メッセージ:「すでに屠られた主の恵み」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

11月25日

担当:若竹孝行

メッセージ:「すでに屠られた主の恵み」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:1コリント4章〜6章

5章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:6-7

「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから、私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

大阪エリムキリスト教会は、クリスマスの飾りつけが素晴らしいですね。私は、クリスマスの色が好きです。赤はイエス様の血の色ですが、救いの恵み、緑は常緑樹の色で永遠のいのち、白は、誠実や平和、そして、金は、主の栄光を表しています。新年を迎えるにあたって、その前に主が私たちの心を新たにしていただける、また、私たちの思いや意志を強くしていただける、本当に感謝な季節であります。

さて、今朝の中心聖句では、パウロは、「過越の子羊」とキリスト・イエスを形容しました。これを読んだり聞いたりした人は、モーセの民がエジプトを出てゆく前夜、旅支度をしつつ、傷のない一歳の雄羊をほふり、血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗り、その肉を火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えてたべ、朝まで、自分の家の戸口から一歩もでず、息をひそめて、主がエジプトを打つために行き巡り、災いが過越されるのを待っている、そのような状況を思い出したに違いありません。このことの詳細は出エジプト記12章に記されています。

パン種とは、イースト菌でありますが、イースト菌を混ぜてこねたパンは、膨らんで、焼くと少し酸味があり美味しいのでありますが、聖書では、パン種は、パンの実体よりも膨らむことで、傲慢の種やプライドとして、比喩的に使われ、パン種は腐敗であり罪のシンボルでもあります。ですから、種なしパンは、その逆で、罪のない生活の喜びや健全さを象徴しているといってよいでしょう。

パウロは、「私たちはすでに種なしパンである」とされます。罪のない生活のできる身体であると言われます。しかし、その言葉の前には、「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。」とあります。「すでに種なしのパンであるにもかかわらず、新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。」とは、どういうことでしょうか。

このようには考えられないでしょうか。私たちは、イエス・キリストの恵みの中で生かされています。つまり、イエス様が十字架の上で、罪なき血を流し、聖なる命をささげ、全人類の罪を帳消しにするおぜん立てを、父なる神のみ旨によって完成されました。つまり、過越しの子羊キリストはすでに屠られたのです。すでに救いの準備は完成しています。あとは、私たちひとりひとりが、イエス様のこの恵みを信じるか信じないかなのです。信じれば、イエス様は、イエス様の平安であり助け主である聖霊様を私たちにお送りくださり、聖霊様は私たちの心に住まわれ、私たちを聖霊の宮とされます。私たちは、この時点で新しく生まれ変わったのです。しかし、肉なる古い自分は生きています。この私たちの肉体が完全に新しくなることは、この世ではありえません。私たちの肉体が完全に新しくなるということは、私たちがこの世での死を経験し、新しいからだを主からいただき、生まれ変わるときです。その時は、今すぐかもしれませんし、明日かも、来週かも、来年かも、しれません。その時は天の父以外だれにも分かりません。聖霊様が宿ってくださって、聖霊の宮ではありますが、まだまだ古い自分は生きていて、私たちが主にあって完全に新しくなることを妨げています。

ただ、考え違いをしてはいけないのは、身体や精神を鍛えるための難行苦行は、私たちが主にあって完全に新しくされるのとは無関係だということです。教会に限っていえば、いくら教会活動に熱心であっても、いくらたくさん献金しても、いくら聖書をたくさんよんでも、祈り心をもって、主と対話しながらせずに、見栄やプライドでするのであれば、また、ただ単に楽しいからするというのであれば、あなたの身体は、ほぼ新しくされてはいません。私たちが、自分の身体を自ら新しくすることはできません。私たちの心に宿る聖霊様がそれを行なってくださいます。なぜなら、6章19節にあるように、●「わたしたちの身体は、神から受けた聖霊の宮であり、もはや自分のものではない」からであります。20節では、私たちは、●「イエス様に代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」とパウロは主張します。私たちが自分自身を新しくするのではなく、主が新しくしてくださるのです、、、もし私たちが強く願うなら。主にこのことを求めない限り、「私のパン種を取り除いてください」と祈り願わない限り、主は取り除かれません。それは、信仰告白の時と全く同じであります。神は、私たちの意志を尊重します。もちろん、私たちの意志はとても弱い、しかし、私たちが主にそのことを願い、主の力を信用するなら、主により頼むなら、主が私たちを強くしてくださるのです。より頼めばより頼むほど、主が介在してくださり、私たちは強くなれるのです。パウロは、そのことを「弱い時にこそ強い」という言葉で表現しました。

さて、では、「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」とは、どう言うことでしょうか。それは、イエス様にお願いして、古い自分、自分の嫌なところを少しでも、とりのぞいていただく、それが、神様のお喜びになることであり、神様の栄光を現すことにもなるのではないでしょうか。もちろん、それだけではありません。イエス様がすでに私たちのために屠られてくださったこと、この救いの恵みを喜ぶことも、神様のお喜びになることであります。

主はすでに私たちのために屠られてくださっていて、救いを完成させておられます。このことに感謝をささげ、古い自分であるパン種を聖霊様によって取り除いていただきましょう。

神に不可能はございません。弱い私たちが強く望み、力ある主の御業を期待するのなら、主は喜んでそのパン種を取り除いてくださいます。

皆さんのパン種は何でしょう。そのパン種、主にゆだねてみませんか。そのために主は屠られなさったのですから。

初めにも申しましたが、来週からは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスの月12月です。屠られるためにお生まれくださったイエス様に、自分のパン種を告白し、主に取り除いていただきましょう。意志の弱い私たちを、強くしていただき、クリスマスを迎えようではありませんか。

黙想いたします。

あなたがすべて Jesus You are my All in all

https://www.youtube.com/watch?v=f4AdnEmMQjQ&list=RDMMyHraxLa3ZEg&index=41

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。