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メッセージ:「みことばを見つけ、食べよう」

岸和田福音キリスト教会主日礼拝メッセージ

8月29日

奨励:若竹孝行

メッセージ:「みことばを見つけ、食べよう」(15分間メッセージ)

今朝の聖書箇所:エレミヤ書15章

中心聖句:15:16

「私はあなたのみことばが見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私はあなたの名がつけられているからです。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

お久しぶりです。8月の日曜日も今日で最後。けど、いつまでたっても暑いですなぁ。熱いといえば、パラリンピック。障害をもっておられる方々が、頑張っておられる姿をみて、はげまされております。それに、障害をサポートしたり、克服する技術もすごいですね。さまざまな技術によって、障害者と健常者の距離が縮まること、とてもうれしく思っております。

さて、今朝は、預言者エレミヤが書きしるしたエレミヤ書から学ばせていただきます。エレミヤは、バビロン捕囚とエルサレムにある神殿崩壊の時期に活躍した預言者です。預言者は当時の人たちにとっては、神の声を取り次ぐ人ではありましたが、耳の痛い話ばかりしますから、敬遠されておりました。今も昔も、どこの社会でもそうでしょうが、的を得て、正しいことばかり言われると、いじめの対象となったり、距離を置いたりしないでしょうか。エレミヤもそのひとりでした。

エレミヤ書の11章から20章までには、どのようにしてユダ王国が滅びていくかが預言されています。その中で、13章では、民がいかに堕落しているかが記され、ゆえに、エレミヤは、高ぶりを悔い改めよと説いています。

●11節「帯が人の腰に結びつくように、わたしはイスラエルの全家(ぜんか)とユダの全家を、わたしに結びつけた。――主の御告げ。――それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。」

当時のエルサレムの民にとっては、『エレミヤはん、またかいな。悔い改めろ悔い改めろって、うるさいなぁ、ええ、ひとつ覚えのように。もうそのセリフは耳タコや。ほっといてんか。』まことに、うるさい存在だったのです。

先ほどの11節でも分かりますように、私たち人間が神に近づき結びつこうとしたのではございません。神が、私たちを、神の誉れとして、神ご自身に結びつけようとされたのです。しかし、私たちは神を失望させてしました。浮世の欲に、どっぷりとつかっていたのでございます。

エレミヤはそのことを悲しみ、涙し、歯ぎしりするのであります。

●17節「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ。」

主のことばに聞き従わない者は、主が選ばれた者であったとしても、脱落し、滅びの道を歩んでしまうのです。ここでは、バビロンへ捕囚されることが暗示されています。

脱落のもっとも大きな原因は、偽預言者のことばに心をよせることであったようです。私たちは、なぜ、偽預言者のことばを信じるのでしょうか、いえ、信じたいのでしょうか。それは、偽預言者が、私たちに都合のよい、私たちの望んでいることを、伝えるからであります。(14章15-16節)

●「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない。』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』」

私たちの心は、楽な方へ楽な方へと向いて行きがちです。ましてや、甘いささやきが心の一方で聞こえてくるんですから。『大丈夫や、大丈夫。あんたはそんなに悪いことしてへん。それに神様は愛のお方や。赦してくれはるって。』これが、皆さんの心に住み着いている偽預言者です。

これに対してエレミヤは、もしユダが神に立ち返れば、神の救いを受け得られますかと、神に嘆願します。

●「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたに罪を犯しています。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」(20-21節)

しかし、ユダ王国の滅亡を前にした、エレミヤの神への悲痛なる訴えは、15章の1節で厳しく拒絶されます。ようやく、今朝の15章にたどり着きました。神は次のようにエレミヤに伝えます。

●「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」

モーセやサムエルのように、民のために、神の御前に仲介人として立ち、偉大なるとりなしの祈りをしたとしても、当の民が、悔い改めもせず、かたくなであり、神に立ち返ることもしようとしない者たちならば、そのとりなしの祈りは全く空しいものとなるのであります。

勘違いをしてはいけないのですが、だからといってとりなしの祈りが効果がないということではありません。大切な方々のためのとりなしの祈りは重要です。しかし、もし祈りの対象者が、その祈りの力を軽んじるなら、祈りの効果は期待できません。祈る方と祈られる方が、同じ方向を向いていない、また心ひとつのなっていなければ、とりなしの祈りは空しくなってしまうでしょう。

残念ながら、エレミヤの祈りは、民の心を揺るがせませんでした。それどころか、エレミヤは自国の民から迫害を受けていました。いわば、孤立状態となっていったのです。15章15節では、エレミヤは、次のように神に訴えています。

