メッセージ:「救いの神を忘れない」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

7月29日

担当:若竹孝行

メッセージ:「救いの神を忘れない」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:イザヤ書16章〜18章

17章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:17:10-11

「あなたが救いの神を忘れ、あなたの力の岩を覚えていなかったからだ。それゆえ、あなたが好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさしても、あるいは、あなたが植えた日にそれを生長させ、朝のうちに種を芽生えさせても、病と癒しがたい痛みの日には、その収穫は消え去る。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

イザヤ書17章は、ダマスコに対するメッセージであります。ダマスコは、現在のダマスカスで、シリア・アラブ共和国の首都であります。ガリラヤ湖の北東方向にだいぶ行ったところにあります。エルサレムからですと、約200㌔の道のりとなり、少なくとも徒歩で6日間の道のりのようです。新約聖書では、パウロもサウロ時代、ダマスコに潜伏しているユダヤ人キリスト信者を捕えようと、旅立ち、ダマスコの近くで、幻によって目が見えなくなり(使徒9:3-9)、またダマスコではかごに隠れて逃げなければならなかった(使徒9:23-25)のであります。(使徒9章)

イザヤは、ダマスコも北イスラエルのように滅亡することを預言しています。しかし、ダマスコの民がすべて滅ぼされるのではなく、北イスラエルの滅亡の時と同じように、主の憐れみにより残された民のいることが記されています。3節の後半では、次のように記されています。

●「アラムの残った者は、イスラエルの子らの栄光のようになる。」

ダマスコに対するメッセージでもありますが、北イスラエルの滅亡の様子の描写が4節~6節にあります。特に王国の滅亡にも、主の憐れみによって残される民のことが、農作物や果実の収穫の時の習慣になぞらえて記されています。すべてを刈り取ってはいけない、後の者のために残しておかなくてはならないという、神からの弱きものたちへの配慮であります。私は、ここを読んでいまして、ルツ記のルツが落穂ひろいをしていて、ボアズの憐れみにふれるときのことを思い起こすのであります。

そして、残された民は、7節のように、創造の神を知ることとなるのです。神に選ばれたイスラエルの民だけではなく、異邦の民も同じように取り扱われています。

●「その日、人は自分を造った方に目を留め、その目はイスラエルの聖なる方を見る。」

裁きの日に、ダマスコの民は、自分たちの手で造った偶像に目をとどめず、偶像崇拝から離れ、イスラエルの神を覚えることとなります。

9節~11節は、ダマスコと北イスラエルの滅亡とその理由が記されています。ダマスコも北イスラエルも、荒地とされ、10節では、真の神を忘れ、他の国の偶像に心を向けて努力しても、すべては水泡と帰すと、主はイザヤを通して告げられる。

●「あなたが救いの神を忘れ、あなたの力の岩を覚えていなかったからだ。それゆえ、あなたが好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさしても、あるいは、あなたが植えた日にそれを生長させ、朝のうちに種を芽生えさせても、病と癒しがたい痛みの日には、その収穫は消え去る。」

さて、ここで私たちの学ぶべきことは何でしょうか。神に選ばれた民であろうと、異邦人であろうと、創造の神を忘れ、偶像礼拝に走ると、神の怒りがくだされ、滅ぼされるということです。つまり、キリスト者であろうが、なかろうが、創造の神から離れて行くことは、天の御国へ招かれないということです。私たちは、創造の神から離れ、偶像崇拝に陥ることに注意しないといけませんが、この偶像崇拝とは、必ずしも、人間が作った物を拝むという狭い意味のものではありません。人間の「欲」「欲望」それと「乱れ」というもの、それ自体が偶像なのであります。たとえば、金銭欲、出世欲、名誉欲、征服欲、性欲、酒乱、などなど、もっともっとあるでしょう。仏教では煩悩とも呼ばれるもので108つあるそうですが、あの、除夜の鐘によって、煩悩をひとつひとつ振り払って新しい年を迎えるという行事が、日本人の知るところであります。仏教との違いは、この世界や私たちを創造された神を中心にして考えていないというところです。神道では、八百万の神々がいるわけですが、この世界を作られ、私たちを養われる、創造の神が、唯一の神であり、神道で言われるところの八百万の神々の頂点に立つべきお方であります。

