メッセージ:「聖なる交わり」

大阪聖書学院チャペルメッセージ

2022.1.12

担当:若竹孝行

メッセージ:「聖なる交わり」(20分間メッセージ)

中心聖句:1ヨハネ1:6 (新改訳2017)

「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

このヨハネの第一の手紙1章には、五つの「もし」が出てきます。

●6節「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら」

●7節「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら」

●8節「もし自分には罪がないと言うなら」

●9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら」

●10節「もし罪を犯したことがないと言うなら」

6節は7節を強調するためにあります。6節で「あなたたちが闇の中を歩んでいるなら、真理を行っていない」と、聞く人たちをドキッとさせます。もっとドキッとするように「闇の中」という言葉を「世と迎合して」とすると、どうでしょう。私などは恥じ入るしかありません。パウロは、ローマ書12章2節で●「この世と調子を合わせてはいけません」と訴えます。むしろ、●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」と1節で説きます。ヨハネの言うところの「真理を行う」ということは、パウロの「からだ、つまりは日常生活を神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる」ということにつながるのかもしれません。

そして、7節で、神さまとの交わり、神さまの光の中を歩んでいる者は、●「互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」と述べて、「クリスチャン同志の聖い交わり」を強調しています。クリスチャン同志の交わりは、イエス様ご自身がその中にいらっしゃいますので、「イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださる」ことになると説いているのです。神様との交わり、イエス様との交わりは、ディボーションの中にもクリスチャン同志の交わりの中にもあります。

そして、ヨハネは、今度は「罪」の問題を提示します。クリスチャンは全員、罪人なのですが、当時、クリスチャンの中には、まだまだ律法主義の感覚が残っている人もいました。『律法を守ってさえいれば、罪を犯していない』と自分が罪人であるという意識が薄くなり、つまりは、イエス・キリストの十字架の贖いへの感謝が薄れ、積極的に律法さえ守っていればいいということに固執し、イエス・キリストの恵みを無駄にしかねない、ですからヨハネは「そのような人は、自分自身を欺いており、その人のうちに真理はない」と、これまた、きびしく非難するのであります。この時の「真理」とは、イエス・キリストの救いの恵みのことであり、10節にでてくる「神のことば」のことを意味しています。

そして、罪の贖いの確信にふれて行きます。9節●「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義から清めてくださいます。」ここで、7節のことばがほぼ重複されています。●「互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」 「不義」とは「神の目からみて正しくないこと」であり、「罪」は「神から遠ざかり、反目すること」です。両者はほぼほぼ同じことでありますから、『ディボーションの中で、またクリスチャン同志の交わりの中で、お互いに罪を告白する』なら、神さまはその罪を、イエス・キリストにあって、お赦しくださるのです。また、「罪や不義からきよめてくださる」とは、「罪や不義」から遠ざけられるということです。それは、私たちの力だけではできません。アダムとエバの時と同じように、罪の誘惑のほうが強いからです。聖霊様の助けが必要でありますが、その働きを強めるのは、クリスチャン同志の交わり、祈り合い、励まし合いではないでしょうか。

そして、ヨハネは、これでもかと念押しを10節でします。●「もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」『もし自分の罪を否定するなら、神はいない、いや、いらない』と神の御業を、イエス・キリストの救いの恵みを、そして神の存在そのものを否定したことになります。この言葉は、少なからず、神を信じているクリスチャンにはショッキングなことです。それは、あたかも、パウロが警告し続けたことと同じであります。●「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」1コリント1章18節。滅びゆくものとなってはいけない!とヨハネは警告しているのであります。 この「私たちのうちに神のことばはありません」とは、『聖書のことばがわたしたちの心の中に生きて働いておらず、私たちの言動が世と同じである』ことを意味しています。

私は、この1ヨハネの1章で、この聖書の時代でも、クリスチャンの内と外の顔が違うことを、それは現代でも同じことで、「聖書のことばが私たちの心の中でしっかりと生きていない」ことを現わしているような気がするのです。

たとえば、それはクリスチャンの内面(うちづら)、外面(そとづら)という表現とも言えるかもしれません。教会では、とても良いが、いったん教会の外にでると、世の人との区別がつかない。地の塩となっていない。また、家庭での顔も違う。世の光となっていない。私たちは大いに反省するところではないでしょうか。私たちは、心は神さまに向いているつもりでも、少なくても二重人格です。外面と内面が確実にあります。

