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メッセージ主題:『愛とは』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ヨハネの手紙』

2021時年8月15日

聖書拝読:ヨハネの手紙第二 1節~13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(6)

メッセージ主題:『愛とは』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

この1週間、雨、雨、雨であります。未曾有の集中豪雨で、各地に多大なる被害が出ています。聖書では、創世記にノアの洪水の記述があります。四十日四十夜、雨が降り続き、山までも覆う大洪水となりました。恐らく、今でいうところの線状降水帯のような、またはそれを上回るようなひどい雨で、あっという間に町々は水につかり、人々は逃げ場を失ったに違いありません。この時の大洪水は、人間の神をないがしろにする罪が原因で、神によって起こされたものでした。そして、この度の全世界で起きています、地域的集中豪雨や洪水は、地球温暖化によるもので、その地球温暖化は人間の行いが起こしたものであると、世界が認めました。そして、2050年までには、北極の氷が完全に溶ける可能性も指摘されています。もし、そうなれば、地域的な集中豪雨や洪水ではすまなくなります。人間の自己中心的な経済活動の愚かさが、地球温暖化を招き、引き戻せないところまで来てしまったのかも知れません。しかし、神は、創世記に次のように記録なさいました。(8:21)

●「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。』」

地球規模の、ノアの洪水のようなことは、起こらないのかもしれません。しかし、コロナウィルスのように、今、全世界が災いの中にあります。私たち一人一人が、神に立ち帰って、神の憐れみを乞い願う必要があるのではないでしょうか。私たち人間は、この地球規模の自然災害の中で、まったく非力です。今、神にすべてをゆだねる時です。

主に祈りをささげたいと思います。

(祈り)(8月15日終戦記念日・敗戦記念日のことも)

さて、先週は、ヨハネの手紙の第一、5章から、「御心なら、願いは必ず聞かれる」と題しまして、神様からのメッセージを賜わりました。

私たちは、神様のみこころを知ろうといろいろと探りますが、そうではなく、神様に私たち自身をささげ、御心のままに、私たちを用いてくださいと願うなら、その願いは、神様のみこころに沿うものとなることを学ばせていただきました。

今朝は、ヨハネの手紙の第二、「愛とは」と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。このヨハネの手紙第二は、1章しかありません。短い手紙ですが、ヨハネは、相当な危機感をもっていたと思われます。この手紙を書く動機は、7節に記されています。

●「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人としてこられたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」

では、ヨハネの言うところの、「人を惑わす者の教え」とはどういうものなのでしょうか。

それは、神の子イエスが、人間の肉体をもって来られたことを否定するものです。人間的な限界のある知恵でしか、イエス・キリストを見ず、また常識的な理解の中に、イエス・キリストを封じ込めてしまいました。それは、彼らが、実際にキリストに会ったことがなく、ただ頭で理解しようとしたためですが、民衆は、その人間的な教えに惑わされていったのであります。

しかし、私は思うのですが、この「人を惑わす者の教え」には、欠点があります。それは、神の愛について説いていないということではないでしょうか。これはあくまでも、私の主観であると前置きをして、続けます。神は私たちを造り、私たちを愛するがゆえに、私たちの、神への背きの罪を赦すために、イエス・キリストという人間の肉体をもった聖なる方をこの世にお送りくださり、イエス・キリストの聖なる命を、神へのなだめの供え物として、神ご自身にささげさせたという、ここに神の愛があります。聖書は言います。

●「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です(イエス様のことです)。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません(イエス様の十字架につけられることです)。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(私たち罪人を愛されたということです)。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。」(ヨハネ3:13-17)

ヨハネは、イエス様の言葉をこのように残しました。これは旧約聖書時代からの罪の贖いにかなったものでした。簡単に説明しますと次のようになります。罪の償いは死を意味します。人間の罪は、罪のある人間の命によっては、償われません。汚れを汚い雑巾でふくようなものです。そこで、罪のない動物の命を代わりにささげることによって、その人の罪は帳消しにされます。しかし、その動物の命の、罪の帳消しの効力は一つの罪にしか適応されません。ですから、罪を犯す分だけ、大切な動物の命をささげなければなりませんでした。しかし、神は、まったく罪のない人間を、ご自身の聖霊によって造り、それをキリスト救い主として、全人類の罪を帳消しにするために、罪のないキリストの命を犠牲にしました。そして、三日目に死を克服してよみがえらせ、永遠のいのちをさずけ、その罪の帳消しの効力を永遠にしたのです。そして、御子イエス様をただただ信じる者には、永遠のいのちが与えられ、救われるのです。これぞ、神の愛であります。

しかし、ヨハネは、神の愛を知っているだけではだめで、神の愛の実践が必要であることを強調します。それが、6節の、すこし循環的な表現となっているところです。

●「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」

『愛とは、神の命令を守ることであり、命令とは、神の愛のうちに歩むこと』どうどうめぐりの表現です、神の愛と神の命令とは、切っても切れない関係にある、コインの裏表の関係であると言うのです。

つまり、神の愛は受動的ではなく、能動的であり、それは、旧約時代から、綿々と言われ続けてきた、愛の実践なのです。

●「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

●「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37&39)

イエス・キリストの兄弟であり、エルサレム教会の指導者でもあったヤコブも次のように、愛の実践を強調しています。

●「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

●「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(2:17)

ヤコブもヨハネも、またパウロも使徒たちも、そしてイエス様もこの聖書全体が、愛の実践を強調しています。

しかし、ここできちんと整理しておかないといけないことがあります。

それは、「救いは、信仰によるのであって、行いによるのではない」ということです。

パウロはその重要なことをローマ人への手紙の中で語っています。

●「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:10-13)

