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メッセージ主題:『主のあわれみを待ち望む』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ユダの手紙』

2021時年9月5日

聖書拝読:ユダの手紙 17節~23節(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望なさい。」(20-21)

メッセージ主題:『主のあわれみを待ち望む』

おはようございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、岸和田福音キリスト教会での御用のため、「み言葉を食べよう」と題して特別なメッセージをさせていただきました。ひとつの御言葉でもいいから、自分のものにして、御言葉にいきることを学びました。

そして、先々週は、ヨハネの手紙の第三から、「同労者」と題しまして、神様からのメッセージたまわりました。この手紙の目的は二つあり、一つは、デオテレペスという教会員が、使徒たちをののしり、服従せず、欲しいままに振舞っていたので、ガイオが彼に従わないようにと注意することと、そしてもう一つは、今まで通り、巡回伝道者の世話をしてくれるようにお願いすることです。

「同労者」とは、特別な任務を授かった人ではなく、教会という神の家族のもとにあって、共に福音的使命を共有する人たち、つまりクリスチャン全員であるということ、そして「同労者という意識で、クリスチャン同志が接する」ことを学ばしていただきました。

今朝は、ユダの手紙から、「主のあわれみを待ち望む」と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。ユダとは、主イエス・キリストの兄弟です。つまり、ヤコブ書のヤコブとも兄弟ということになります。このユダの手紙は、「偽教師についての警告」と「キリスト者としての励まし」が記されています。今朝は、キリスト者としての励ましの部分から、学ばせていただきます。「主のあわれみ」とは何か、それを黙想したいと思います。

お祈りしましょう。

今朝の中心聖句の「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」とは、どういうことでしょうか。まず、「自分の持っている最も聖い信仰」とは、『この世から区別された、天上の神から与えられた信仰のことを言い、ヨハネが福音書の3章3節や5節で述べているような、イエス・キリストによって生まれ変わった人間のみがもつこのとのできる神への信仰』であります。

●「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

●「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)

では、「そのイエス・キリストにある信仰の上に自分自身を築き上げる」とは、イエス様の「岩の上に建てた家」というたとえ話を思い出します。(マタイ7:24-27)

●「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

イエス様を信じ、イエス様のことばに聞き従って生きることです。また、パウロの言葉をかりれば、(コロサイ2:6-7)

●「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」

パウロは、感謝することを付け加えています。つまり、イエス様を受け入れ、みことばに聞き従って感謝して生きることが、「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」ということになります。

では、次に「聖霊によって祈る」ことでありますが、「聖霊や御霊によって祈る」ことは、聖書にユダ書以外に2か所でてきます。いえ、2か所しかでてきません。少し味わってみたいと思います。1コリント14:15とエペソ6:18です。

●「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性によいても賛美しましょう。」(1コリント14:15)

これだけでは、パウロの意図は分かりにくいですね。この15節の前後を読むとよくわかります。

●14節「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。」

●16節「そうでないと、あなたの霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席についている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。」

●19節「教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」

このことでお分かりのように、「霊によって祈る」とは「異言で祈る」ということです。

では、エペソ書にある「御霊によって祈る」はどうでしょうか。

●「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)

パウロは、ここでは、教会内や祈りの仲間と祈ることを想定して述べていると思われます。そうしますと、1コリントの「霊によって祈る」ことが「異言で祈る」ということでは、必ずしもそうではないことが分かります。ここでの「御霊によって祈る」とは、ある解説書では、「御霊の思いをもって祈る」ことであると記されているのですが、この説明では、もっと謎めいてきて、もうどうしようもなく分からなくなってきます。私は、「聖霊や御霊によって祈る」とは、狭い意味では、1コリントのように「異言で祈る」ということです。が、しかし、これでは、異言の賜物をいただいていないクリスチャンは、(まあ私もそうですが、)「聖霊によって祈る」ことはできなくなります。しかし、パウロは、エペソ書では、特定のクリスチャンを指定しているわけでありません。もっと広い意味でのことだと分かります。私の理解では、「御霊・聖霊によって祈る」とは、「聖霊の力によって、聖霊の導きによって、御心に添って、聖霊に押し出されて」祈ることであり、聖霊に支配されて、祈りを導いていただくことであります。この「御霊・聖霊によって祈る」という表現は、聖霊を宿しているクリスチャン(つまりイエス・キリストを信じている人)でない限り、これ以上説明しても、堂々巡りになるのではないかと思われます。