こういう私も外面と内面があります。ですから、偉そうなことは言えませんが、それを無くそうと、心の中で、主をいつも見上げているように心がけています。もちろん完璧ではないですから、まだまだ内面と外面があります。その内面と外面をひとつにするためにも、自分の罪を認めなさい、認めてそれを告白しなさいとヨハネは私たちを叱咤激励するのであります。

私たちは所詮罪人だから、罪を犯しても仕方がないと、諦めたり投げやりになったりすることなく、親しいクリスチャンの交わりの中で罪を告白し祈り合うこと励まし合うことが大切ではないでしょうか。ただただ、クリスチャンのお茶会をするのではなく、まあ、それも結構大切なのですが、定期的に祈り合う交わりが、信仰生活においてとても大切なこと、ディボーションと同じぐらい大切なことだと私は思うのです。ヨハネはこのことをこの1章で強調していると私は感じるのであります。

ヨハネは、ことばは違いますが、黙示録の3章で次のように説いています。少し長いですが、お読みしたいと思います。15節~19節の「神の七つの御霊と七つの星を持つ方」、つまりキリストでありますが、そのお方のラオディキアにある教会に向けての言葉です。

●「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りない物は何もないと言っているが、実はみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」

熱心に悔い改めるとは、罪の意識を研ぎすませていないとできません。それができるのは、ディボーションとクリスチャン同志の交わりのなかでの祈り合いであります。どうか、親しい方と罪の告白をし、祈り合いによって、その罪から聖霊様によって遠ざけていただきましょう。祈りは力であることを信じ、実感しましょう。神様との、イエス・キリストとの、クリスチャン同志の聖い交わりを心がけましょう。

3節にヨハネの真意が示されています。「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

さて、ここで、天国長屋の八さんと熊さんに登場していただきましょう。

―――――

八: 熊、ちょっと気になることがあるねんけどな、

説教の中で「真理を行う」ってあったやろ。

熊: ああ、若さんは、ローマ書の12章を引き合いにだしてたな。

「真理を行う」いうことは、「日常生活を神に喜ばれる、

聖なる生きたささげ物として献げる」ゆうことやゆうてたな。

八: けどな、「真理」ちゅうのは、10節の「神のことば」やゆうてやろ、そうやったら、

「真理を行う」ちゅうのは、2章の5節にあるように、

「神のことばを守る」ちゅうこととちゃうんか。

熊: ん、せやな。そういうことになるわな。

じゃあ、「神のことばを守る」ちゅうのはどういうこっちゃ。

八: そりゃ、あれやがな。イエス様のご命令やがな。

たしか、ヨハネの福音書の13章の34節。

●「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

つまりは、2章の6節にあるように、

「イエス様が歩まれたように歩む」ちゅうこっちゃがな。

熊: 「イエス様にならう」ちゅうことやな。それ、ピリピ書の2章の3節にあるやん。

●「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、

互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」

これって、『イエス様のへりくだり』をみならうちゅうことやろうな。

八: 「イエス様のへりくだり」か、イエス様は謙虚の極みやからな。

わてらみたいな凡人が、なかなか真似できることとちゃうで。

熊: あほやなぁ。凡人がすぐまねできんねんやったら、なにもイエス様いらんがな。

おいそれと真似でけんところに、イエス様の謙虚さがあるからこそ、

そこに一生かかって、たどり着こうとするんやないかいな。

まあ、一生かかっても、たどりつけへんねんけどな。

八: そや、けんど、そのイエス様のへりくだりを学ぶのが、

主にある兄弟姉妹との交わりとちゃうか。

だから、「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」

とあるんやで。

熊: この思いを胸に、交わりをもって、祈り合わなあかんちゅうことやな。

八: せや、それこそが、聖い交わりなんやろな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。交わりの中で、へりくだって、お互いに祈り合う。これこそが、「イエス様に倣う」という事なのかも知れませんし、イエス様に倣うということは、聖い交わりを持つということなのでしょう。そして、その交わりは日常的に行われる必要があると思います。そして、その基盤にあるのが、「私たちの日常生活を神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる」ということではないでしょうか。同時にイエス様の謙遜を学ばせていただきたいと思います。

お祈りいたします。