メッセージ:「主への恐れと主への愛」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

7月15日

担当:若竹孝行

メッセージ:「主への恐れと主への愛」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:箴言22章〜24章

23章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:23:17

「心のうちで罪人を羨んではならない。いつも、ただ主を恐れていよ。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

箴言には「~してはならない」という禁止表現と「~せよ」という命令表現がよく出てきます。23章に限っても、禁止表現は11箇所、命令表現は7箇所あります。

禁止表現

●3「(支配者との食事の席で)そのごちそうを欲しがってはならない。」

●4「富を得ようと苦労してはならない。自分の分別によって、これをやめよ。」

●6「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。」

●9「愚かな者に話しかけるな。」

●10「昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑に入り込んではならない。」

●13「子どもを懲らしめることを差し控えてはならない。」

●17「心のうちで罪人を羨んではならない。」

●20「大酒飲みや、肉を貪り食う者と交わるな。」

●22「あなたの母が年老いても蔑んではならない。」

●23「真理を、、、売ってはならない。」

●31「ぶどう酒が赤いとき、杯の中で輝くとき、滑らかにこぼれるとき、それを見てはならない。」

命令表現

●2「(支配者との食事の席で)あなたが食欲の盛んな人であるなら、自分の喉に短刀を当てよ。」

●12「あなたは訓戒に心を用い、知識のことばに耳を傾けよ。」

●17「いつも、ただ主を恐れていよ。」

●19「わが子よ。よく聞いて、知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ。」

●22「あなたを生んだ父の言うことを聞け。」

●25「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ人を楽しませよ。」

●26「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。」

これらをまとめますと、「世の享楽を求めても、羨んでも、いけない。また、そのような者におぼれている人と親密に交わってもいけない。」また、「両親を敬い、主を愛せよ。」と述べているように思われます。

その中で、今朝のメッセージの中心聖句17節●「心のうちで罪人を羨んではならない。いつも、ただ主を恐れていよ。」は、この23章の代表的なことばです。

ここでいう「罪人」とは、もちろん犯罪を犯した人のことではなく、神を畏れない人、神から遠くにいる人、自分を中心にする人のことであります。つまり、聖書のいう、この世のこと、神が造ったものではなく、人間が作ったものであります。このみ言葉は、この世を羨んではいけない、心惹かれてしまってはいけないと、私たちに注意喚起を促します。神が造り給うたものは、人間が作ったものより、はるかに素晴らしいものであります。自然の不思議、生き物の不思議。人間のまねできないものであります。しかし、その神の偉大さを忘れて、人間の作ったものに心惹かれすぎてしまい、それを崇拝し、神をないがしろにする、そのようなことがあってはならないと、私たちに迫るのであります。

ロトの家族は、神の哀れみによって、滅びるソドムの町から救われました。にも関わらず、逃れの町であるツォアルに着いたとたん、ロトの妻は安心したのか、「振り返ってはいけない」という御使いたちの指示を忘れてしまい、振り返ってしまい、塩の柱になってしまいました。(創世記19:26)

「ソドムやゴモラの方を振り返る」とは、この世の快楽や優雅な生活に心惹かれるということでもあります。ひょっとすればロトの妻は、ただただ、ソドムとゴモラの町が本当に滅びるのかどうかを興味をもって振り返っただけかもしれません。人間は不思議と怖いもの見たさで、逃げている最中に振り返ってしまうことが多々ありますから。ロトの妻もそうだったのでしょうか。しかし、神は「振り返ってはいけない」という戒めを守らなかったということで、ロトの妻を塩の柱にしてしまい、彼女をソドムやゴモラの民と同じように滅ぼされました。

箴言は、「世に心を奪われるのではなくて、いつも、主を恐れていよ」と私たちに告げます。

しかし、「主を恐れる」とはいったいどういうことでしょうか。神の力を恐れる、神の怒りを恐れる、神を悲しませることを恐れる。

しかし、主は、ヨハネを通して次のように語ります。(1ヨハネ4:16-18)

●「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

神は愛です。そして、その神の愛の内に私たちもとどまります。そして、その全き愛には恐れがありません。しかし、もう一方で主を恐れなさいと言われます。なにか矛盾をしているように思われますが、神の愛と神への恐れは、コインの表を裏の関係のようでもあります。キリストには、救いの使命と権威と裁きの使命と権威があるのと同じように、神を愛するというのと神を恐れるというのとは同じような関係にあるのでしょう。つまり、神を恐れることは神を愛することでもあるのです。

そして、神は、愛についてパウロを通して語られました。(1コリント13:4-8)

●「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

これが、愛である神のご性質です。

私たちは、イエス・キリストにとどまり、またイエス様も私たちにとどまってくださることで、私たちはキリストに似る者とされます。つまり、キリストを通して、神のご性質である愛を、私たちの内に育むことになるのです。神を愛し、そして神を恐れましょう。私は、個人的には、神を悲しませることを恐れたいと思うのであります。今までも、ずっと神様を悲しませては来ていると思うのですが、これからは、できるだけ、神様に喜んでいただきたい。神様の喜びが私の喜びとなる。そのような人生を歩んでいきたいと願わされています。皆さまはいかがでしょうか。

しばらくの間、賛美を聞きつつ、黙想してみてください。

長沢崇史 x 中山告 - 愛の絆

 

https://www.youtube.com/watch?v=TaIUDJUsvYU

お祈りいたします。

主のいのり