ユダの「聖霊によって祈る」とは、この広い意味でのことであります。

次に、「神の愛のうちに自分自身を保つ」ということを考えてみましょう。「愛のうちにいる」とか「愛のうちにとどまる」という表現と同じだと思われますが、イエス様が次のようにおっしゃっておられます。(ヨハネ15:9-11)

●「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

イエス様のことばを借りれば、「イエス様の愛の中にとどまる」とは「イエス様の戒めを守る」こと。イエス様の戒めとは、12節に記されています。(ヨハネ15:12)

●「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

イエス様がわたしたちを愛されたように、私たちが互いに愛し合うことです。イエス様は、私たちの罪の贖いのために、自らの尊い命を十字架にかけられました。イエス様は、私たちに、命をかけて友人を愛しなさいとはおっしゃっておられません。それができるのは、イエス様だけです。誠心誠意互いに愛し合うこと、それがイエス様の戒めです。

ですから、「神の愛のうちに自分自身を保つ」ということは、イエス様の戒めでもあり、神様の戒めでもある、『心から互いに愛し合う』ということです。

さて、最後のことば

●「永遠のいのちに至らせる、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望なさい。」

「主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」とはどういうことでしょうか。クリスチャンはすでにキリストを信じ、聖霊様が私たちの心にとどまってくださっておられますから、主のあわれみでもあり恵みは、すでに受けております。待ち望むものではありません。ここでの主の憐れみの対象者はわたしたちなのでしょうか。これはこの21節だけを見ていても分かりません。22節23節にこの答えがあります。

●「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」

この言葉は、簡単に言えば、『罪を憎んで、人を憎まず。私たちが、主のあわれみによって救われたように、いまだイエス・キリストの恵みを知らない人々、それに疑いをもっている人々に対して、イエス・キリストの証し人として、その方々と接し、証しをし、イエス・キリストの恵みをお伝えする』ということであります。

ユダは、私たちに、イエス・キリストの証し人として、イエス・キリストの恵みを、ことばと行動と私たちがかもし出す雰囲気、キリストのかおりによって、伝えなさいと勧めているのであります。ユダは、こんなことをはっきりと述べてはおりませんが、私はこのように思うのです。私たちの使命は、イエス・キリストを喜びつつ、イエス・キリストの恵みを伝えるだけ、つまり種をまくだけですよ、と申しているように思えるのです。その人がイエス・キリストを信じるか信じないかは、イエス・キリストのあわれみに他ならないのです。ですから、ユダは、私たちに、「主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」と説くのです。

しかし、これは、ただ単に、祈って待ち望みなさいと言っているのではなく、私たちがやるべきこと、恵みの種をまくことをして、そのあとは、聖霊様に、またイエス様にお任せしなさい。イエス様があわれまれる方をあわれまれます。それが、主の選びであり、旧約聖書時代から綿々と変わらず、現れる主の指針なのであります。

出エジプト記では、神がモーセに次のことを現わされました。

●「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

「恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」主でありますから、ユダは、「永遠のいのちに至らせる、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望なさい。」と私たちに、忍耐をししつつ、また主を喜びつつ、イエス・キリストの恵みを、私たちのすべてを通して、宣べ伝えなさいと説くのであります。

もう、みなさんお分かりのように、今朝の「主のあわれみを待ち望む」とは、実は、宣教のすすめと宣教の心構えなのであります。

さて、皆さまお待ちかねの、八さんも熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、今日の「主のあわれみを待ち望む」というメッセージから、何を思われますか。

―――――

八: ただいま。さっき、結婚式のお手伝いからかえってまいりました。

いやぁ、たまげたねぇ。ええ、「主のあわれみを待ち望む」っていうのが、

イエス・キリストを証しするおすすめやったとはね。

熊: けんどちょいと気ぃ楽になったわ。

八: なんでや?

