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メッセージ主題:『聖所にはいるとき』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.1.2元旦礼拝式

★小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と感謝と共に捧げます。

●午前11時開会:ただいまより、2022年1月2日元旦礼拝式を始めます。

賛美①:「おどろくばかりの」

https://www.youtube.com/watch?v=TtLUGWwpuPM

賛美②:主はわれらの太陽

https://www.youtube.com/watch?v=ZWktcXSPVCY

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:「主を仰ぎ見て by ピアノコウジ カバー(ルア・ワーシップ)」(1月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=Viar5edeGzU&list=RDMM&start_radio=1&rv=chtzpOVUDWs

賛美④:「求めよ(マタイ7:7) 友里」

https://www.youtube.com/watch?v=uRno7YYDjas

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

【YOUTUBE配信開始】

2022年1月2日 新年主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節

●「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

今朝は、元旦礼拝をリアルで行いましたので、2日の主日礼拝をYOUTUBEでの録画で見ていただくことにしました。

●聖書拝読:ヨハネの黙示録15章(新改訳聖書)

中心聖句:

「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。」(8)

メッセージ主題:『聖所にはいるとき』

改めまして、あけましておめでとうございます。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

この15章では、七人の御使いが、最後の七つの災害を携えてきていることを記し、16章でその災害が描かれています。15章を読んでいて、少なからずショックなことがあります。それは、今日の中心聖句8節にでてきます、●「七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。」という表現です。これは、最後の審判が行なわれない限り、私たちは、聖所に入ることが許されないということです。つまり、天の御国で永遠のいのちを得る時とは、最後の審判が行なわれた時なのです。そしてその時は、つまり、2節にあります●「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、、、」3節●「神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌」うとあります。勝利の歌であります。モーセの歌は、イスラエルがエジプトから解放されたことを祝っていた時の歌です。出エジプト記15章にあります。そして、小羊の歌は、神の民がサタンの力から究極的に開放されたことを祝っています。つまり、最後の審判は、究極かつ永遠の解放という希望が実現する救いの時であります。そして、その時、5節で●「天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた」のであります。

最後の審判の時とは、イエス様の再臨のときです。イエス様が十字架にかかり、命をもって、私たちの罪を贖われたとき、聖所の分厚い垂れ幕裂けました。マタイ27章50-51節。

●「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」 神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が裂けたということは、大祭司が年に一度だけしか入ることを許されなかった至聖所へ、キリストの贖いを信じる者が大胆に近づけるようになったのです。至聖所は聖なる神の臨在の場所です。その場所に入ることが許されたのです。ヘブル書の著者も次のように述べています。

●「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ヘブル書のいう「新しい生ける道」とは、イエス・キリストご自身です。イエス様も次のように告白されている通りです。ヨハネの福音書14章6節。●「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

このように、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕は裂け、私たちはキリストを通して、大胆に神に近づくことができる前提が築かれました。私たちは、今や、イエス様を通して、天の喜びと平安を味わうことを許されたのです。しかし、本当の意味で、天の御国に行けるのは、イエス様の再臨があり、最後の審判がおわってからだと、ヨハネの黙示録では述べているのです。そして、イエス様ご自身もそのことを明言しておられます。ヨハネの福音書14章2節-3節。●「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

私たちが、天の御国にはいり、永遠のいのちを享受できるのは、イエス・キリストの再臨があって、それと同時に最後の審判が下るときなのです。なにが、少なからずショックかと申しますと、私たちはいつまで待たないといけないのかということです。これは全く私の利己的な考えです。その利己的な考えをもっている自分にショックをうけるのです。もうすでに2000年近く、クリスチャンは、主の再臨を待ち続けています。また、その一方で、多くの人がキリストを信じ、増え続けています。ある人は、キリストの再臨は遅れていると言い、また、ある人は、キリストは、救われるべき人がもっと起こされるのを待ってくださっているのだと言う。また、全く利己的に考えれば、早くイエス様にお会いして、天の御国で、平安と喜びにつつまれて、主を賛美しつづけたいという思いがある一方で、救われていない周りの人々に、イエス様の愛と福音をお伝えし、共に福音にあずかる者とさせていただきたいという思いもある。クリスチャンはこの狭間で揺れているのかもしれません。

イエス様の再臨を待ち望みつつ、イエス様の福音をお伝えしつづける。容易なことではないでしょう。しかし、私たちにはイエス様からの使命があります。大宣教命令ともよばれているところです。マタイの福音書28章18節~21節。

●「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(弟子とはただ単に「信じる者ではなく、みことばを実践していく者」のことです)。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

イエス様の再臨は、明日かもしれませんし、今日かも、今かもしれません。いつイエス様が来られてもいいように、私たちは、日常生活自体を、主が喜ばれるいけにえとしてささげつつ、私たちの周りの方々にイエス様をご紹介いたしましょう。イエス様を信じていただきたい気持ちがあるのは当然ですが、私たちは福音の種をまくだけでいいのです。その方が信じるか信じないかは、聖霊様の働きによるものであり、私たちの努力の範疇を超えるものなのです。どうか、その事を主に委ね、福音を伝える喜びを、共に味わうものとさせていただきましょう。

さて、今日は、天国長屋の八さん、熊さんは、昨日の元旦礼拝の疲れか、昨日の夜の準備時間にはいらっしゃいませんでしたので、今朝はお休みかと思っていたのですが、礼拝をささげにいらしてますね。八さん、熊さん、準備できていますか。(間)そうですか、ではよろしくお願いいたします。

