ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
礼拝シリーズ主題:『ヨハネの黙示録』
★小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と共に捧げます。
●11時開会:ただいまより、2021年11月21日主日礼拝式を始めます。
賛美①:キリストには かえられません(聖歌521)
https://www.youtube.com/watch?v=ojraEX3cvLc
賛美②:栄光イエスにあれ / 主は良いお方- MASH UP -LIMS
https://www.youtube.com/watch?v=h75j00LVVWE
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:イエスがいるから (Because He Lives) - A capella Cover by Ruah Worship
https://www.youtube.com/watch?v=yHraxLa3ZEg
賛美④:十字架のそばに
https://www.youtube.com/watch?v=d3OPHR3enb0
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
【YOUTUBE配信開始】
2021年11月21日 主日メッセージ
●聖書拝読:ヨハネの黙示録10章(新改訳聖書)
おはようございます。そして、お帰りなさい。
中心聖句:
「それで、私は御使いのところに行って、『その小さな巻き物を下さい。』と言った。すると、彼は言った。『それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』」(9)
メッセージ主題:『口には甘く、腹には苦い』
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
●メッセージ
良薬は口に苦し、と聞きますが、実際、薬は苦いものがおおいようで、それをいかに飲みやすくするかが、苦労するところでございますが、糖衣錠のように、周りを甘いもので固めて、小さいマーブルチョコレートのような錠剤も多く見うけられます。そのような糖衣錠も口あたりは良くて、胃の中でとけると苦~い薬が胃の粘膜にしみわたっていきますから、今朝の聖書の箇所に出てきます「口に甘く、腹に苦い巻き物」もそのようなものなのかと、昔は思っておりました。つまり、巻物を口にするということは、食べるということですから、巻物を読むということ、そして、食べた時点では甘いので嬉しくなる、しかし、胃の中に入って、その巻き物をきちんと理解しようとすると、とても重いといいますか、その巻き物に書かれてあることを行おうとすると、胃が痛くなるぐらい、至難の業であることが分かってくる、そのことを、「口には甘く、腹には苦い」という表現をしているのかと思っておりました。
しかし、何回かこの黙示録だけではなく、聖書全体を通り過ぎて行きますと、私の初めの考えが間違えであったことに気づかされました。詩篇119篇103節には、次のようにあります。
●「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」 神様の福音は、密のように甘い、つまり罪と罪悪感でがんじがらめにされている私たちに救いの手が差し伸べられ、心が平安と喜びで満たされる、そのことを詩篇は述べています。
エゼキエル書にも次のように記されています。2章8節~3章3節。
●「『人の子よ。わたしがあなたに語ることばを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。』そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。それは私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と嘆きと、悲しみがそれに書いてあった。その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。その巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で密のように甘かった。」
巻き物には、悲しみと嘆きがつづかれていたとエゼキエルが記録しているように、その巻き物は裁きの書でもあると思われます。しかし、神の僕である預言者エゼキエルには、食べると甘く感じられた、つまり救いの書でもあるのです。
そして、その神の言葉である巻き物は、本来はイスラエルの民に送られたものでありますが、イスラエルの民は心が頑なで、それを受け入れず、かえってイスラエル以外の民がその言葉を受け入れるという、御言葉である神ご自身に対する預言がなされています。3章5節~7節です。