しかし、人間は、そのことを忘れやすく、目に見える偶像に心惹かれやすいものであります。

そのようにして、救いの神を忘れるということは、キリスト者にも起こりうることです。

皆さまがよくご存知のイエス様のたとえ話を考えてみましょう。マタイ22章1節~14節です。

イエス様は、天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえておられます。披露宴に招待した客を呼びに行っても、彼らはいろいろと自分たちの都合を理由に、披露宴を欠席します。王は怒って、その客たちを滅ぼし、大通りに行って、出会った人を、つまり善人でも悪人でも、裕福な人でも貧しい人でも、かたっぱしから、招待します。ここで王が招待するということは、彼らに晴れ着を与え、それを着て来るように指示しているのであります。披露宴にふさわしい衣服を着用するために、その晴れ着をも与えたのです。しかし、その王が準備した晴れ着をも、身にまとわずに出席した人がいました。ここからが大事なところですので、そのまま引用することにします。12節~14節です。

●「王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。その男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

王は、その人の素性がなにであれ、「友よ」と呼んで、招待客としての敬意を払いました。しかし、その招待客は、王がわざわざ用意した晴れ着を着ていませんでした。ここでの王である神様がご用意された晴れ着とは、キリストのことであります。「晴れ着を着る」つまり「キリストを着て」罪なきものと見なされるということであります。「晴れ着を着ない」とは救い主であるイエス・キリストを信じないということです。とうぜん、彼は披露宴から追い出され、残念な結末となります。

キリスト者は、イエス・キリストを救い主として信じているから大丈夫。「キリストを着ている」から大丈夫。本当にそうでしょうか。今朝のイザヤ書では、神に選ばれた民も、神のことを忘れ、偶像崇拝に魅力を感じる人は、滅びにいたるのであります。もちろん、神の憐れみによって残された一部の人もいます。

イエス・キリストを信じる人は、キリストという晴れ着をきます。しかし、「欲」や「乱れ」に心惹かれる人は、非常に危ないのです。着ていたはずの晴れ着を知らず知らずに脱いでしまい、披露宴の席から追い出される可能性もあるのです。

私には、残念ながら、その追い出される可能性の程度や基準はまったく分かりません。それは神様しか知らないのではないでしょうか。ですから、なおのこと、イエス様の晴れ着を脱いでしまわないようにしないといけません。少しでもイエス様の晴れ着がはだけていれば、神様には私たちの罪が見えてしまい、義なる神様はそれをお赦しになれないのです。私たちは、「欲」や「乱れ」である偶像崇拝から遠ざかり、創造の主を常に礼拝すること以外に、救いの道はありません。いくら良い行いをし、仮に全財産を寄付したとしても、創造の神である天の父と、その右にお座りのキリストを忘れてしまうなら、すべては、むなしいこととなります。

創造の主を礼拝するとは、日曜礼拝だけのことではありません。それでは不十分です。日ごろから、神様と交わることが大切です。具体的には、私がいつも心がけていることですが、1テサロニケ5章16節から19節です。

●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」

イエス様は弟子たちにおっしゃいました。天の御国を、それぞれ、ともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえるところです。(マタイ25:13)

●「目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」

目を覚ますとは肉体的な目のことではありません。

そして、ゲッセマネで、イエス様は次のように弟子たちを諭しました。

●「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(マタイ26:41)

ここでの「目を覚ましている」ということは、「祈っている」ということです。

救いの神を忘れないようにするには、主に感謝をささげ、主に祈り、そして主を喜ぶ、そして、それを可能にするのは、御霊である聖霊様の働きなのであります。「御霊を消してはいけません。」とは、心に住みたもう聖霊様を遠くに感じてはいけない、ということです。つまりは、神様を忘れてはいけないともとれるでしょう。

主に感謝し、主に祈り、主を喜ぶ、これこそが、キリストを着続け、救いの神を忘れない秘訣なのであります。キリストの衣がはだけないよう、いつも主を想い、主に語りかけ、主への感謝をささげ、そして、主にすべてをゆだね、期待しましょう。

しばらくの間、賛美を聞きつつ、黙想してみてください。

Dwell [賛美] GRC18 テーマソング | Ruah Worship

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=vKM0XIehFgk

お祈りいたします。

主のいのり