ぶどうの木キリスト教会
礼拝シリーズ主題:『ヨハネの黙示録』
2021時年9月26日
聖書拝読:ヨハネの黙示録3章 1節~6節、14節~22節(新改訳聖書)
中心聖句:
「目をさましなさい。そして、死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」(2)
メッセージ主題:『目をさましなさい』
おはようございます。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
9月の日曜日も今日で最後であります。10月から、東大阪市の小阪チャペルへと、礼拝を移し、11時から礼拝を開始し、そこからYOUTUBEも配信したいと願っています。YOUTUBEでアップしますのは、著作権の関係もあり、従来通り、礼拝メッセージだけとなります。これを機に新たにYOUTUBEも小阪チャペルチャンネルを開設し、そこに動画を納めさせていただきます。まだWi-Fiの設備も整っていませんので、どのようになるか分かりませんが。Wi-Fiの設備が間に合わない時には、今まで通りスマホで録画し、その後配信するという手段を取りたいと思います。また、私が、結婚式の司式や他の教会での御用のため、11時の礼拝ができない場合は、ある方々にお願いして、礼拝を守ることにしております。また、その方々も無理な場合は、従来通り、私がスマホで録画した映像を若竹のチャンネルと小阪チャペルチャンネルにアップします。まだ、いろいろと調整しないといけないことがございますし、不慣れなものが操作しますので、不備がでて、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
先週は、ヨハネの黙示録第2章から、「勝利を得る者は」と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきました。黙示録の2章3章にかけて、7つの教会にあてた手紙が記されています。2章では、エペソ、スミルナ、ベルガモ、テアテラの教会へ、3章では、サルデス、フィラデルフィア、そしてラオデキヤの教会へあてた手紙です。一つ一つの教会への手紙の最後には、勝利を得る者への励ましが書き送られています。これらのことばを要約すると、『勝利を得る者は、最後まで主のわざを守る者であり、主とともにあり、永遠のいのちにあずかる。』ということです。
世に勝利されたイエス様を信じることで、私たちも勝利に導かれます。日々、神様の方を向き直して悔い改め、御言葉をたべ、栄養つけて、勝利の歌声で、神様のほめ歌う、そのような者とさせていただくことを導かれました。
さて今朝は、つづいて第3章から、「目をさましなさい」と題しまして、神様からのメッセージに耳を傾けさせていただきます。先週、黙示録の2章3章にかけての勝利を得る者の心構えを学ばせていただきましたので、今朝は少し角度を変えたいと思います。まあ、私のメッセージは、最後は同じようになってしまうことが多いですから、今回もそうかも知れませんが、この3章で言われるところの「目をさます」とはどういうことなのかを導いていただきたいと思っております。
お祈りいたします。
主は、サルデスの教会に対して、「目をさましなさい」とおっしゃいました。サルデス教会での問題は、異端の問題ではなく、キリスト信者の霊的な死であります。2節に●「死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」 霊的な死とは、端的に申しますと、信仰への自己満足であります。たとえば、「もう私は信仰歴も長いし充分真理は分かっている」という高ぶりや、「教会での礼拝は守っているし、家族や周りの人は信仰者であるから、今更伝道する必要もない、あれ?伝道のしかたって、どうするんだっけ。とんとそんなことしたことがないな」というような、キリスト者の本来の大命題である宣教を忘れ去ってしまったことによる、霊的な死です。また、教会活動や伝道活動をしていたからといって、霊的な死を免れないことはありません。活動は尊いものですが、祈りや悔い改めを伴わない行動は、やはり信仰の死に向かっているのです。
主は、初心に戻りなさいと仰せになります。3節「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」私たちが救われた時のこと覚え、また聖書がわたしたちにとってどのような意味があるかを再確認したり、聖書を共に学び、祈り合うグループに参加したり、そのようなことによる信仰の一致、教会の一致を目指す必要があるのです。
また主は、●「死にかけているほかの人たちを力づけなさい」とおっしゃいます。共に福音にあずかる者として、最後まで信仰をなくなさいよう、お互いに励まし合わないといけません。サンデスの教会は、その危機に瀕しているのです。そして、おそらく私たちもそうではないでしょうか。また同じような信仰の状態にあるのがラオデキヤの教会です。
●15節「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