●「主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」

エレミヤは身の危険も感じ、このように主に訴えるように祈ったのであります。

そして、エレミヤは神に対して、自分自身には非のないことを、神に申し立てています。それが、今朝の中心聖句である16節、そして17節へと続くのであります。

16節は、エレミヤの預言者としての資質をのべ、17節では、預言者としてとった正しい行動が記されています。16節は後で味わうこととし、17節を見てみますと、エレミヤは自らの意志で、酒の席や宴会には出席せず、また神によって、腐敗した民から、強引にエレミヤを遠ざけられたとあります。

そして、18節では、エレミヤは、ある種の憤りをもって、神に訴えるのです。

●「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。」

恐らく、エレミヤは、子どもが涙を流しながら、父親の胸に顔をうずめ訴えるように、神にやるせない思いをぶつけていたのではないでしょうか。

父なる神は、エレミヤに19節のように答えます。

●「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。」

もし、預言者としての職務を全うするなら、神は預言者として祝福しよう、と言われるのです。そして、

●「もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。」

もし、自分の考えを押し通すのではなく、神のメッセージを語るなら、あなたの口からでる言葉は真実となり、力あるものとなる、とおっしゃるのです。

そして、最後の21節で、神は、孤立したエレミヤを救い出すと約束されるのです。

●「わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちからの手から助け出す。」

神が約束されたように、エレミヤは預言者の職務を全うするなら、救い出されるのです。もちろん、現代の私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ、信じるだけで、救われるという、キリストの恵みの中にいます。キリストを信じるだけで、天国へ導かれ、永遠のいのちにあずかれるのです。聖書を多く読んだから、善い行ないを多くしたから、いつも喜んでいるから、絶えず祈るから、すべてのことに感謝しているから、救われるのではありません。救われたから、すべてのことに感謝し、絶えず祈り、いつも喜び、日々聖書を読み、人に親切にするのです。また、救われた喜びを、救いのメッセージを、他の方々に伝えようとするのです。多くの人に伝えたから救われるのではありません。

しかし、エレミヤが告白した預言者の資質は、私たちの信仰生活に欠かせない、宝石のようなものであることに私たちは気づかされるのです。

先ほど、後回しにしていました、16節を見てみましょう。やっと本題に入ります。長い長いまくらをお赦しください。

●「私はあなたのみことばが見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私はあなたの名がつけられているからです。」

●「私はあなたのみことばが見つけ出し、それを食べました。」とは、『神のある御言葉が心にとまり、それを深く黙想し、味わう』ということです。忙しくしているときには、なかなかできません。静まって聖書を読む、または、みことばを反芻するとき、あなたは導かれるのです。

そして、●「あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。」とは、『そのみことばが、その日一日の糧となり、生きる力となり、また人生の指針となるのです。喜んで、そのみことばに従おうとするのです。』

次の●「万軍の神、主よ。私はあなたの名がつけられているからです。」とは、『主から預言者としての任命をうけている』または『主によって聖別されている』ということではないでしょうか。つまり、『主のものとなる』、ということでしょう。

★みことばを見つけ、みことばを味わい、そのみことばを自分のものとし、みことばを喜ぶことで、主によって、そのような人は聖別されるのです。主のものとされるのです。

私たち全員が、預言者としての賜物を神からいただいているわけではありません。が、しかし、クリスチャン全員が、主によって隠されている宝石のような御言葉を見つけだし、それを味わい、人生の糧としていく、そして、ついには御言葉によって生きる、いや、生かされていることに気づき、それを喜びとすることを、主によって許されているのであります。

クリスチャンにとって、そのみことばは大好きな御言葉という表現では、収まらない、大切なもの、命そのものとなるはずであります。その言葉を見つけた人は、幸いです。みことばは、朽ちることなく、永遠にその人のものとなるからです。

イエス様は、天の御国の譬えのかずかずの中で、中心となる次の譬えを置いています。(マタイ13:44)

●「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払って、その畑を買います。」

ここでの宝は、「永遠のいのち」とも考えられますし、「イエス・キリスト」とも考えられます。しかし、それと同じく「この地上での自分の命ともなるような御言葉」とも考えられないでしょうか。

主によって隠された御言葉を見いだし、喜びをもって、そのみことばを自分のものとする。その御言葉は生きる力となるのです。

コリント人への第1の手紙1章18節は、まことにもって、真理であることが分かります。

●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

そして、聖霊様がそこに働いてくださって、その御言葉によって、その人は造りかえられていくのです。キリストに似るものとされ、真に、神のものとされるのです。

詩篇はそのことを1篇2-3節で描写しております。

●「まことに、その人は、主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

なんと、素晴らしいことでしょう。御言葉にはこれだけの力があるのです。

「何をしても栄える」とは、『自分の利益をもとめるのではなく、主の御心を求めるとき、主の思いが、自分の思いとなり、主の喜びが、自分の喜びとなり、その時に初めて、その人のすることは、主の目にかなったものとなり、何をしても栄えるのであります。』

