メッセージ:「目を覚ましていなさい」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

12月30日

担当:若竹孝行

メッセージ:「目を覚ましていなさい」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ヨハネの黙示録16章~18章

16章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:15

「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。今年最後の木曜日に、このメッセージを取りつげることを感謝いたします。

黙示録16章には、7つの災難が記されています。7つの災難とは次の通りです。

獣の刻印を受けている者たちと獣の像を拝む者たちに、ひどい悪性の腫物。(2)

海の生物の死滅。(3)

水が血となる。(4)

太陽の火で人々が焼かれる。(8)

闇に覆われ、人々は舌を噛む。(10)

大河ユーフラテス川を涸らし、自然の防壁が壊れた。(12)

未曾有の大地震。(18)

悪性の腫物や、水が血となったり、また、カエルが登場したりするのは、出エジプト記の神がエジプトに与えられた災いを思い起こすかもしれません。また、海の生物の死滅では、黙示録8章で起こった災いが海の生物の3分の1が死んだのですが、今回は、すべて死んだことになり、最後の審判が下ってきていることを物語っています。

さて、今朝の中心聖句である、神の御言葉は第6の災いと最後の災いの間にあります。最後の最後に、神の警告ともとれるお言葉です。キリストは突然再臨します。1テサロニケ5章2節では、次のように主の日のことを描写しています。●「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」たしかに私たちは、キリストの再臨は突然やってくることを知っていますが、本当にそのことを切実に思っているでしょうか。3節では、●「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき」とあるように、私たちは主の再臨を待ち望んでいると言いつつも、日々の生活において、時には霊的に眠ってしまっていることはないでしょうか。中心聖句では、●「裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである。」とありますが、1テサロニケでは、●「ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」とあります。「衣を着ている」という表現と「身を慎む」という表現は似ているものなのかもしれません。しかし、私は、「衣を着ている」という表現は、神のすべての武具を身につけるということではないのかと思うのであります。

エペソ人への手紙では、パウロはそのことを次のように表現しています。6章13節から17節。●「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」

なにか、これだと分かりにくいですから、武具を身につける場所を省きますと、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、御霊、神のことば、であります。そして、これらを総合すると、18節になります。●「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」とあります。「目を覚ましている」状態は、「どんなときにも御霊によって祈っている」状態なのです。

そこで、イエス様の言葉や譬えを思い出します。マタイの福音書15章1節~13節にある「十人のむすめ」の譬え、賢い5人の乙女は油を切らさずに花婿であるキリストを待ち、愚かな5人の乙女は油がなくなってしまい、キリストに会うチャンスを逃してしまいます。また、マルコの福音書13章33節~37節では「主人の帰りを待つ門番」の譬えがあります。主人が帰ってくるときに、眠っているのを見られないように、常に目を覚ましておくことが大切です、とあります。そして、ゲッセマネの祈りのところで、イエス様は疲れて寝入ってしまった弟子たちに、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(マタイ26章41節)とおっしゃいました。イエス様はただ単に、肉体的に疲れていることをおっしゃっておられるのではなく、霊的に燃えていても、心に隙間があって、誘惑に陥り、肉的な判断や感情によって、霊的な思考が妨げられることを注意喚起されておられるのです。イエス様は、継続的な祈り、つまり絶え間ない神様との交わりがどれだけ大切かを示しておられるのです。

私は、昨夜、私が留学時代に知り合った、牧師家庭で育ったアメリカ人の友人と、35年ぶりに、リモートで話をしました。今まで、FBでつながっていたのですが、彼から話がしたいと持ちかけられたのです。日本時間の午後10時半、シカゴ時間の午前7時半であります。彼は、次のように告白されました。彼は今まで自分は自他ともに認める敬虔なクリスチャンであると思っていました。しかし、彼は、あるプログラムを通して、自分の日常において、主である神を中心においていない、聖書の御言葉や物語が、自らの日常と結びついていない、日常的に神との会話を行っていないことに気づかされたと言うのです。64歳にして、やっと、聖霊の導きによって目が開かれたと喜んでいました。彼の通っている教会は1500人の礼拝者がいらっしゃるようですが、そのほとんどの方が、彼と同じように、眠ったクリスチャンで、200を超えるスモールグループがあっても、その眠っていることに気づかされることなく、日曜日の礼拝を守っていると状況を話してくれました。

毎週の礼拝を欠かさず参加していても、礼拝をささげていない、眠っているクリスチャンは多いのかもしれません。どうか、明後日から新年であります。気持ちを新たにし、聖霊様に導かれるように、私たちに、悔いるところがないかチェックしていただき、目を覚まして祈りましょう。主とつねに会話し、主の御名を賛美いたしましょう。新しくされて、新年を迎えることができますよう、主が心の中心にとどまってくださるよう、祈りましょう。「目をさます」とは、主が心の中心にとどまっていてくださることなのですから。

黙想いたします。

静まって知れ Still

https://www.youtube.com/watch?v=CvK3FElLCUA&list=RD2dLwYXHvwZU&index=2

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。