大阪エリム・キリスト教会
木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)
11月4日
担当:若竹孝行
メッセージ:「神の賜物と生ける水」(15分間メッセージ)
今朝の聖書通読箇所:ヨハネの福音書4章〜6章
4章を交読。(新改訳2017)
中心聖句:4:10
「イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
おはようございます。そして、お帰りなさい。
イエス様は、サマリヤの女に、●「もしあなたが神の賜物を知っていたら」とおっしゃいます。今朝のタイトルの一部である「神の賜物」とは何でしょうか。今朝はこのことまずを導いていただこうと思っています。
イエス様の10節の言葉には、二つの「もしも」があります。「神の賜物」が何であるかと「イエス様」が誰であるか。この二つのことが並列的にならべられていて、「知っているか」と問われているのだと仮定しますと、この二つは同じだという推測もなりたちます。つまり、「神の賜物」は「イエス様」であるということです。「神の賜物」とは、「神が私たちに与えられた・または与えられるもの・人」のことです。ヨハネは、福音書3章16節で、次のようにイエス様のことばを記しています。●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これは聖書中の聖書であり、真理でもあります。神がイエス様をこの世に与え、イエス様が聖霊をお送りくださることになります。ヨハネの福音書14章には次のようにあります。
●26節「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
●27節「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」
また、イエス様が「神の賜物、神からのプレゼント」だとすると、その方が私たちに与えるのが「生ける水」は、ヘブル語では「湧き水」や「流水」のことだということですから、14節で説明される「泉」のことであります。●「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
「生ける水」のことをもう少し考えてみましょう。旧約聖書では、多くの箇所で、人が水を渇望するように、神を渇望するという表現がでてきます。例えば、詩篇42篇1節2節。●「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。」
また、イザヤ書55章1節にもあります。●「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」 しかし、この句はつっこみどころ満載ですね。「金を払わずに、穀物を買え、ぶどう酒と乳を買え」とは、どのようにして買うのでしょうか。まさか、万引きを奨励している訳でもないでしょう。穀物やぶどう酒や乳がただで手に入るとは、神の御業でしかありません。これは、神を渇望することの表現なのです。
「生ける水」とは「生ける神」のことであり、「いのちの泉」という表現にも使われます。詩篇36篇9節10節。●「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです。注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人たちに。」 私たちが見る光とは、永遠のいのちの希望でしょう。私たちが受ける神の恵みは神の義であり、罪赦され、義と見なされる、イエス・キリストの罪の贖いの恵みであるでしょう。
さて、もうお忘れになっていらっしゃるかもしれませんが、もう一つの仮定を考えてみましょう。それは、「神の賜物」が「イエス様」でないとしたらです。つまり、「神の賜物を知る」ということと「イエス様を知る」ということが直列的に並べられていたとしたら、「神の賜物が何であるかを知り」かつ「イエス様が誰であるかを知る」なら、という考え方をすれば、「神の賜物」とは何であるべきでしょうか。それは、真理の御霊であり、聖霊であり、助け主であり、平安ではないでしょうか。ヨハネの福音書14章には次のようにもあります。
●16節「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたとともにいるようにしてくださいます。」
●17節「この方は真理の御霊です。、、、この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」
父なる神がイエス・キリスト以外にもう一人、助け主を送られるとありますから、その意味でも聖霊が「神の賜物」とも考えられるでしょう。
そして、パウロは次のように主張します。1コリント12章3節。
●「神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」
このことを考えると「神の賜物」は聖霊であり、その聖霊によって、「イエス・キリストを救い主であり主である」と知り、告白することができるのです。
ここまで、「神の賜物」が「イエス様」か「聖霊様」かを見てきました。単純な私は実は、どちらも正解ではないかと考えています。重要なのは、その事ではなくて、私たちには、生ける水が与えられ、その水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがない、ということです。「神に飢え乾く」のは、神を遠くに感じるからです。神が共におられないと感じるからであります。しかし、私たちは、すでに聖霊様が私たちの心に宿されています。先ほどのヨハネの福音書14章17節に●「この方は真理の御霊です。、、、この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」とあり、また、パウロも次のように証します。●「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(1コリント6:19)
その上で、パウロは、●「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました」と告白しています。(2テモテ1:7)
では、どのようにして、私たちの心に宿る聖霊様を感じることができるのでしょうか。御霊を遠くになんじないで済むのでしょうか。
その秘訣は、私がいつも申し上げていることです。1テサロニケ5章16節~18節です。その前に19節を見ましょう。●「御霊を消してはいけません」これこそが、「神を遠くに行ってしまわれたように感じる」ということです。つまり、16節~18節までのことをすれば、神を遠くに感じることはないと述べているのです。
●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」神が共にいらっしゃることを、聖霊様が心に宿していることを感じる絶対必要条件なのです。
そう考えると「生ける水」とは、聖霊様のことでもありますが、私たちが具体的にイメージしやすい「生ける水」とは、「神との親しい交わり」であります。「いつもイエス様のことを思い、神様のことを思う」ことでもあります。
今朝の中心聖句10節は次のように言い換えることもできるでしょう。
「もしあなたが、聖霊様のことを知り、そして御子イエス様のことを知っていたなら、あなたは、イエス様を進んで信じ受け入れ、聖霊様に心に宿っていただき、山でもなくエルサレムでもなく、いつでもどこでも自由に主をあがめることができ、神との親しい交わりをもつことができるでしょう。」
どうか、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝しつつ、生ける水を飲み続けましょう。
黙想いたします。
Dwell [賛美] GRC18 テーマソング | Ruah Worship
https://www.youtube.com/watch?v=vKM0XIehFgk&list=RDMMyHraxLa3ZEg&index=7
お祈りいたします。
●主のいのり
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。