メッセージ:「真の断食と主を喜ぶ」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

8月12日

担当:若竹孝行

メッセージ:「真の断食と主を喜ぶこと」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:イザヤ書58章〜60章

58章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:58:11

「主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の枯れない水源のようになる。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

イザヤ書58節は、断食のことを中心に、そして終わりのほうで安息日のことにふれ、つまりは、神に従う真の道のことが記されています。

断食の日には、日常生活を絶ち、神殿に通い、断食をしつつ、主を求め、主の道を知る、つまり聖書を読み、黙想し、主と交わることに重きがおかれているはずでありました。それは、主との交わり、縦の関係強化であります。そして、人々は、そのように断食をするのでありますが、3節の後半と4節の前半では、主は次のようにおっしゃいます。

●「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。見よ。あなたがたが断食するのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。」

断食を行う自分たちは正義であり、そのほかの弱者たちは悪であり、他者を虐げる一方で、憐みをかけることもしない、そのような断食は、主は決して喜ばれないし、彼らの祈りを聞き届けることもされない。主が断食で求めておられたのは、縦の関係強化だけではなく、横の関係強化でもあるのです。どちらか一方では不完全なのであります。

イザヤが見た人たちの断食とは、形式的な宗教儀式にとらわれ、本当の意味で自らを戒める日となってはいないと仰せられます。主に喜ばれる断食とは、6節7節にあるごとくのようでなければなりません。

●「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。」

つまり、主は、私たちが行なう断食は自らの信仰的成長のためだけではなく、私たちの考えや行動が、隣人を愛すること、また敵をも愛することへと、向いて行かなければいけないと仰せられるのです。

そのようになってこそ、私たちの祈りに、主は耳を傾けられるのです。

●9節「そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。」

これは、主と私たちの親しき交わりをも意味します。私たちが、隣人を愛し、また敵をも愛することで、主との親しき交わりを保つことが出来、主は11節のように、私たちを導いてくださるのです。

●「主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。」

「食欲を満たし、骨を強くする」とは、「神の恵みによって、日々の必要は満たされ、私たちの精神面は霊的に強くされ、心くじけることはない、つまり常に平安を保つことができる」ということであります。

イエス様はおっしゃいました。(マタイ6:31-33)

●「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めている者です。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

これは、皆さん、よくご存じの御言葉ですが、「神の国と神の義を求めなさい」とはどういう事でしょうか。神の国とは、天の御国のことであり、そこには永遠のいのちがあります。また神の義とは、神の絶対的な正しさでもありますが、では、神の正しさとは何でしょうか。

簡単にもうしますと、私はこう思っておりますが、私たちにとっての神の正しさとは、罪を罰しないという「救い」と罪を犯さない性質へと変える「聖霊の働き」であります、つまり、聖霊を含むイエス・キリストの恵みではないでしょうか。「神の国と神の義を求めなさい」とは、「永遠のいのちとイエス・キリストの恵み」を求めなさいということになります。

神が導かれるのは、実に、「永遠のいのちとイエス・キリストの恵み」なのであります。そして、「永遠のいのちとイエス・キリストの恵み」によって、私たちは、「潤された園のように、水の涸れない水源のようになる」と言われています。それは、詩篇の1篇で表現されていることそのものであるでしょう。

●「主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」(2節3節)

このことで分かりますように、「永遠のいのちとイエス・キリストの恵み」を受ける人は、「主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人」なのであります。

そして、「主のおしえを喜びとする」ということは、「主を喜びとする」ということと同じではないでしょうか。もしも、そうであれば、「昼も夜も、そのおしえを口ずさむ」ことは、13節の安息日に関することばを守ることになります。

●「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの誠実に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎む」

つまり、「昼も夜も、そのおしえを口ずさむ」人は、「主を喜ぶ人」であり、「安息日を世の楽しみのためには、出歩かず、自己中心的な道を歩むのではなく、神を賛美する人」であります。

このイザヤ書58章を通して、主は私たちに、つぎのことを説かれておられるような気がします。

「永遠のいのちとイエス・キリストの恵み」を受ける人は、「昼も夜も、聖書のおしえを口ずさむ人」であり、「主を喜ぶ人」であり、「安息日を世の楽しみのためには、出歩かず、自己中心的な道を歩むのではなく、神を賛美する人」であるということ。そして、「永遠のいのちとイエス・キリストの恵み」を知る人は、真の断食である、「祈りをもって、隣人を愛し、また敵をも愛そうとする」人なのです。

「敵をも愛す」「気に食わない、苦手な人をも愛す」とは、難しいことではありますが、彼らのために祈るということではないでしょうか。イエス様も、自分を迫害するもののために祈られました。イエス様がなされたように、互いに愛し合う、互いに仕えあう事は、容易なことではありませんが、まず祈りあうことから始めましょう。これが、真の断食であり、主を喜ぶことなのですから。

しばらくの間、賛美を聞きつつ、黙想してみてください。

たたえよ栄光の神 [楽譜番号 青本:34]

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=9Qv8OARC1K4&list=RD9Qv8OARC1K4&start_radio=1&rv=9Qv8OARC1K4&t=108

お祈りいたします。

主のいのり