メッセージ:「みことばを見つけ、食べる」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

8月19日

担当:若竹孝行

メッセージ:「みことばを見つけ、食べる」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:エレミヤ書13章〜15章

15章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:15:16

「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私はあなたの名で呼ばれているからです。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

エレミヤ書の11章から20章までには、いかにユダ王国が滅びていくかが預言されています。その中で、13章では、民がいかに堕落しているか、ゆえに、高ぶりを悔い改めよと説いています。

●11節「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家(ぜんか)をわたしに着けた――主のことば――。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

私たち人間が神に結びつこうとしたのではありません。神が、私たちを、神の誉れとして、神ご自身に結びつけようとされたのです。しかし、私たちは神を失望させました。

エレミヤはそのことを悲しみ涙し、歯ぎしりするのです。

●17節「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れがとらわれて行くからだ。」

主のことばに聞き従わない者は、主が選ばれた者であったとしても、脱落していくのです。

ここでは、バビロンへ捕囚されることが記されています。

脱落のもっとも大きな原因は、偽預言者のことばに心をよせることです。なぜ、偽預言者のことばを信じるのか、いえ、信じたいのか。それは、偽預言者が、私たちに都合のよい、私たちの望んでいることを、伝えるからです。(14章15-16節)

●「わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。」

これに対してエレミヤは、もしユダが神に立ち返れば神の救いを受け得られるかと、神に嘆願します。

●「主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」(20-21節)

しかし、ユダ王国の滅亡を前にした、エレミヤの神への悲痛なる訴えは、15章の1節で厳しく拒絶されます。

●「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」

モーセやサムエルのように、民のために、神の御前に仲介人として立ち、偉大なるとりなしの祈りをしたとしても、当の民が、悔い改めもせず、かたくなであり、神に立ち返ることもしようとしない者たちならば、そのとりなしの祈りは全く空しいものとなるのであります。

勘違いをしてはいけないのですが、だからといってとりなしの祈りが効果がないということではありません。大切な方々のためのとりなしの祈りは重要です。しかし、もし祈りの対象者が、その祈りの力を軽んじるなら、祈りの効果は期待できません。祈る方と祈られる方が、同じ方向を向いていない、また心ひとつのなっていなければ、とりなしの祈りは空しくなってしまうでしょう。

残念ながら、エレミヤの祈りは、民の心を揺るがせませんでした。それどころか、エレミヤは自国の民から迫害を受けていました。いわば、孤立状態となっていったのです。15章15節では、エレミヤは、次のように神に訴えています。

●「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」

エレミヤは身の危険も感じ、このように主に訴えるように祈ったのであります。

そして、エレミヤは神に対して、自分自身には非のないことを、神に申し立てています。それが、今朝の中心聖句である16節、そして17節へと続くのであります。

16節は、エレミヤの預言者としての資質をのべ、17節では、預言者としてとった正しい行動が記されています。16節は後で味わうこととし、17節を見てみますと、エレミヤは自らの意志で、酒の席や宴会には出席せず、また神によって、腐敗した民から、強引にエレミヤを遠ざけられたとあります。

そして、18節では、エレミヤは、ある種の憤りをもって、神に訴えるのです。

●「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。」

恐らく、エレミヤは、子どもが涙を流しながら、父親の胸に顔をうずめ訴えているように、神にやるせない思いをぶつけていたのではないでしょうか。

父なる神は、エレミヤに19節のように答えます。

●「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」

もし、預言者としての職務を全うするなら、神は預言者として祝福しよう、と言われるのです。

●「もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。」

もし、自分の考えを押し通すのではなく、神のメッセージを語るなら、あなたの口からでる言葉は真実となり、力あるものとなる、とおっしゃるのです。

そして、最後の21節で、神は、孤立したエレミヤを救い出すと約束されるのです。

●「わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちからの手から贖い出す。」

神が約束されたように、エレミヤは預言者の職務を全うするなら、救い出されるのです。もちろん、現代の私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ、信じるだけで、救われるという、キリストの恵みの中にいます。キリストを信じるだけで、天国へ導かれ、永遠のいのちにあずかれるのです。聖書を多く読んだから、善い行ないを多くしたから、いつも喜んでいるから、絶えず祈るから、すべてのことに感謝しているから、救われるのではありません。救われたから、すべてのことに感謝し、絶えず祈り、いつも喜び、日々聖書を読み、人に親切にするのです。また、救われた喜びを、救いのメッセージを、他の方々に伝えようとするのです。多くの人に伝えたから救われるのではありません。

