メッセージ:「回復の希望:しかし主よ」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

9月2日

担当:若竹孝行

メッセージ:「回復の希望:しかし主よ」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:哀歌4章〜5章

5章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:5:19-21

「主よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。私たちを長い間、捨てておかれるのですか。主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

このエレミヤの哀歌5章では、エレミヤは、民のみじめな状態を切々と訴え、一日も早く神に立ち返ることができるようにと祈っております。

どのぐらいみじめなのかと申しますと、2節

●「私たちのゆずりの地は他国人の手に、私たちの家は異国の民の手に渡りました。」

自分たちの相続の地も、家を中心とした財産も人手にわたり、すっからかん。

すべて金をだして買わないと生きていけません。4節

●「私たちは自分の水を、金を払って飲みます。薪も、代価を払って手に入れます。」

その上に、重労働が課せられ、休む暇もありません。5節

●「私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても憩いを与えられません。」

神にも見放され、食べることもままならず、憔悴しきっています。10節

●「私たちの皮膚は、飢饉の激しい熱で、かまどのように熱くなりました。」

また、引用はしませんが、11節から13節までは、民は老若男女の区別なく乱暴をうけ迫害されていますと記しています。

このように民のみじめな状態を、エレミヤは神に訴えています。エレミヤは祖国がこのようなことにならないようにと、命がけで、警告したのですが、そのすべては水泡と帰してしまいました。しかし、エレミヤは諦めませんでした。

まず、主の御名をほめたたえます。

●19節「主よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。」

主が永遠であることを信じていますと、エレミヤは主に訴えるのであります。あたかも、先祖と交わした主と約束が永遠であると、『思い出してくださいその約束を』訴えているかのようであります。

●20節「なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。私たちを長い間、捨てておかれるのですか。」

そして、かの繫栄した昔のダビデやソロモンの時代のように、主のみもとに、エルサレムに私たちをバビロンから帰してくださいと懇願します。

●21節「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。」

解説書によりますと、ユダヤ教では、22節を読み、ふたたび21節に戻って、哀歌の朗読を終わるようです。

●22節「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ、」

●21節「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。」

これは、「もしも、主が私たちを見捨てておられないなら」という仮定法の表現でもありますが、そうではなく、その実、「あなたは、決して私たちを忘れたりはしないと信じています。私たちは主に悔い改めます。その時、どうか私たちを主の民として、再び繁栄がもたらされ、主の栄光を現してください。」と主への信頼と悔い改めを主張し、民の回復を願う表現ではないでしょうか。

哀歌は悲しみの歌ではありますが、ただ単に悲しみ嘆きをつづる歌ではなく、そこには悔い改めて、神に立ち帰ることの意志を、最後の最後に表した歌であると思われます。

もしも、希望もなく悲しみだけを述べた歌であるなら、聖書に納められていないのではないでしょうか。

主は、2コリントの7章10節で、パウロの口を通して、次のことを述べておられます。

●「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

では、悔い改めを生じさせる悲しみとはどういうものなのでしょうか。罪自体に対する悲しみは、悔い改めを導く一方、罪がもたらす結果(罰など)また、罪を犯していることがばれたことを悲しむことは、悔い改めを導きません。例えば、「人を呪う」という罪を犯して、その罪を犯してしまった弱さを悲しむ、その悲しみはすでに悔い改めに導いています。しかし、「人を呪って」そのことがばれて、非難され、「どうしてばれてしまったのだろう」と悲しむのは、悔い改めを導いてはいません。つまり、次には、「もっとばれないようにうまくやろう」と思ってしまい、再び罪を犯してしまうからです。

エレミヤは、哀歌の最後で、民が罪を悔い改めることを信じ、神にそのように訴えているのです。

新改訳2017年版では、省略されているのですが、新改訳第三版まででは、また口語訳でも、(新共同訳にはありませんが)19節で、「しかし、主よ。」とあります。悲しみ嘆きうなだれているエレミヤが、「しかし、主よ」と首をもたげ、主の御名をほめたたえ始めます。たたかれても、打ちのめされても、虐げられても、なおも主のご支配を仰ぎ見るエレミヤが、主に大いに期待するエレミヤが、そこにはいます。

では、エレミヤは何を主に期待するのでしょうか。21節の「あなたのみもとに帰らせてください」ということであります。英語の訳では、ほとんどの聖書が「Restore us to yourself, O Lord」となっています。Restore は高校英語では、「修繕する、修復する」とならいます。「~に立ち帰らせる」という意味もあります。そして「回復させる」という意味もございます。ですから、21節のことばは、主に自分たちの回復を願うことばなのです。そして、そこには悔い改めが必然的にあります。

現代の私たちはどうでしょう。失望や絶望のどん底にあった場合、主に「どうしてですか」と訴えるかもしれません。しかし、考えてもみてください。もし、私たちが、主にあって正しいことをしているのなら、主が私たちを祝福してくださらないはずはございません。なのに、落胆するような状況下にあるとすれば、私たちのどこかに悔い改める要因があると考えるほうが正しいのではないでしょうか。どこかに主をないがしろにし、自分の知恵だけで行動してしまったり、他の人の意見に安易に迎合したり、惑わされたり。聖書は旧約・新約とも、私たちを神のみもとへと立ち帰らせる悔い改めを導く神の御言葉であり、息吹でもあると、私は思っております。私たちは、主にあって、祈りと御言葉を通して、悔い改めに導いていただく必要があるのです。そして、主は、そのようにする私たちを決して見放したりはなさいません。その「主は決して私たちを見捨てない」という確信に導いていただき、「しかし、主よ」と顔を上げ、主の御名をほめたたえ、私たちを回復していただくことを、そのことが成就するまで、祈り続ける必要があります、御言葉に学ぶ必要があります。

ダビデは詩篇119篇の71節と72節で次のように歌います。

●「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。あなたの御口のみおしえは、私にとって幾千もの金銀にまさります。」

また、105節では、

●「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

私たちは、御言葉によって生かされ、主の道を歩むことができます。そして、御言葉には祈りが伴います。

どうか、苦難や困難に立ち向かうとき、悔い改めるべきことは悔い改め、「しかし、主よ。」と顔をあげ、「主は必ず、私たちを祝福してくださる」と信じ、希望をもって、御言葉を自分のものとし、祈り続けて、回復の道を示していただきましょう。

しばらくの間、賛美を聞きつつ、黙想してみてください。

 安息 - 富田 満 (Cover by Joshua Mine)

 

https://www.youtube.com/watch?v=azBdfAcKJ4Y&list=RDazBdfAcKJ4Y&start_radio=1

お祈りいたします。

主のいのり