●「わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。」このむずかしい外国語を話す民とは、この時代では、バビロンの民を指しているようですが、この預言はそれだけにはとどまらず、私たち日本人もむずかしい外国語を話す民の中に入っているのです。
使徒ヨハネもエゼキエルと同じような啓示を神から受け取っていると考えられます。エゼキエル書には、3章11節に次のようにあります。
●「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」神はエゼキエルに、「神の言葉を聞かれても聞かれなくても、語れ」と仰せになりました。これは、実に、むなしく辛いご命令であります。例えば、路傍伝道で、神様の事をお伝えし、神の言葉に耳を傾け、神を信じないものは滅ぼされることを、声を張り上げて訴えたとしても、誰も耳を貸そうともしない、また、その路傍伝道者を避けて通ったり、あげくのはてに笑いものにしたりするかもしれません。彼の心は悲しみと嘆きでいっぱいになることでしょう。そのことが、「腹には苦い巻き物」という表現として、黙示録では記されているのではないでしょうか。
また、箱舟を、神の命令どおり作ったノアのことを想像してみてください。ノアは500歳のときに、息子セム・ハム・ヤペテを授かり、そして、神はノアに箱舟を造り、それに入ることを命じられ、600歳のときに大洪水が起こります。つまり、この100年の間で、ノアは箱舟を造ったことになります。もちろん、箱舟を造るのに100年かかったということではありませんが、大きな箱舟ですから、相当な年月がかかったでしょう。しかし、聖書には、ノアの周りの民がノアを手伝ったとは書いてありません。まあ、手伝わなかったとも書いてありませんが、手伝ったのなら、その人たちは箱舟に入っていたでしょう。ノアが箱舟を造る際中、ノアの周りの人たちは、ノアとノアの家族を気が変になった笑い、のけものにしたに違いありません。ノアの理解されない悲しみや嘆きは、幾ばくのものかと想像できます。人は理解されないとき、疎外感を味わい、胃が痛くなるほどに悲しむのでしょう。
また、預言者エレミヤも同じような経験をしています。20章7節~9節。
●「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は、語るごとに、わめき、『暴虐だ。暴行だ。』とさけばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに、疲れて耐えられません。」
神のお考えを忠実に伝える預言者には、このような葛藤と苦しみがあります。なぜなら、神の言葉を伝える相手は、その神の言葉を聞こうとしないばかりか、預言者をあざ笑い、排除しようとするからです。この預言者の心の内からにじみ出る悲しみや苦しみは、結果として、神の言葉を聞かない者たちの、救いを得ない苦しみとなるのです。それを知っている預言者であるからこそ、苦しみ悲しむのです。
そして、その最たる方は、我らの主イエス様でした。十字架上で、イエス様の最初の言葉は、次の通りです。ルカによる福音書22章34節。
●「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエス様が十字架につけられた、その時におっしゃったお言葉です。十字架に太い釘で打ちつけられ、その痛みもありますが、それよりも、キリストを信じないで、キリストを十字架に貼り付けにした彼らには、救いがないことへの悲しみが込み上げてきたに違いありません。また、十字架につけられる前に、ゲッセマネでの祈りの時でも、主イエス様は悲しみに打ちひしがれていました。
●「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」
これは、その前の祈りで●「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(22:42)と祈られたように、イエス様の個人的な願いと父なる神様のご計画との葛藤とも取れますが、私は、それもありますが、イエス様の言葉に耳を傾けなかった人たちの救いの道が閉ざされたことへの悲しみでもあったと思うのです。
この黙示録10章に出てくる「小さな巻き物」には神のさばきが書かれてあり、さばきを信じ、救いを求める者には、この言葉は祝福であり、甘く喜びに感じるものでありますが、神のことば、神のさばきを信じない者には、のろいであります。そして、神を信じない者にも、そのさばきを伝えなければいけないので、伝える私たちの腹は苦くなるのです。そして、後にその苦しみは、さばきを受ける人たちの苦しみともなるのです。
まさに、パウロが聖霊様に導かれて、訴えていることを全く同じであります。
●「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)
さて、ここで天国長屋の八さんと熊さんに登場していただきましょう。
―――――
八: 今日の話を聞いてると、なんやなぁ、わてら、イエス・キリストを信じている人は、蜜のような甘い、救い、祝福が与えられるやて。
