メッセージ:「ねたむほどに愛す」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

10月7日

担当:若竹孝行

メッセージ:「ねたむほどに愛す」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ゼカリヤ1章〜3章

1章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:1:14-15

「私と話していた御使いは私に言った。『叫んで言え。「万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。」』」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

このゼカリヤ書は、大きく二つに分けられます。前半1章~8章までは、ゼカリヤの時代の人々、つまりバビロン捕囚後で、神殿の再建を考えている民に直接かかわりを持つメッセージが幻によって示され、また後半9章~14章までは、終末のできごとが記されています。

今朝はその前半の中でも第1章、「わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」(3節)という悔い改めを促すメッセージが主題となっている章のなかでの、主の愛を取り上げてみたいと思います。

主は●「ねたむほど激しく愛した」とおっしゃいます。この「神がねたむ」という表現は時々でてきます。初めに登場したのは、出エジプト記20章5節です。

●「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

神のねたみは、偶像礼拝によって、民の心が主から離れてしまった状態に対して、怒りとともに起こるものでしょう。最初にでてくる「神のねたみ」は、神がエルサレムの民と契約を結んだときのことでありました。第三戒、偶像崇拝の禁止の戒めです。

契約をむすばれた神を、民が不従順にもないがしろにしたならば、神は無関心ではいられないほどに、愛するがゆえの怒りがこみあげてくるのであります。神の愛はそれほどまでに大きいのであります。神の愛は深く広く大きいく、偉大で寛容でありますが、こと偶像崇拝に関しては、神のもっとも嫌われることであり、この偶像礼拝には神の怒りが大いに下されるのです。

申命記にも次のようにあります。

●「気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないように、またあなたの神、主の命令に背いて、いかなる形の彫像も造ることがないようにしなさい。あなたの神、主は焼きつくす火、ねたみの神である。」(申命記4:23-24)

日本語での「可愛さ余って憎さ百倍」とでもいうところでしょうか。

エルサレムは神の目には特別なのです。愛するがゆえに厳しいのです。しかし、諸国には寛容でありました。寛容というよりは、諸国に関しては、「ねたむほどには愛していなかった」とも考えられるのではないでしょうか。

●15節「しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して、わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を愛した。」

甘い顔をするとすぐつけあがる、人間の悲しい性であります。諸国民に対する、神の取り扱いは寛容で、エルサレムと比べると、徹底したしつけは行われていませんでした。神のしつけがきびしければきびしいほど、神はご自身の選べし民を愛しておられるのです。

しかし、神はこんなエルサレムですが、決して滅ぼしはしません。ですから、●「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。」(16節)とおっしゃいます。 やはり、神にとってエルサレムは特別な存在なのです。

そして、この神のあわれみは、エルサレム神殿の再建という形をとります。

この同じ神のあわれみによって、新約聖書時代の私たちも、御子イエス・キリストの恵みによって、罪赦された者となり、私たちの心に神殿が設けられることとなりました。

ゼカリヤ書8章にも同じような記述がございます。

●「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。」(8:2-3)

そして、7節8節では、、、、

●「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の沈む地から救い、彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」

もちろん、これはバビロン捕囚の民を、エルサレムへと導くためのものであり、ゼカリヤが預言活動をしていた時は、バビロンからの帰還民がぞくぞくと帰ってきていたときであります。しかし、この預言は、現代の私たちにも適応できるのではないでしょうか。神は御子イエス・キリストをこの世にお送りくださり、私たちの罪を贖われるために、十字架において、いけにえとしての聖なるいのちをささげ、三日目に死を克服して、永遠のいのちを持たれ、ゆえにイエス・キリストの贖いは永遠の効力を発揮できるようにされました。また、イエス・キリストを信じる者には、主の平安であり助け主でもある聖霊様をお送りくださり、私たちが罪を犯しにくい性質へと変えてくださるのです。そして、その救いの対象者は、「日の出る地と日の沈む地」つまり、世界中の人々であります。

神がねたむほどエルサレムを愛してくださったように、私たちをも愛してくださるのです。そして、イエス・キリストを信じて、神の子どもとされ、神をアバ父とよべる関係に私たちをおかれました。これは、私たちの努力でそうなったのではなく、神のあわれみのほか、なにもございません。神は私たちをもねたむほどに愛してくださるのです。ということは、私たちに対する神のしつけも、世の人々よりも厳しいものとなるということです。

イエス・キリストを信じ、イエス・キリストをお送りくださった創造の神を信じると、信じる前よりも、クリスチャンになる前よりも、試練が多くなったと感じられるのは、本当なのです。なぜなら、父なる神は、私たちを自分の子どもとしてしつけようとされるからです。他人の子どもを、自分の子どものときのようには厳しくできません。試練はわざわざ受けたいものではありませんが、イエス・キリストを信じたがゆえの試練は、私たちをねたむほどに愛してくださっているゆえのことであると考えれば、使徒パウロのことばも納得できるのではないでしょうか。

●「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:2-5)

神はわたしたちをねたむほどに愛してくださり、しつけとしての試練をお与えくださいます。また、その試練を克服できるよう、同時に聖霊様をお送りくださって、私たちの天の御国での永遠のいのちの希望をにぎりしめるようにしてくださるのです。

なぜクリスチャンになったのに、試練や苦難が多い、となげくのではなく、父なる神さまが子なる私たちへのしつけをなさってくださっていると、感謝をもって、その試練を耐え抜こうではありませんか。助け主である聖霊様がきっとイエス様にたよりきる道をお示しくださいます。

父なる神さま、ねたむほどに愛してくださって、ハレルヤ、主の御名を賛美し感謝いたします。

黙想しましょう。

イエスがいるから (Because He Lives) - A capella Cover by Ruah Worship

https://www.youtube.com/watch?v=yHraxLa3ZEg&list=RDCMUCR5Yht1fKaRgKx5cXIJMH-Q&start_radio=1

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。