大阪エリム・キリスト教会
木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)
10月21日
担当:若竹孝行
メッセージ:「断食と新しい皮袋」(15分間メッセージ)
今朝の聖書通読箇所:マルコ1章〜3章
2章を交読。(新改訳2017)
中心聖句:2:22
「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれるものです。」
おはようございます。そして、お帰りなさい。
この2章のところで、イエス様とパリサイ人との問答は興味深いものです。イエス様と弟子たちが、取税人たちや罪人たちと食卓についていると、パリサイ派の律法学者たちが、いっしょに食事をしていることを揶揄します。するとイエス様は●「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(17節)とおっしゃいました。
また、みんなが断食をしているところで、イエス様や弟子たちは断食をしていなかったことを非難された。その時にイエス様の応答は、●「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。しかし、彼らから花婿が取り去られる日がきます。その日には断食します。」(19-20節)
断食は、主に神との関係を深め、悲しみにあったときや、悔い改めが必要なときに行われるもので、イエス様も否定はしています。しかし、儀式化し、形ばかりの断食は、イエス様は非難しています。マタイの福音書6章16節~18節です。
●「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父にみえるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださます。」
断食は、断食をするほどに、神への願いを強くして、神のご計画を変更してもらうためではありません。断食をとおして、結果的にその人が変えられていき、神の御思いに沿う者と造り変えられていくのです。
神は形式的な断食を嫌います。それは偽善だからです。また、自発的な断食は、自分の好みとしての断食を行っているので、心に隙ができてしまい、真の悔い改めに導かれない危険性をはらんでいます。神の好む断食とは、イザヤ書58章に次のように記されています。
●5節「わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」
●6節7節「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。」
イエス様は、まさに、このイザヤ書58章の神に喜ばれる断食を実践されておられたのです。
取税人たちや罪人を招待して、食事を共にする、つまり喜びを共にしていたのです。ですから、自らを花婿にたとえ、食事に集められた人々を花婿に付き添う友人たちとして、救い主であるイエス・キリストとともにいるという祝福の時をもったのであり、その時には断食は必要ありません。なぜなら、神の御子イエス・キリストとともにいる時間は、何をもにも代えがたい至極の時間であり、断食に勝る時間だからです。
断食は、神との深い交わりを求めるものでありますが、イエス様とともにいる時間は、主との直接の交わりであり、断食よりもはるかに祝福の時であります。その意味で、新しい契約である、主との直接交わることのできる新しい時代の到来をイエス様は、布切れと衣、そしてぶどう酒と皮袋にたとえられました。
●21節「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。」
当時着物はとても貴重でした。衣に継ぎ当てをするのは当たり前。つい5・60年前でも、私が小さいころ、継ぎ当てだらけのズボンをはいていたり、靴下の穴を繕ったりしたのは当然でありました。イエス様は、継ぎ当てがどうのこうのではなく、また、古い着物がだめだとはおっしゃっておられません。新しい布切れと古い服は合わないということです。主であるイエス様との親しい交わり、イエス様がお送りくださっている聖霊様との親しき交わりが、今可能となっているのに、断食をして神との深い交わりや悔い改めに導いていただく時ではないとおっしゃっておられるのです。そう、イエス・キリストを主と証しする私たちは、すでに、天の御国で経験できる、平安と喜びを、イエス様によって前倒しで経験できているのです。
また、ぶどう酒と皮袋のたとえもそうです。
●22節「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。」そんなことをすればどちらもダメになってしまうとおっしゃいます。ここでも、古いぶどう酒がダメで新しいぶどう酒がいいとはおっしゃっておられません。保存状態がよければ、古いぶどう酒の方がまろやかで高価なのかもしれません。イエス様はここでは、旧約の律法による救いと、新約のイエス・キリストの十字架による罪の贖いとよみがえりによる永遠のいのちが受けられる福音とは異なるということをおっしゃっておられるのです。律法を否定しているのではなく、律法を成就させ、民を天の御国へと招待する花婿として、新しい福音としての、新しいぶどう酒を新たな気持ちをもって受け入れなさいとおっしゃっておられるのです。
新約時代に生きる私たちにとって、断食ではなく、イエス・キリストを通して、パンであるみ言葉を食べ、ぶどう酒であるイエス・キリストの血を飲む、罪赦されたものとして祝福を受けることが大切なのです。私たちは恵まれています。断食をしなくても、イエス様を信じさえすれば、送られてくる聖霊様によって、神さまとの親しい交わりが可能となったのです。イエス様は、私たちを、律法の奴隷ではなく、その律法から解き放たれ、自由人として、主を想い存分喜ぶことのできる、イエス様の友とされたのです。ですから、イエス様は友である私たちを、ご自分の命をかけて、愛してくださったのです。この尊い愛にこたえるには、主との限りなく親しい交わりをもつ、主の御前において、悔いた心と賛美をささげる、それだけでいいのです。それをイエス様は望んでおられます。一生懸命尽くすことも大切かもしれませんが、イエス様は私たちに安息を与えるためにいらっしゃったということを忘れないでいてほしいのです。断食という努力よりも、主にすべてをお任せしゆだね、主を喜び賛美する。主にあって、いつも喜び、常に祈り、すべてのことに感謝する、そのことをイエス様は望んでおられるのです。新しいぶどう酒をいただいて、主の御名をほめたたえようではありませんか。
最後にマタイの福音書26章26節~28節までお読みし、黙想の時間とさせていただきます。
●「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。』」
アーメン。
黙想しましょう。
「キリストには代えられません」アカペラカバー by ルア・ワーシップ | "I'd Rather Have Jesus" Japanese Cover
https://www.youtube.com/watch?v=MDR0io7xfrc&list=RDCMUCR5Yht1fKaRgKx5cXIJMH-Q&index=10
お祈りいたします。
●主のいのり
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。