ラオデキヤは7つの町の中で最も裕福で、金融業や羊毛産業、目薬を開発した医学校などで有名でした。その裕福さが、信仰のなまぬるさを生み出したのかもしれません。もちろん、裕福さが必ずしも信仰をダメにするのではありませんが、その危険性は大いにあるといえるでしょう。ラオデキヤの教会は、信仰のぬるま湯につかっていたのでしょう。信仰のぬるま湯とは言い得て妙だと思います。裕福な人たちだけではありません。すべての人がその信仰のぬるま湯につかる危険性があります。信仰のぬるま湯は、自己満足に起因します。「聖書は毎日読んでいる、こんなもんでいいんじゃない」「主日礼拝には毎週かかさず行っている、よくやってるほうだよ」このような心の声がありませんでしょうか。この「こんなもんでいいんじゃない」とか「よくやってるほうだよな」という思いが、私たちを、信仰の高みを目指さなくさせるのです。
それでは、そもそもですが、信仰の高みとは、なんでしょう。たくさん聖書を読むことや、長い時間祈りをすることや、熱心に教会を支える、周りの人に親切にする、これらのこともとても尊いことです。神様に喜ばれることでもあるでしょう。しかし、これらのことは、何か自分が努力して、神様に近づくというような感じに見えないでしょうか。私が思う「信仰の高み」とは、神様にすくっとすくい上げていただくことではないかと思うのです。
金魚すくいをイメージしてみてください。金魚すくいでは、金魚をすくう技術、いかにして水にぬれた薄い紙を破かずに、金魚をすくうかということが問われます。しかし、ちょっと視線を変えてみますと、いかにして金魚が暴れないようにすくうかという技術も問われているような気がします。金魚すくいの名人は、この二つの技術が備わっている方なのではないでしょうか。
では、もっと視線を変えてみます。私たちは金魚です。大勢の仲間たちと一緒に泳いでいます。金魚である私たちをすくってくださるのは神様です。神様が私たちをすくおうと、私たちを濡れた紙の上にのせます。私たちがおとなしくすくい上げられれば、神様の器の中に入れられます。しかし、私たちが濡れた紙の上で、もがいてしまうなら、紙はすぐに破けて、私たちは元のところに落ちてしまいます。
信仰の高みとは、神様におとなしくすくい上げられる、つまりは神様にすべてをおまかせし、ゆだねるということではないでしょうか。「すべてをまかせて、おゆだねする」というのは、私たちには自我がありますので、なかなか難しいことであります。私は、7年ほど前まで、この「主により頼み、主にすべてをまかせて、ゆだねる」ということが、どのようにしたらよいのか分からないで悩んでいました。まあ、今でももがいてはいますが、、、、。その時に与えられた答えのひとつに、「神様に喜んでいただく」ということです。私の慣れ親しんできた口語訳聖書では、ローマ書12章1節に次のようにあります。
●「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」
ちなみに、今、このメッセージで、私が使っています新改訳聖書第三版では「神に喜ばれる」は「神に受け入れられる」という訳になっています。
神様に喜ばれるのは、生きた、聖なる供え物である私たちであります。私たちが聖なる供え物となるためには、私たちを聖とするイエス・キリストの血をとことん受け入れる必要があります。イエス・キリストを信じる私たち自身を神様の供え物とする、神様に喜ばれるように自らをささげるということですが、ではそれはどういうことでしょうか。
詩篇51篇16-17節には、次のように記されています。
●「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心、神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
神様の喜ばれる、私たち自身のいけにえとは、砕かれた、悔いた心です。高慢にならず、常に、神が私たちの創造主であることを覚え、神様を神とあがめる心です。
また1サムエル15章22節で、サムエルは次のように申します。
●「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
神様の喜ばれるのは、私たちが神に耳を傾け、聞き従うことであります。主の声が直接聞こえることもあるでしょうし、聖書をよんでいて示されることもあるでしょう。また祈りのなかで導かれることもあるでしょう。はたまた、他の人や物事を通して示されることもあるのでしょう。主は、様々な方法で私たちに主のみ旨を現わされます。その主の御声を聞き、その通りに従う、また従おうとすることが大切です。そして、それが、砕かれた、悔いた心なのではないでしょうか。
主に無条件降伏して、主にすべてを任せて、より頼むというのは、実に、主の御声に聞き従う、聞き従おうとすることなのでしょう。そして、その事が、信仰の高みを目指すというだと、私は思うのであります。
そして、そのところにおいて、私たちは、主の戒めを覚えます。
●「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)
●「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)