―――――

八: いやぁ、昨日はすんませんでしたなぁ。若さん、朝の四時まで頑張っておられたんやて。わてら、もうねてましてん。昨日は、泡ぶろにはいって、ええこんころもちで、ぐっすりですわ。

熊: おはようさんです。八さん、あの泡ぶろ、よかったなぁ。お昼も、夜も、おせち三昧で、おいしかった。感謝やで。

八: あかんあかん、礼拝中やから、神さまのメッセージに応えんとな。

熊: せやなぁ。イエス様がもう一度おいでくださって、わてらを引き上げてくださる。こんなうれしいことはない。もう、今でもええぐらいや。けんど、心残りがあるねん。

八: なんやねん、その心残りって。あ!おせちの黒豆、もう少し食べたかったなぁ、って思てんのかいな。

熊: あほゆうたらあかんわ。黒豆はぎょうさんいただいた。けど、またお雑煮いただいてない。わては、すましの雑煮が好きやから。って、ちゃうって。

八: なんや、たべもんのこととちゃうんかいな。で、心残りってなんやねん。

熊: わてら、天国長屋にすんでるやろ。お梅ちゃんは、クリスチャンやけど、その隣に住んでる定吉はイエス様、まだ信じてない。この前、クリスマスのパーティには来てくれたけどな。

八: そやなぁ。あいつんところ、おかあはんが、熱心な仏教徒やろ。毎日、仏壇に手、合わしてるし。

熊: でも、あのおかあはん、神社にもお参りにいきはるし。仏壇の上に、神棚もあるしな。「神さん」ゆうもんに、頼りたいんやな。

八: せやったら、キリスト教の神さまは、世界をお造りになった方やから、数ある神さまの中でもいっちゃん、トップなんやけどなぁ。

熊: なんでも、青い目をした、気持ちが悪いらしい。西洋の神さまはな。おかあはん、チーズきらいやろ、納豆たべるくせに。

八: まあ、食べず嫌いやと思うで。それに、神さまが青い目をしてるなんて、わからんやん。ユダヤ人は、わてらと一緒で、目はこげ茶色や。イエス様かて、こげ茶色やったはずや。

熊: まあ、とにかくや。あの定吉親子には、イエス様のこと、知ってもらいたいし、信じてもらいたい。だから、「イエス様、わてははよう、イエス様にお会いしたいけど、もうちょっとだけ、まってくれますか。あの定吉親子がイエス様のこと信じるゆうてくれはるまで」と祈ってんねんや。

八: そうやな。わても、おんなじや。ほれ、わてのひとつどなりにすんでる、こなきじじいと砂かけばあさん。

熊: こなきじじと砂かけばあさん? それって、ひょっとして、義三じいさんと、お勝ばあさんのことかいな。

八: わては、ひそかにそう呼んでんねん。あのふたり、かわいらしいところがあるけど、ちょいとやっかい。

熊: あのふたりは、なんも信じてないやろ。知らんけど。

八: たぶんな。でも、あの二人にも、イエス様に出おうてほしいと思てんねん。

熊: 八は、こなきじじいと砂かけばあさんに、思いがあるんやな。せや、ええこと思いついた。

八とわてで、二人で、いっしょに、イエス様紹介しにいけへんか。あんころもちでももって。お互いに思いのある人の所へ、いっしょに。

八: じゃあ、明日でもいくか。定吉のところと、義三じいとお勝ばあのところに。

熊: あほ、思い立ったら吉日やで。イエス様、いついらっしゃるか分からへんねんから。

明日やのうて、今日や、いや、今から、昨日もらった、つきたてのあんころ餅もって、行こ!

八: せやな。善は急げやな。新年のご挨拶、ゆうことで。、、、で、なんで、熊、今あんころもち食うとんねん。

熊: いや、きのうおせちでお腹いっぱいになったやろ。あんころもち、試食してなかったさかいな。美味しいかどうか、分からへんや。

八: おまえ、失礼やな、ええ! これ、おまえ、教会の昔のお嬢さんたちが作ってくれたあんころもちやないかいな。愛情いっぱいやで。、、、あ、熊、二つ目はあかんで。わても、たべてへんねんから、それに、それ、めだまの親父にももっていかなあかんねんからな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。イエス様をお伝えする時、二人一緒に行動するのもいいですね。イエス様も弟子たちを二人一組で、伝道へと送り出されましたから。それと、なにか手土産を持って、世間話をしながら、まあ、八さん熊さんでしたら、将棋盤をもっていって、一局なんていうのもいいでしょうね。小阪チャペルでは、玄関に、大きな丸い縁台が置いてありますから、あたたかくなったら、そこで将棋や囲碁やトランプをしながら、また横には座布団をひいたベンチがありますから、そこでお茶でも飲みながら、イエス様のことを神さまのことをちょこっとでもお話しすることもできればいいですね。伝道はプロジェクトではありません。伝道集会もいいですが、日々の生活の中で、交わりながら、イエス様のことを喜んでいる姿を見ていただくことが、一番です。皆様自身が、トラクトとなれば、いつでもどこでも、トラクトを配っていることになりますね。そのような、一年にさせて頂きましょう。

では、黙想いたします。

●黙想:詩篇101篇をお読みいたします。

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書21章33節。

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

では、黙想いたしましょう。詩篇101篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑤:「主は良いお方」

https://www.youtube.com/watch?v=mBxIuYe1Xwk&list=RDh75j00LVVWE&index=2

●献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と共に捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