メッセージ:「さばかれよ」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

10月14日

担当:若竹孝行

メッセージ:「さばかれよ」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:マタイ7章〜9章

7章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:7:1-2

「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

「さばいてはいけません」とイエス様はおっしゃいますが、正直、俗人の私には無理です。私たちは、覚えておかないといけません、私たちは、罪人であり、その上、牧師は罪びとの頭です。そこをよく覚えておいて、イエス様のこの「さばいてはいけません」ということばの真意を考える必要があります。

イエス様はおっしゃいます。4節~5節

●「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」

イエス様は、●「兄弟の目からちりを取り除くことができます。」とおしゃいます。「兄弟の目からちりを取り除く」とは、愛をもって、兄弟の非をとがめ、聖霊様によって改めさせることです。つまり、ここでは、皆さんがどうつくろうが、「さばいている」のです。祈りをもって裁くのです。しかし、その前に、することがあります。「まず自分の目から梁を取り除きなさい」とイエス様はおっしゃいます。「自分の目から梁を取り除きなさい」ということは、自分の生活を正しなさいということでもありますが、もう少し具体的に言えば、自分を正当化するあらさがしや、優越感を伴った批判をしているのではないかと、自己チェックを行うことでもあります。これは、ひとえに高慢であります。自分は正しくて、みんな相手が悪い。同じ悪をしても、自分にはあまく、相手にはきびしい。また、自分も少しは悪いかもしれないけど、相手はもっと悪い。このように人間はうそぶくのです。

私は、「自分に厳しく、同じように人にも厳しい」といわれる方がいらっしゃることは知っています。しかし、私は、その方が私の目の前に現れたとしても、私はまったく信用しないでしょう。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、自己中心的であり、自分に厳しい人は、他人にはもっと厳しいのです。私たちの秤や物差しはダブルスタンダードです。基準が二つあるということです。これは悪徳商人と全く同じです。仕入れるときには、器の重さは軽く、売る時には、重い器を使うのです。そしてその差額を不当に儲ける。そのことで、自分が相手より優位に立つことができる。その意味では、私たちは、全員もれなく悪徳商人であり、牧師である私などは、悪代官というところでしょうか。

では、この私たちの悪徳商人悪代官のダブルスタンダードである秤や物差しは、どのようにすれば、一つになるのでしょうか。私たちは、生まれ育った家庭や地域の価値観に少なからず影響を受けています。ですから、価値観の違う人に会うと、その人を裁いてしまうのです。私たちの価値観はごく狭い知識で構成されています。しかし、そのことは棚に上げて、わたしの価値観は絶対正しいと思い込んでしまうのです。いわゆる、無知が差別を生むといわれるのと同じです。では、知恵が価値観の溝を埋めることができるのでしょうか。それもひとつかもしれません、が、しかし、知恵は絶対ではありません。いえ、知恵が増せば増すほど、価値観の溝が広くなったり、秤は物差しのダブルスタンダードの差は大きくなったりすることもあるでしょう。悪徳商人も悪代官もある意味では悪知恵が豊富にあるのですから。

伝道者の書には、次のように知恵のことを記しています。(1:16-18)

●「私は自分の心にこう言った。『今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。』わたしは、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くあれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

人間の知恵が、私たちの秤や物差しのダブルスタンダードを解決はしてくれないのです。

では、これを解決してくれるのは、いったいどのようにすればいいのでしょう。

答えはいたって簡単です。イエス様を秤や物差しにして、イエス様だったらどうされるだろうか、ということを常に問うてみることです。私たちの価値観や秤を基準にするのではなく、イエス様を基準にすることで、何にもぶれない基準を持つことができるのです。パウロはエペソ人への手紙で、「一つ」または「一致」ということを強調しております。(4:2-6)

●「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。」

パウロは、主に一致をもとめなさいと口酸っぱく訴えます。基準をイエス様に置かないと、すべてにおいてちぐはぐとなり、人間的な価値観やものさしが、あちらこちらから、ムクムクと頭をだしてくるのです。

基準をイエス様に置く。しかし、これは言うは易し行うは難しです。私たちがイエス様に基準をおき、イエス様を物差しとするということは、この地上では完全にはできません。私たちが、死ぬまで罪を犯してしまう人間だからです。ですから、そのことを目標として、完成形をめざして、一歩一歩あゆむしかないのです。しかも、いいことには、挫折する必要がないということです。私たちは、この世では、秤や物差しのダブルスタンダードを完全に解消することはできないのですから。この世では、いつまでたっても途中経過でしかありませんから、挫折しないでいいのです。しかし、あきらめは罪です、と私は思うのです。イエス様に基準をおくことは、しょせん無理とあきらめることは、そのことを助けてくださる聖霊様の力を信じない、また存在を信じないということになり、神を信じないことにつながり、罪となってしまいます。道をあきらめてはいけないのです。

さて、今朝のメッセージのタイトルですが、「さばかれよ」とは変なタイトルです。実はこういうことがあって、このタイトルにさせて頂きました。ある方がわたしの牧師としての礼拝の態度を非難されました。面と向かってではなく、また聞きです。こういうことです。牧師なのに日曜日に、結婚式の司式のアルバイトをして礼拝に出席しないというのはいかがなものかということでした。今までは、日曜日に結婚式がある場合は、必ず礼拝メッセージを録音し、YOUTUBEであらかじめ流していましたが、先日は礼拝メッセージを他の方にまかせて、結婚式の司式を行いました。たしかに引退牧師ならともかく日曜日に牧師がアルバイトか、と非難は当然かもしれません。私もいつも心苦しく思いながらも、アルバイトではありますが、毎回司式の時には心を込めて、新しいカップルの方々に神様の祝福がありますように、またイエス様の愛が少しでも伝わりますようにと、祈り心をもって臨んでいます。また、当然、アルバイトですから謝儀はいただきますが、教会の収入がほどんどありませんので、テントメーカーである私が神様の祝福によって必要を出させていただいています。今、私は以前にもまして、主の導きを祈り求めています。私はその非難された方をどうのこうのとは思いません、いたって当然のご意見ですから。かえって、非難された方に感謝をしているくらいです。なぜなら、今、主に本当にどうすべきかを祈り問うているからです。結婚式の司式も主にあっての尊い仕事だと私は感じていますから、余計に悩みます。また、その司式のアルバイト料は、ほぼほぼ教会の運営費へとささげていますから、なおさらです。結局、祈り悩んで出した決断は、やはり主日礼拝を時間通りに守ろう。日曜日の午前の結婚式を11月からはおことわりしよう、と昨夜おそくメールを差し上げました。

今回のことを通じて、「さばかれる」というのは、つらいものですが、かえって主にもっと寄り添わざるを得ない状況に「ひきずられていく」といった表現の方が適切なぐらいであります。自分がみじめで足らないものであるという現実を直視させられる、しかしそれはわたしにとって、実は良いことなのだと今思えるのであります。

イエス様は、●「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」とおっしゃいましたが、実は「さばかれることも恵みである」と思えるのです。●「兄弟の目からちりを取り除くことができます」とおっしゃいますが、さばかれることによって、イエス様が私の目からちりを取り除いてくださると感謝する次第であります。

では、黙想いたします。

より頼む ~ I Will Be Still ~ (Official Lyric Video) - Ruah Worship

https://www.youtube.com/watch?v=yayg-1YVh5g&list=RDCMUCR5Yht1fKaRgKx5cXIJMH-Q&index=5

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。