メッセージ:「泣かなくてもよい」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

10月28日

担当:若竹孝行

メッセージ:「泣かなくてもよい」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ルカの福音書7章〜9章

7章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:7:13

「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

イエス様は、時折、憐みを感じて、死者をよみがえらせます。ルカ書8章では、ヤイロの12歳ぐらいの娘を生き返らせます。●「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」と人々に言い、●「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」と少女の死を泣き悲しんでいる人々に伝えます。そして、少女の手を取って叫ばれました。●「子よ、起きなさい」。

また、マルタとマリヤの弟ラザロも生き返らせました。ヨハネ書11章にあります。死にかけていたラザロの様子を聞いて、イエス様は次のようにおっしゃいました。●「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」そして、ラザロが死んだことを直感したイエス様は、●「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 マルタとマリヤのところについたイエス様は、悲しみにくれている彼女たちをはげまします。●「あなたの兄弟はよみがえります。」そして、マルタの信仰を確かめます。●「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 死んでもう四日もたって臭くなっていると言うマルタに、●「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」と告げ、石で蓋をされているラザロの墓の石を取り除けさせ、言われます。●「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」そして、イエス様は大声で叫ばれました。●「ラザロよ、出てきなさい。」

イエス様が死者をよみがえらせたという最初の記述が、今朝のルカ書7章のある『やもめの母親の一人息子の死』でありました。イエス様は天涯孤独となった母親を見て深くあわれまれ、●「泣かなくてもよい」とおっしゃいました。そして、近寄って棺に触れ、●「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

イエス様は、数多くの病人を癒し、またこの3人の若者のように、死からよみがえらせました。死からよみがえらせたのは、恐らく3人だけではなかったでしょう。もちろん、十字架の上で、私たちの罪を贖うために死なれたご自身も、三日目によみがえられ、天に上げられ、父なる神の右に座し、永遠のいのちを与える方とされました。

しかし、イエス様がいくら病をいやされても、死者をよみがえらせても、結局、全員この世での肉体の死を迎えます。誰一人、例外はございません。ヤイロの12歳の娘も、その後いくつまで生かされたのでしょうか、またラザロも余命はいつまでだったのでしょうか、それにあの一人息子は、老婆となった母親を看取ることはできたのでしょうか。聖書は、「彼らのその後」は語っておりません。なぜなら、そのことは重要ではないからです。重要なのは、主の栄光が現わされることだからです。癒され、生き返らされたことで、その目的は達成しているからです。

しかし、それでは、『主の栄光の現れという大義の前では、個人のこの世での営みはあまり重要ではない』と言われてしまえば、ちょっとみじめな感じではないでしょうか。私は、私たちは今生きています、いえ、生かされています。そして、いつかはこの世から消え去ります。若竹孝行という人物は、しばらくの間は覚えてもらっているかもしれません。また、私が歴史的に重要な人物であるなら、教科書に名前は載って、名前だけは存続するかもしれません。しかし、若竹孝行とう私個人を知る人たちが死んでしまえば、私もその人達の記憶から消えていきます。しかし、お一人だけ、私を覚えていてくださる方がいらっしゃいます。それは、イエス様です。イエス様は私たち以上に私たちのことをご存じで、イエス様の中に私たちは生き続けます。イエス様が永遠である以上、私たちも永遠となるのです。この世では私は若竹孝行という名前がついています。イエス様は私をどのように呼ばれるでしょうか。「若さん」「ワカチコ」「ジャッチク」イエス様は、どこかユーモアのセンスがあってニックネームも使徒たちにもつけましたから、私がどのように呼ばれるのかとても楽しみにしています。

イエス様は、一人息子に先立たれたやもめの母親に、『泣かなくてもよい』とおっしゃって、母親を憐れみました。「泣かなくてもよい」『なぜなら、あなたの息子は息をふき返すから。』、

「泣かなくてもよい」『なぜなら、あなたはその息子と平安に暮らせるから。』、「泣かなくてもよい」『なぜなら、あなたはその息子に安らかに看取られるから。』、「泣かなくてもよい」『なぜなら、あなたもあなたの息子もわたしが覚えているから。』、「泣かなくてもよい」『なぜなら、二人ともにわたしの中で、わたしとともに生き続けるから。』

たしかに、私たちは、この世での病気や怪我の癒し、悲しみの慰め、苦しみからの救いを、主に願います。それは当然といえば当然のことです。しかし、この世でのいのちは長くても100年ちょっと。まして、この世で与えられているはずの命を全うできずに、事件や事故、自然災害によって、あっという間に、命の火が消されてしまうこともあります。しかし、本当にそれらの方々の命の火は消されたのでしょうか。イエス様は、あのやもめの母親の悲しみを見て深く憐れまれました。まして、天のお父様も同じであります。私は、イエス様の憐みは、私たちの創造をはるかに越えた、深く、広く、大きいものだと考えています。何らかの理由で、アッという間にこの世から消えてしまわれた方々、また大往生のすえ、この世での命を全うされた方、それぞれにおいて憐れまれます。しかし、イエス様は残された私たちに「泣かなくてもよい」とおっしゃるのです。『なぜなら、あとの事はわたしに任せなさい』とおっしゃられるからです。

私たちがすることは、個人を惜しみ、悲しみにくれて、泣き続けることではありません。イエス様は泣き崩れているマルタにおっしゃいました。●「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

『生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがない』とおっしゃるイエス様ですが、その真意は、「この世に生あるうちに、わたしを信じる者になりなさい。そうすれば、永遠のいのちがあたえられます。」だから、「泣くのをやめて、いま生きている人々に、わたしの福音を伝えなさい」と励まされるのです。

どうか、イエス様の福音を、喜びをもって、お伝えし、ともに福音にあずかるものとさせていただきましょう。「泣かなくてもよい」「あなたの愛する人は、わたしとともにいるのだから、あとの事はわたしにまかせて、あなたは顔を上げ、今を、精一杯生き、わたしを伝えなさい。ともに私から永遠のいのちを授かるものとなりなさい。」

黙想しましょう。

強くあれ 雄々しくあれ - 吉井裕美香 | Cover by Ruah Worship | ルア・ワーシップ

https://www.youtube.com/watch?v=s-E72pSv_VQ&list=RDCMUCR5Yht1fKaRgKx5cXIJMH-Q&index=22

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。