いくら善い行ないを積み重ねても、イエス・キリストを信じていなければ、救われないのです、永遠のいのちをいただくことはできないのです、天の御国に入ることは許されないのです。

イエス・キリストを信じ、神の愛をうけた人は、神の愛の実践をする必要があります。なぜなら、私たちは、神の子どもとされ、イエス・キリストとともに天の共同相続人とされたからです。これは、神からの命令であります。「神と隣人を心から愛せよ」。してもしなくても良いということではありません。

「愛する」ということには、さまざまな行ないが伴うでしょう。それは、人それぞれです。しかし、最も神が喜ばれる行ないの一つには、神を賛美すること、そして、神の御業であるイエス・キリストの十字架の贖いを他の人に伝え、証し人となることでしょう。なぜなら、神は、できるだけ多くの人に、キリストを信じることによって、永遠のいのちを得てほしいと願っておられるからであります。

私たちも、神が私たちを愛するがゆえに、イエス・キリストをお送りくださり、私たちに永遠のいのちという恵みを得るチャンスをいただきました。私たちも神様を愛すべく、また隣人を愛すべく、神の愛からでた、善い行ないと共に、主の証し人として、イエス・キリストの十字架の恵みを伝える者とさせていただきましょう。

さて、皆さまお待ちかねの、八さんも熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、今日の「愛とは」というメッセージから、何を思われますか。

―――――

八: 「愛とは」というタイトルやから、また、「けっして後悔しないこと」って言いはんのかなと思てたわ。

熊: 「愛とは、決して後悔しないこと」? それって、「ある愛の詩」という映画の中のセリフとちゃうんか。古いなぁ。

八: そやで。熊、よう知ってたな。

熊: あれは、わてらの青春時代の映画やないかい。Love Storyっていうタイトルやったな。

「愛とは、決して後悔しないこと」の英語も知ってんでぇ。

(Don’t) Love means never having to say you’re sorry. (アリ・マックグロウ風に)

八: たまげたなぁ。ええ、熊がそんな英語知ってたとは。も、もう一ぺん、ゆうてみたって。

熊:  Love means never having to say you’re sorry. (ライアン・オニール風に)

八: んん? さっきと、感じがちょっとちゃうな。

熊: 最初のは、アリ・マックグロウ風に、

(Don’t) Love means never having to say you’re sorry.

2回目は、ライアン・オニール風に、

Love means never having to say you’re sorry.

あの映画では二人とも同じセリフゆうとるからな。

八: 分からんわ、そんなもん。、、、けんど、たいしたもんや。

それに、あの主題歌もよう流行ったなぁ。

熊: アンディ・ウィリアムスの十八番(おはこ)やったなぁ。When do I begin

八: 熊、歌わんでええで。堪忍して、英語は。

熊: さよか。これからが、ええとこやのに。、、、ところでやな、牧師はん、ゆうてはったな、

神の愛と神の命令は、コインの裏表ゆうって。

八: 神の愛を知ったんやったら、その愛を実践せなあかんちゅうこっちゃろな。

熊: 人を好きになったら、その人を喜ばせたいと、なんか態度に行動に現すことか。

八: まあ、それも一つやろうなぁ。神様に喜んでいただこうと、なんかする。

熊: わてら、永遠のいのちをいただいたんや、ただただイエス様を信じただけでやでぇ。

そら、なんぞ、さしてもらわな、申し訳ないわ。

八: そやな。感謝を形にしたいもんや。

熊: あっ、そうか、人にええことすると思うからあかんねや。

人に親切にするときでも、神様に感謝のお返しをしてると思て、

それを人にしたらええんやな。

八: そや、それや。何でも人にするときには、神様にしてると思てしたら、

こっちも、きがねのう、できる。神様に感謝のお返しかぁ。ええなぁ。

熊: それも、そのお返しは、この世で生きているときにしかでけへんねんから。

悔いのないようにせなあかん。

八: 悔いのないようにな。それこそ、「愛とは、決して後悔しないこと」なんや。

熊: わてらは、イエス様いのちや。

やから、「キリストとは、決して後悔しないこと」

八: ええなぁ、それ。いただきや!

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「キリストとは、決して後悔しないこと」。イエス様を信じたんやったら、最後まで信じ切って、イエス様の証し人として生かしていただきましょう。神様に感謝のお返しとして、人に親切にする、いいですね。そうすると、見返りを求めない親切となりますね。だって、先に神様からいただいている恵みの、感謝のお返しなんですから。私も常にそうでありたいと思います。「愛とは、決して後悔しないこと」。イエス様を信じて、後悔することはありませんね。だって、天の御国へのキップをもうすでにいただいているのですから。

さて、今から黙想の時を持ちたいと思います。どうか、今朝の学びの中で、示されたこと思わされたことをもう一度振り返ってみてください。

黙想の時に、詩篇119篇1節~16節までをお読みいたします。

黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。マタイの福音書7:24-27です。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

では、黙想いたしましょう。

詩篇119篇1節~16節。

お祈りをいたします。

愛する天のお父様、主の御名を賛美いたします。今朝は、「愛とは」と題しまして神様からのメッセージを賜わりました。「愛とは、決して後悔しないこと」。イエス・キリストを信じて、どうして後悔いたしましょう。イエス・キリストを通して、永遠のいのちを約束され、天の喜びと平安を前倒して経験させてくださり、感謝いたします。私たちは、その感謝のお返しとして、あなた様の御名をほめたたえ、また人に親切にし、あなた様の愛を実践させていただきとうございます。

イエス・キリストの証し人として、神様の愛を伝えるものとさせてください。

どうか、私たちが、そのようにできますよう、聖霊様によってお導きください。

私たちの主、イエス・キリストのお名前により、感謝とともに、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。