メッセージ:「責められるところのないもの」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

12月9日

担当:若竹孝行

メッセージ:「責められるところのないもの」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:1テサロニケ1章〜5章

5章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:23

「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。メリークリスマス!主の御降誕をお祝いの準備をするアドベント第2週の木曜日であります。しかし、今朝は主の再臨を待ち望みつつ、そのための準備としての心構えが記されているところを学ばせていただきます。

中心聖句にもありますように、イエス・キリストが再臨される時、私たちは「完全に聖なるもの」「責められるところのないもの」となっていなければならないと、パウロは、このテサロニケの手紙を締めくくっています。「完全に聖なるもの」「責められるところのないもの」とは、いったいどういう人のことを言うのでしょうか。単刀直入に申し上げれば、誰もそのような方はいらっしゃいません。私たちは、全員、罪の性質をもったまま生きています。私などは、たたけばほこりの出るからだで、煙たいったらありゃしません。もちろん、クリスチャンには、助け主である聖霊様が私たちの心の内にお住まいくださり、主の教えを思い起こさせてくださり、私たちを罪の犯しにくい性質へと変えていってくださっています。しかし、私たちが生きている限り、この肉体には、罪の性質、神様に背を向けようとする性質が残ってしまっています。「完全に聖なるもの」「責められるところのないもの」とは、私たちの主イエス様を除いては、だれもいません。

では、私たちは、何をしても、無駄なのでしょうか。いえ、そうではありません。憐れみ深い主は、こんな罪まみれの私たちでも引き上げてくださいます。それが、イエス様がこの世にお生まれになられた理由であり、イエス様の最大のタイトル「救い主」なのですから。しかし、何もしないでただじっと待つという、なまけものであってはいけません。イエス様のタラントのたとえを思い出してください。1タラントを主人から預かったしもべは、他の賢いしもべと違って、あずかったお金を土の中に隠しておき、そのお金をつかって何かをしようともしませんでした。彼は怠け者だったのです。そして、その役に立たないしもべは外の暗闇に追い出されます。私たちの主は、結果を求めているのではなく、私たちが、私たちの分としていかに努力しているかを見られるのです。

では、私たちの果たすべき分とは何でしょう。それは、どんな時でも主をあがめ、御言葉を喜びをもって受け入れることです。パウロは1テサロニケ1章6節で、次のように唱えます。

●「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者となりました。」「主に倣うもの」つまり、イエス・キリストのように、どんな時でも父なる神をほめたたえ、神のみ旨を探り行おうとする人のことです。しかし、このことは一朝一夕にできることではありません。忍耐が必要です。また上からの知恵が必要です。が、しかし、先ほども申しましたが、「主に倣うもの」にどれだけ到達できたかではなく、その過程において絶え間ない努力を主は顧みられるのです。たりない分は、イエス様が補ってくださって、必ず引き上げてくださいます。

では、私たちの分として、「キリストに倣う」ものとなる努力として、何をすればよいのでしょうか。それは、わたしの生涯の聖句でもありますが、1テサロニケ5章16節~18節までです。

●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

喜び・祈り・感謝、これは3つの事のように思えますが、実は、これらの3つの事は、一つの行為で実現するのです。それは、「神に感謝する」ということです。

「神に感謝をささげる」とは、「感謝をささげつつ、実は神様に話しかける」ということでもあります。そして、「神様に話しかける」とは、それは「祈り」に通じるのです。「祈り」は、何も祈りの姿勢をしなければ祈れないというものではありません。祈りは神様との飾らない会話そのものであります。自分を神様の御前にさらけだす行為でもあります。そして、「悔いた心で真実に神様と話す」行為には、主が聞かれたという喜びが与えられます。つまり、「すべての事において神様に感謝する」ことによって、この聖句は成就するのです。そして、神様への感謝は、19節の●「御霊を消してはいけません」も成就します。「御霊を消す」とは「神様を遠くに感じる」ことであり、神さまに感謝することによって、神様と会話し、神様をいつも近くに感じることができるのです。

「どんな事でも、神様に感謝をささげる。」この行為は、クリスチャンにとって最も神様に喜ばれる行為なのではないかと思うのであります。事実、パウロはエペソ人への手紙5章で次のように展開しています。主イエス様との個人的な交わりに関してであります。

●1節「ですから、愛されているこどもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」

●10節「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」

●17節「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」

●19節「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」

●20節「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」

このように、「主の御名において、神様に感謝をささげる」ことが、「キリストに倣う」ものとなる一つの手段であり、「完全に聖なるもの」「責められるところのないもの」となることに対する、私たちの分、私たちの役割、なのです。どうかそのことを忘れずにいてほしいのです。感謝をするということは、主に栄光をお返しするということにもつながります。すべてのことについて、感謝し、主を褒めたたえましょう。

黙想いたします。

より頼む ~ I Will Be Still ~ (Official Lyric Video) - Ruah Worship

https://www.youtube.com/watch?v=yayg-1YVh5g&list=RDCMUCR5Yht1fKaRgKx5cXIJMH-Q&index=3

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。