同志の交わりを強調しています。聖霊様の働きは、私たちの信仰を強めてくださるだけでなく、間違った教えや惑わしや誘惑から遠ざかるように動かれますが、その聖霊様の働きを助ける、一つの手立てが、クリスチャン同志の真摯な交わりであります。

残念なことに、今、コロナ禍にあって、その交わりがなかなかできにくい状況にあります。しかし、悪い事ばかりではありません。例えば私の場合ですと、リモートによる祈り会が、このコロナ禍でいくつか生まれています。リモートですから、距離は関係ありません。通常でしたら、集まれない人たちが集まれるのです。顔を映すかどうかは問題ではありません。主の働きを分かち合い、祈り合うこと、ただそれだけです。今はまだ罪の告白をするまでの関係になっていませんが、その時がくれば、そうなるでしょう。もちろん、リアル祈り会も大切です。しかし、時間の節約にもなるリモート祈り会も、同じぐらい大切だと、今は実感しています。コロナが収束した後も、このリモート祈り会を積極的に続けて行きたいと思っています。

皆さんは、いかがでしょうか。交わりをもっと大切に思って、コロナ禍で交わりができないと嘆くのではなく、コロナ禍でも交わりを持てる、どんなことがあっても持ち続ける工夫をしてみませんか。

さて、今日は、八さんも熊さんもいらっしゃいますので、お話しをお伺いしましょう。八さん、熊さん、お二人は交わりをどのようにお持ちですか。

―――――

八: 交わりは大切やなぁ。神様は人と人が交われるように造りはった。

熊: そやなぁ。わても、八つぁんとこうやって交わってるさかい、

教会生活もつづいているんや。まっこと、「ふたりでも三人でも、

わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」は、真理やなぁ。

八: けんど、牧師さんがゆうてはった、「クリスチャン同志の交わりに、聖霊様が働いて

罪を犯しにくくしてくださる」。これはいままで気ぃ付けへんかったわ。

熊: いろんな罪深い誘惑やら惑わしやらから避けられるように、交わりがあるんやって、 目からうろこやったわ。わてらは、独りでは弱い。けど、2,3人よれば、その弱さを

カバーできるように、励まし、祈り合えるんやから。

八: わてら、将棋仲間でもあるやん。わてらの将棋はへぼ将棋やけど、

将棋しているだけとちゃうもんな。

熊: そやな、今日は調子よさそうやなとか、何か機嫌でもわるいんかなとか。

将棋しながら、いろんなこと考えて、いろんな話をするもんな。

それに、将棋のする前とした後に簡単やけど祈りの時間ももつもんな。

八: そや、それがええとこや。ちょっとまえ、釣りに誘われたやないか。そん時も、祈りに始まって祈りで終わった。あれが、ええなぁ。

熊: それに、ほれ、最後の最後にやっと釣れた人がいたやろ。わて、祈ってたもんな。

その人がクリスチャンやねんからボウズになりませんようにて。

八: クリスチャンがボウズになりませんように、てか。そりゃ、ええな。

神様は、ほんまにあきらめん人を、「がっかり」から引き上げてくださる。感謝やなぁ。

熊: 交わりは、祈りに始まって祈りに終わる。ええこっちゃ。

八: それに、わて、今日のメッセージで気になることがあるんや。

メッセージの初めのころにゆうてはった、「ま、ええか」とか

「ちょっとぐらい」っていう、気のゆるみ。危ないなぁ、あれ!

熊: わても、ときどき、してしまうんや。「神様、ちょっと目つぶっといて」って言いながら。

八: 熊もかいな。わてもあるわ。「神様、かんにんな」ってゆうって。

熊: こんどから、あれやな。その罪もお互い告白したほうがええんとちゃうか。

八: まあ、そやな。熊とやったら、なんでも話せるような気がするわ。

熊: そんで、リモートにする?リアルでする?

八: なにゆうてんねん!隣同士やないかいな。

うすぺらい壁一枚通してでも、だいじょうぶやないかい。リアルに決まってる。

熊: さよか。今の若者は、リアルデートでも、お互いにメールで会話してるらしいからな。

八: じゃまくさいなぁ。それにわてら、メール打つのんおそいから、会話になれへん。

熊: それもそやな。、、、わてら、あんまり、将棋と礼拝でしか交わってなかったから、

祈り会もええかもしれへん。

けど、むさくるしいおっさんが、面と向かっては、ちょいとなぁ、、、

「祈り会」ゆうのも仰々しいなぁ。

八: じゃあ、こうしたらどうやろ、将棋しながら、罪の告白っていうのは。

いっつも、将棋しながら、いろんなこと、しゃべってんねんから。

時には、罪の告白も、ちょっとさらりとしてみてもええかもな。

熊: そりゃ、ええ案かもしれんな。さっそくやってみよ。将棋の途中で祈ってもええし。

八: 将棋祈り会か、それで、「神様、ちょっと目つぶっといて」とか

「神様、かんにんな」というのがちょっとでもすくなぁなったらええなぁ。

熊: そやなぁ。ついでに牧師はんも仲間にいれよか。

八: ええなぁ。そうしょうか。、、、けど、三人でどう将棋する?

熊: まあ、そん時考えよ。牧師さん、これから将棋祈り会するでぇ。仲間にはいってな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。将棋祈り会の仲間に加えてくださって感謝いたします。

将棋はへたくそですから、教えてくださいね。交わりはいいものです。いろいろと雑談をしながら祈り合っていきましょう。楽しみにしています。

さて、黙想の時を持ちたいと思います。どうか、今朝の学びの中で、示されたこと思わされたことをもう一度振り返ってみてください。

黙想の時に、詩篇26篇をお読みいたします。

黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。マタイの福音書26:41です。

「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

では、黙想いたしましょう。

詩篇26篇。

お祈りをいたします。

愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「交わり」と題しまして神様からのメッセージを賜わりました。コロナ禍にあって、私たちクリスチャンの交わりが希薄になっています。交わりは、聖霊様の働きを助け、わたしたちを、罪の誘惑から遠ざけ、惑わしや間違った教えを気付かせてくれます。リモートであれ、リアルであれ、交わりを密にすることができますよう、私たちを励まし導いてください。

私たちの主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。