熊: そやないかいな。もう与えられてる。それは、天国の平安と喜びの前倒しの喜びやん。
八: けんど、イエス・キリストを信じひん人には、にがくて、苦しいさばきが待ってる。
熊: そりゃ、わかるで。けんど、なんでまた、わてらの腹はにがくなんねんな。
八: だって、そりゃそやで。いくら、イエス様の愛をお伝えしても、
のれんに腕押し、やったら、なにか空しくなってくるわなぁ。
それに、逆に迫害を受けたり、嘲わらわれたりすると、
もう胃がいとうなってくるんとちゃうか。
熊: そこやねん。そこがわてらの欠けているところとちゃうか。思ってんねん。
八: わからんなぁ、どういうこっちゃ。
熊: わてら、わてらの周りの人にも、神様の愛を知っていただこうとしてるやん。
イエス様を信じて、イエス様の救いを受けてもらおうとしてるやん。
八: そや、福音の種まきしてんねんで。喜んでやってるやん。祈ってもいるで。
熊: それ自体、悪うないねんで、けんどな、種まきした後は、神さまの、
聖霊様の働きやゆうて、どっか、聖霊様にバトンタッチしているとこ、あるやん。
八: そうゆわれてみれば、そうなや。けど、相手がイエス様を信じるか信じひんかは、
聖霊様のお働きでもあるし、お導きでもある。それは確かやで。
わてらの力で、相手に、イエス様を信じさせよ、なんて思たら、そりゃ、傲慢や。
熊: そんことも、よう分かってるつもりや。わてが、言いたいのはそこやないねん。
イエス様をお伝えしようとしている相手さんが、もしも信じひんかって、
さばきの苦しみを受けなあかんと思たら、もっと腹に苦みっていうか、
胃が痛うなっても、ええんとちゃうかいな。
わてら、ちょっと裁きを軽う扱い過ぎなんちゃうかと思ってんねん。
さっき、牧師はんがゆうてはったやろ。イエス様は、血のような涙を流されたって。
イエス様は罪人であるわてらが受けるはずのさばきを思んばかって、涙を流された。
八: ちゅうことはなにかい、わてらもイエス様のように、その人のために祈るとき、
その人の裁きでの痛みや苦しみを感じて、祈らなあかんちゅうことかい。
熊: そうなんちゃうかと、わては、今朝、思わされたんやがな。
八: イエス様を信じてるわてらには、神の御言葉は甘いけど、ドーンと胃の中に入って、
相手さんの救いのために祈るときには、そん人が受けるであろう苦しみや悲しみも
思うて、祈らなあかん、ちゅうて熊は思わされたんやな。
熊: そう、わてら、イエス様いのちやさかい、いつも喜んでる。
救われた喜びで感謝してるやん。イエス様お伝えする時も、笑顔や。
それは、それで、ええと思うねん。けんど、いったん、その相手はんのことを思うて
祈るときは、その裁きのことを思うて、腹がにごうなるぐらい、相手はんの救いを
願わないとあかんのとちゃううかいな、って思わされたんやがな。
相手が家族やったらなおさらのこっちゃ。
まだまだ、わての祈りは未熟や、と反省させられたわ。
八: せやなぁ、熊の言うとおりかもしれんな。今朝は、このことが一番の収穫や。
熊: ●「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」
八: それって、詩篇126篇にあるやっちゃな。
熊: これが信仰や。種まきと刈り取りは、わてらの仕事や。
なにも種まきと刈り取りが同じ人でなくてもええねん。
けんど、種を成長させてくださるのは神様であり聖霊様や。
福音の種まきは苦労することも多いから、「涙」っていうのも分かるけど、
それだけやない、相手の永遠の死をおもんばかっての「涙」でもあるんやろなぁ。
八: もっともっと、相手はんの救いのために祈り込まなあかんなぁ。
イエス様が涙を流して祈られたように。牧師はん、今日はこのぐらいで、、、。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。そうですね。私たちは、隠れた所で、誰かの救いのために涙を流すぐらい祈り、誰かが受けるであろう苦しみや悲しみを思って、腹が苦くなり、胃が痛くなるぐらいまで祈り込む大切さに気付かされました。心から感謝いたします。
では、黙想に入りたいと思います。
●黙想:詩篇19篇をお読みいたします。
黙想の前にイエス様のお言葉をご紹介いたします。ヨハネの福音書15:7です。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
では、黙想いたしましょう。詩篇19篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑤:大いなる方に感謝捧げます
https://www.youtube.com/watch?v=pldONsvOOwk
●献金の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と共に捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●アーメン四章:新聖歌59.7
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