メッセージ:「み言葉は消えず」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

8月26日

担当:若竹孝行

メッセージ:「み言葉は消えず」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:エレミヤ書34章〜36章

36章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:36:23

「ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

このエレミヤ書36章は、おもに「焼かれた聖書、預言」のことが記されています。

神はエレミヤに、それまでに啓示された御言葉を書き記しておくように命じられました。

●2節「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。」

神はなぜこのことをエレミヤに命じられたのでしょうか。それは、このことばを聞いて、神のさばきを知り、ユダの民が悔い改めるかもしれないと期待されたからにほかなりません。

●3節「ユダの家は、わたしが彼らに下そうとおもっているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

そして、エレミヤ自身は、神殿に出入り禁止を命じられていたので、バルクに代読させました。エレミヤも民が悔い改めることを期待していたのであります。バルクが首長の前で読み、そして、それをこんどはユディが王の前で読み聞かせました。ところが王はその言葉に怒り、巻き物を数段ごとに切り刻み、暖炉の火にくべてしまいました。これが今朝の中心聖句のところであります。

●23節「ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。」

王と王の家来たちは、神の言葉を聞いても、悔い改めをすることもなく、バルクとエレミヤに逮捕状が出されました。もちろん、全員がそのことに賛成したのではありませんでしたが、王はその声を怒りにまかせて、無視しました。

神はエレミヤに再び臨み、もう一度、同じことを書き記しなさいと命じました。

●28節「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。」

これが、現代のエレミヤ書の一部となっています。

エホヤキムは、怒りにまかせて、初めに記された書物を焼き、エホヤキムの神に対しての悪行が、消え去るとでも思っていたのかもしれません。これは人間のあさはかな行為であります。私たちも、これに似たことをしていませんでしょうか。証拠は消してしまえば、その行為はなかったことになると思いたい、または思ってしまうことはありませんでしょうか。たしかに、人間社会において、疑わしきは罰せずで、証拠がなければ、限りなく黒でも罰せられません。エホヤキムも、証拠となるエレミヤの書物を焼いてなきものとすれば、神様からのおとがめはないと思ったのかもしれません。

しかし、神の言葉自体は、灰とはなりませんでした。神はエレミヤに、再び書き記しを命じ、また、前回以上に、書き加えられたのです。

●32節「エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」

罪はもみ消そうとしても、一旦は見えなくなってしまうこともあるでしょう。が、しかし、神は、それらの罪のひとつひとつを覚えておいでです。罪は償われない限り、義なる神は、おめこぼしできない方なのです。ですから、神は、ひとり子であるイエス・キリストをこの地上にお送りくださり、その罪なきお方を十字架につけ、私たちの身代わりとして、罪の代価である命をもって、私たちの罪を帳消しにされたのです。そして三日目に死人のうちからよみがえらせ、死を克服して、本来の神の御子としての永遠のいのちを与えられました。その罪の帳消しの効力は永遠とされたのです。私たちは、そのイエス・キリストをただただ信じさえすれば、罪のない義なるキリストを着ることとなり、私たちの罪は神の目には見えなくなるのです。また、イエス・キリストを信じると、イエス・キリストは私たちの心に聖霊をお送りくださり、私たちを罪を犯しにくい性質へと変えてくださるのです。しかし、それだけではございません。イエス・キリストを信じる者は、やがて天の御国に戻って行くのですが、そのところで与えられる平安と喜びを、この地上でも前倒しに経験できるようにされるのです。イエス・キリストの恵みは、まったく、いたれりつくせりなのでございます。

さて、エレミヤの聖書は焼かれましたが、ふたたび、書き記され、また付け加えられました。確かに、墨でかかれた聖書は焼かれるとなくなってしまいます。しかし、神のことばは永遠なのです。なぜなら、「ことばは神」だからです。

●「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

神は永遠です。ですから神のことばも永遠です。

パウロは次のように、興味深いことを述べています。2コリント3:3。

●「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」

キリストを信じる者は、キリストの手紙であって、生ける神の御霊によって、心の板に書き記されています。つまり、生ける神のことばは、私たちの心の板に書き記されているのです。そして、私たちは、神の栄光を現す器とされています。私たちには、永遠の神のことばが、記されていますから、私たち自身も永遠に生きて、神をほめたたえ、神の手紙として神を証しするものとされているのです。

また、神のことばが私たちの心に刻まれているなら、その神のことばから、永遠に神の力に満ち満ちていることになります。

●「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)

まさしく、イエス様が引用した、申命記8章3節

●「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」

私たちは、主のことばを日々と糧として、霊的な健康体として生き、主の子どもとして教育され、整えられていきます。

そして、あなたの心に刻まれた神のことばは、何をしても消えることはなく、私たちを力強く励まし、活き活きと生きるように導いてくださるのです。

「み言葉は消えず、永遠に私たちの力となるのです」

「み言葉に生きましょう。」

イエス・キリストの十字架がなければ、私たちの罪も永遠に残ります。また、イエス・キリストを信じていても、悔い改めなければ、神のもとに立ち帰らなければ、私たちの罪は残ったままとなります。犯した罪が自動的に消えてなくなるわけではありません。自然消滅はしないのです。悔い改めるからこそ、イエス・キリストの恵みが効力を発揮するのです。永遠に残るはずだった罪が、永遠の十字架のことばによって、永遠に効力を発揮し、贖われるのです。私たちの主イエス・キリストが永遠であることに感謝し、主の御名をほめたたえましょう。

しばらくの間、賛美を聞きつつ、黙想してみてください。

 長沢崇史 x 堀井ローレン - 主は良いお方 (track by GRP)

https://www.youtube.com/watch?v=mBxIuYe1Xwk

お祈りいたします。

主のいのり