また、神と御言葉とイエス・キリストは切っても切れない関係にあります。

ヨハネの福音書1章1-3節に次のようにそのことを証ししています。

●「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

ですから、エレミヤの「私はあなたのみことばが見つけ出し、それを食べました。」の「ことば」とは、神のことも、イエス・キリストのことも示唆しています。また「食べた」とは、神を、また、イエス・キリストを、信じ受け入れ、主と一つになることをも意味しているとも考えられます。

事実、エレミヤは29章11-14節で、バビロン捕囚の民がエルサレムに帰還するという神のご計画が、預言として語られていますが、その中で、13節に次のようにあります。

●「もし、あなたがたが、心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」

バビロン捕囚の民が、彼らの神を求めれば、神は見つかると言われるのです。そして、14節の最後には、

●「わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」とあります。

エレミヤ15章で語られたことが、形をかえて、29章でも出てきていると考えられます。つまり、これは真理そのものでもあるのです。

★「主を求めれば、見つかり、主のもとへ帰ることができる。」

★「宝石のような御言葉を求めれば、見つかり、その言葉に生きれば、主のものとされる。」

皆さんはどうでしょう。あなたは、あなたの一生が支えられる御言葉を見つけられておられるでしょうか、また、その御言葉を、生涯をとおして、今、喜んで味わっておられるでしょうか。そうであるなら、あなたは、まことに、主のものであり、主のこどもであります。

私たちの主、イエス・キリストも、申命記の8章3節を引用され、そうであってほしいと願っておられます。

●「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)(申命記8:3)

さて、せっかく、岸和田まで来たのですから、天国長屋の八さん、熊さんにもご登場いただきましょう。

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八: 「みことばを見つけ、食べよう」か。「みことばに生きる、生かされる」

と言い換えられるかも知らへんなぁ。わての大事にしているみことばは

1テサロニケの5章16節から19節までやな。

熊: なるほどな、有名なみことばや。けど、ふつうは18節までとちゃうんか。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

八: まあ、そうやわな。けど、19節の「御霊を消してはなりません。」というのも、

わてにとっては、大事なんや。

熊: けんど、「御霊って、聖霊様のことやろ。聖霊様って、なくなってしまうんか。」

八: いや、横丁のご隠居さんのいうのには、「神様を遠くに感じてしまう」ことが、

御霊が消えてしまうように感じるときなんやて。

そして、それは、霊的には眠っているような感じなんやて。

熊: はは~ん。だから、イエス様が「目を覚ましていなさい」とおっしゃるんやな。

八: 聖霊様が働かれるからこそ、わてらは、いつも喜び、絶えず祈り、

すべてに感謝できるんや。

わては、このみことばを実践することが、わてにとっては一番なんや。

このみことばによって生かされてんねんやな。

熊もあるやろ、大事にしているみことばが。

熊: わては、イエス様の言葉やな。ヨハネの15章の5節。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、

そういう人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

八: わてらは、イエス様に接ぎ木され、イエス様の栄養分で生かされてるんや。

その栄養分というのが、みことばなんやな。

熊: わてな、このみ言葉の最後も気に入ってんねん。

八: 最後って、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

っていうところかいな? 不思議なところを気に入ってんねんな。

わてやったら、「そういう人は多くの実を結びます。」というところやろな。

そやかて、いっぱい幸せになれそうやないか。

熊: 甘いな。そう考えるのは、八、おまはん、まだまだシロウトやで。

八: なんや、そのシロウトって。

熊: 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とはやな、

つまりは、「イエス様とつながってたら、何でもできる」ちゅうことや。

イエス様と心ひとつになってたら、何をしても栄えるちゅうことや。

八: はぁ~。などほどなぁ、ええふうに考えられるもんやなぁ。

熊: あ、熊、ちょっとあきれたやろ、いま。ちゃうで、これも聖書からやで。

ほら、詩篇の1篇みてみいな。

「主の教えを喜びとし、♬主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、

その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(2節3節)

八: 歌わいでも、ええのに。まあ、確かにな。

けんど、わてらは、ほんまに、みことばに支えられてんねんな。

勇気づけられるわ、慰められるわ、みことばが生きる力や。

熊: みことばをたくさん覚えるのもええけど、ひとつのみことばに本気で取り組む、

っていうのが、わてらにはおおてるかもしれへんな。

八: ようゆうわ。まあ、みことばを覚えられへん、ええいいわけにもなるしな。

熊: それゆうたら、身も蓋もあれへんやん。

八: いや、蓋はないかもしれへんけど、身はあるで。見つけて、食べんねんさかい。

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横谷先生、お祈りいただけますでしょうか。