しかし、エレミヤが告白した預言者の資質は、私たちの信仰生活に欠かせない、宝石のようなものであることに私は気づかされるのです。

先ほど、後回しにしていました、16節を見てみましょう。やっと本題に入ります。

●「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私はあなたの名で呼ばれているからです。」

●「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。」とは、『神のある御言葉が心にとまり、それを深く黙想し、味わう』ということです。忙しくしているときには、できません。静まって聖書を読む、または、みことばを反芻するとき、あなたは導かれるのです。そして、●「私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」とは、『そのみことばが、その日一日の糧となり、生きる力となり、また人生の指針となるのです。喜んで、そのみことばに従おうとするのです。』

次の●「万軍の神、主よ。私はあなたの名で呼ばれているからです。」とは、『主から預言者としての任命をうけている』または『主によって聖別されている』ということではないでしょうか。つまり、主のものとなる、ということでしょう。

★みことばを見つけ、みことばを味わい、そのみことばを自分のものとし、みことばを喜ぶことで、主によって、そのような人は聖別されるのです。主のものとされるのです。

私たち全員が、預言者としての賜物を神からいただいているわけではありません。が、しかし、クリスチャン全員が、主によって隠されている宝石のような御言葉を見つけだし、それを味わい、人生の糧としていく、そして、ついには御言葉によって生きる、いや、生かされていることに気づき、それを喜びとすることを、主によって許されているのです。

クリスチャンにとって、そのみことばは大好きな御言葉という表現では、収まらない、大切なもの、命そのものとなるはずであります。その言葉を見つけた人は、幸いです。みことばは、朽ちることなく、永遠にその人のものとなるからです。

イエス様は、天の御国の譬えのかずかずの中で、中心となる次の譬えを置いています。(マタイ13:44)

●「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」

ここでの宝は、「永遠のいのち」とも考えられますし、「イエス・キリスト」とも考えられます。しかし、それと同じく「この地上での自分の命ともなるような御言葉」とも考えられないでしょうか。

主によって隠された御言葉を見いだし、喜びをもって、そのみことばを自分のものとする。生きる力となるのです。

コリント人への第1の手紙1章18節は、まことにもって、真理であることが分かります。

●「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

そして、聖霊様がそこに働いてくださって、その御言葉によって、その人は造りかえられていくのです。キリストに似るものとされ、真に、神のものとされるのです。

詩篇はそのことを1篇2-3節で描写しております。

●「主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」

なんと、素晴らしいことでしょう。御言葉にはこれだけの力があるのです。

また、神と御言葉とイエス・キリストは切っても切れない関係にあります。

ヨハネの福音書1章1-3節に次のようにそのことを説いています。

●「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

ですから、エレミヤの「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。」の「ことば」とは、神のことも、イエス・キリストのことも示唆しています。また「食べた」とは、神を、イエス・キリストを、信じ受け入れ、主と一つになることをも意味しているとも考えられます。

事実、エレミヤは29章11-14節で、バビロン捕囚の民がエルサレムに帰還するという神のご計画が、預言として語られていますが、その中で、13節に次のようにあります。

●「あなたがわたしを探し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」

バビロン捕囚の民が、彼らの神を求めれば、神は見つかると言われるのです。そして、14節の最後には、

●「わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。」とあります。

エレミヤ15章で語られたことが、形をかえて、29章でも出てきていると考えられます。つまり、これは真理そのものでもあるのです。

★「主を求めれば、見つかり、主のもとへ帰ることができる。」

★「宝石のような御言葉を求めれば、見つかり、その言葉に生きれば、主のものとされる。」

皆さんはどうでしょう。あなたは、あなたの一生が支えられる御言葉を見つけられておられるでしょうか、また、その御言葉を、生涯をとおして、今、喜んで味わっておられるでしょうか。そうであるなら、あなたは、まことに、主のものであり、主のこどもであります。

私たちの主、イエス・キリストも、そうであってほしいと願っておられます。

●「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)(申命記8:3)

しばらくの間、賛美を聞きつつ、黙想してみてください。

Dwell [賛美] GRC18 テーマソング | Ruah Worship

 

https://www.youtube.com/watch?v=vKM0XIehFgk

お祈りいたします。

主のいのり