熊: そやかて、イエス様のことをお伝えしたとしても、

イエス・キリストを信じるか信じひんかは、

わてらの責任とちゃう、ゆうてくれはんねんや。

だから、相手が信じひんかっても、落胆せんでもええんや。

責任感じんでもええんや、ゆうて。

八: そりゃ、そうやわな。「恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」と

おっしゃるんやから。

イエス様を受け入れ、みことばに聞き従って感謝して生きているわてらは、

聖霊様に支配されて、祈りを導いていただいて、互いに愛し合い、主を喜びつつ、主の証し人として、イエス・キリストを、お伝えする、それだけでええんや。

熊: ちょっと、まって。八、それだけでええんや、言いながら、

えろういっぱいくっつけたでぇ。

今日、牧師さんがいわはったことのオンパレードやないか。

八: へへぇ、ちっと、まとめてみたんや。

熊: まとめんのはええけんど、くっつけすぎやで、もういっぺんゆうてみいな。

八: あほか、言えるわけないやないか、あんないっぱい。

熊: せやったら、あかんやん。みぢこうしたらどうなる。八のことばでゆうてみぃ。

八: せやなぁ、やっぱりイエス様いのちっていうことかいな。

せいいっぱい、イエス様に感謝して、イエス様を喜んで、お証する。

もちろん、聖霊様に導かれて祈らせてももらうでぇ。

熊: はじめっから、そうゆうたらええねん。わては、今まで通りでもええと思てる。

イエス様の喜びが、わての喜びとなる。そんな一日一日を送りたいと思てんねん。

パウロはんも、ゆうてるやないか。

●「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」って。

八: おっ、それ、ローマ人への手紙の12章14節やね。わても、あのことば好きや。

クリスチャン同志は、そうでないとあかん。

「共に喜び、共に泣く」わてらがいっしょにおるときには、イエス様もおられるから、

結局は、イエス様とともに喜び、イエス様とともに泣く、ことになるんやな。

熊: たしかに、主にある友との交わりも大事や。でもな、ユダはんは、「外にも目、向けてや」

ゆうてはんねん。内に向かう交わりやのうて、交わりつつ外に目を向けて、

ともに種まきせんとあかんよ、ゆうてくれてはんねん。

八: ともに種まきか。ええなぁ、実りを期待して、種まき。

熊: 先にイエス様の恵みにあずかったもんは、イエス様をあかしして、なんぼのもんや。

種まき、たのしもう。

八: 牧師さん、ということですわ。ユダはんのいわれるように、

主のあわれみを待ち望みつつ、種まきしまっさ。よろしゅうお願いします。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「主のあわれみを待ち望みつつ、種まき」ですか、わたしも混ぜてください。とりあえず、まず祈りからはじめましょか。私たちは、たしかに、イエス様をあかしして、なんぼのものですけど、イエス様に祈りをささげて、なんぼのものでもありますから。

さて、今から黙想の時を持ちたいと思います。どうか、今朝の学びの中で、示されたこと思わされたことをもう一度振り返ってみてください。

黙想の時に、詩篇57篇をお読みいたします。

黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。マタイの福音書9:13です。

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

では、黙想いたしましょう。

詩篇57篇。

お祈りをいたします。

愛する天のお父様、主の御名を賛美しほめたたえます。今朝は、「主のあわれみを待ち望む」と題しまして神様からのメッセージを賜わりました。主は、ユダを通して、私たちに、主の証し人として、主の愛と恵みを伝えなさい、その人が信じるか信じないかは主の選びの領域であることを明らかにしてくださいましたから感謝いたします。どうか、私たちがいつも主を喜び、キリストのかおりを放ちつつ、主の恵みをお伝えする者とさせてください。

私たちの主、イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。