ところが、この戒めを守ろうとすると、私たちの力だけでは不可能なことに気づきます。なぜなら、私たち自身はまったく不完全な者、愛の足りない者だからです。まあ、私などは足りないところだらけで、足りない方が多いのですが。、、、ですから、その足りさなを主に補っていただくよう、主に願う必要があるのです。私は、このことが、今日の「目をさましなさい」というメッセージなのだと思うのです。
信仰において、自己満足するのではなく、足りないことを認め、その足りないところを主に補っていただくよう主の知恵と力と勇気を求める。そのへりくだった心が悔いた心でもあり、主が喜ばれるいけにえなのではないでしょうか。その事を主に導いていただこうとすることこそ、目がさめた状態であり、主にある兄弟姉妹を励まし力づけることが、あなたを通して主がなさってくださるのです。
さて、八さん、熊さんにも登場していただきましょう。八さん、熊さん、今日の「目をさましなさい」というメッセージから、何を思わされましたか。
―――――
八: 今朝の「目をさましなさい」というタイトルから、わては、
イエス様のゲッセマネでの弟子たちへのお言葉を引き合いにだすんとちゃうか
と思うてたわ。
熊: マタイの26:41やな。●「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
でも、わては、ちょっとちゃうな。イエス様の天の御国のたとえ話や。
花婿を出迎える十人の娘のことを考えていたわ。
八: 賢い娘5人と愚かな娘5人のところやな。花婿が来るのがいつなのか分からんから、
ちゃんと目をさまして、心の準備をしときなさいよ、っていう。
熊: そや、マタイの25章の13節。●「だから、目をさましていなさい。
あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
八: けんど、今朝は、ええふうに裏切られたな。「目をさます」ということから、
「悔い改めて聞き従がおうとする」こと、「主にすべてをゆだねようとする」こと。
熊: わては、金魚すくいの話がおもろかったわ。
たしかに、神様はわてらを救い出そうとされるんやけど、
それが不安になってもがいて、紙もやぶれて、元の木阿弥や。
神様にぜ~んぶ、ゆだねてる金魚だけが、救われるんやなぁ。
八: まな板の鯉、でなかったらあかんのかもしれへんけど、やっぱあがいてしまうよな。
熊: そやな。けんど神様もそんなことお見通しやで。神様のすごいとこは、
わてらのだれ一人も、諦めへんちゅうとこや。
神様、あきらめが悪いんねん、いや、諦めるゆうことご存じないねん。
八: かもな。神様の辞書には、「諦める」いう言葉ないんかもしれへんな。
熊: わてらに、なんべんも、なんべんも、「目さましや、熊、目さましや、八」
ゆうてくれはんねん、わてらのイエス様は。、、、うれしいなぁ。
八: イエス様に喜んでもらうためには、なんでもしたい。
けど、なんもでけへん、イエス様なしではな。
熊: そこやがな、イエス様は、わてらに頼ってほしいんや。それがイエス様の喜びや。
そやから、「目さましや」「わてに頼りや、わての知恵と力と勇気、あげるさかい。」
ゆうてくれはんねんな。
八: イエス様の喜びがわてらの喜びとなる。
イエス様の見てるはるものが、わてらにも見えて来る。
「目さましや、ええ景色みえてんで」って、おっしゃってくれるような気がするわ。
牧師さん、こんなところでよろしおまっか。今から、結婚式のお手伝いでんねん。
では、また。みなさん、さいなら。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。結婚式のお手伝い頑張ってください。イエス様の前で、まな板の鯉ですか。わたしは、やっぱり金魚すくいの金魚になりたいです。目をさまして、主にすべてをゆだねる、なかなかできることではありませんが、そのように導いてくださいとイエス様にお願いいたしましょう。
さて、今から黙想の時を持ちたいと思います。どうか、今朝の学びの中で、示されたこと思わされたことをもう一度振り返ってみてください。
黙想の時に、詩篇34篇をお読みいたします。
黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。マルコの福音書13:37です。
「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」
では、黙想いたしましょう。
詩篇34篇。
お祈りをいたします。
愛する天のお父様、御名を賛美しほめたたえます。今朝は、「目をさましなさい」と題しまして神様からのメッセージを賜わりました。「目をさます」とは、主の声に耳を傾け、その声に聞き従うように試みることであり、何事にも自分の力だけではなく、主に知恵と力と勇気を求め、主に人生を導いていただくことです。その上で、主にある兄弟姉妹のことを思って、共に福音にあずかる者とさせていただきましょう。
私たちの主、贖い主イエス・キリストのお名前により、お祈りいたします。アーメン。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。