大阪朝祷会2022.1.24
担当:若竹孝行
メッセージ:「最高の祝福」
中心聖句:創世記39章2節
「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。」
おはようございます。そして、お帰りなさい。
昨年の10月、大阪北区の南森町から、教会機能だけを、東大阪の近鉄河内小阪駅近くに移し、現在は当面礼拝だけをささげております。といいますのも、本来は開拓伝道のための移転なのですが、12月17日に、南森町にありました書籍や楽器や機材を運び込みまして、この整備が予定よりも遅れているためです。実は、今事情がありまして、ほぼ毎日近放伝の事務所に行って、お手伝いをさせていただいております関係で、小阪チャペルの本格的スタートが遅れているのであります。近放伝と小阪チャペルのために、覚えてお祈りくだされば感謝であります。また、今週から、しばらく、礼拝は、5時の夕拝のみとさせていただき、日曜日の午前や早い午後は、主に他の教会でのメッセージのご奉仕や福音落語に用いられたいと願っております。
さて、小阪チャペルをスタートしたものの、何かもう一つ御言葉を頂きたいと願っておりました。2000年に英語塾を南森町に立ち上げるときには、ヨハネの福音書15章5節●「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」という御言葉が与えられ、生駒聖書神学校時代には、第1コリント9章23節●「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」この御言葉をずっと握りしめておりました。また、ぶどうの木キリスト教会を開所させていただいたときには、第1テサロニケ5章16節から19節●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。”霊“の火を消してはいけません。」この御言葉が与えられていました。昨年2021年5月、小阪チャペルのビジョンがあたえられたときには、ヨシュア記1章9節がありました。●「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
私の人生計画は大いに方向転換させられました。実は私は、70歳で、今の英語塾の仕事から引退し、私が一番長く住んだ南森町をでて、どこか田舎で、細々と開拓伝道をしたい、又は無牧の教会でお手伝いしたいと主に願っておりました。ところが、主は全く私の頭になかった東大阪で小阪チャペルを立ち上げて開拓伝道を始めなさいとおっしゃいました。「え、うそでしょ、神様。教会立ち上げるのにお金がかかるし、今私が貯めてきたお金は私の田舎暮らしの時のためのものです。それに、、、」と、小阪チャペルをしない理由をいっぱい並べました。しかし主は、先ほどの第一コリントの御言葉と、ヨシュア記の御言葉を、あたかも水戸黄門の印篭のように出してくるのです。「この御言葉が目に入らぬか!」てな感じでございます。私は「ははー」とひれ伏すしかないのであります。
そして、ついに1か月後、私は降参しました。「主が小阪チャペルをしろとおっしゃったんですから、主が責任を持ってくださいね」。ちょっとふてくされも入っていたかもしれません。それからもいろいろとありましたが、今の場所である河内小阪の駅前に比較的安価で借りることができました。が、しかし、まだヨシュア記以外の御言葉が与えられていませんでした。実は礼拝に関する御言葉がほしかったのです。ヨハネの福音書15章5節、第1テサロニケ5章16節~19節、そしてもう一つを、小阪チャペルの三本柱的な御言葉にしたかったのです。
そして、感謝なことに、祈り願っていました小阪チャペルへの御言葉は、12月最後の朝祷会での高原幸男先生のメッセージにありました。ローマ人への手紙12章1節2節です。●「こういうわけで、兄弟たち、神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
小阪チャペルでの礼拝をこのような気持ちをもって、ささげさせていただこうと示されました。主と高原先生と朝祷会に感謝致します。
さて、前置きが長くなりましたが、メッセージをとりつがさせていただきたいと思います。
さて、この創世記36章では、ヤコブの子ヨセフが、ヨセフを疎ましく思う兄たちによって、奴隷として売られ、そして最終的にはエジプト人であるポティファルに買い取られるところから始まります。奴隷の身ではありましたが、ヨセフには、主がともなわれ、彼は成功する者とされ、主人の絶大なる信頼を得ることとなります。
この39章は、ことあるごとにヨセフに主が伴われていることを強調しております。まあ、この39章に限ったことではありませんが。そして、ヨセフは主を恐れ、主人の奥さんからの誘惑をきっぱりと断り続けます。そのように神を恐れることの大切さも記していますが、それよりもまして、「主がともにおられる」ことの重要性を読者に訴えています。
私は、聖書がもっとも大事にしているメッセージがこの「主がともにおられる」ということではないかと思っています。そして、大切な祝福のメッセージは、代々受け継がれてきているのです。
この創世記の時代も、信仰の継承、神のみことばを取り次ぐ権威の継承が行われております。
モーセが亡くなる前、ヨルダン川を渡る前に、イスラエルの民のリーダーの座を後継者のヨシュアにゆずる時に与えた言葉、神様からの言葉をを紹介したいと思います。申命記31章7節8節です。
●「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
これは、主がモーセに申し渡されたことばであります。
この中に「主がともにおられる」ということがもう少し具体的に表現されています。
「主は先立って進まれる」「主は見放さない」「主は見捨てない」ということです。
もちろん、ヨセフのように「神を神としてあがめ、恐れないといけない」のではありますが、主ご自身が「恐れてはならない」と申されます。つまり、私たちは、主を神としてあがめないといけませんが、父として親しく交わることを許されているのです。ですから「恐れてはならない、おののいてはならない」と申されるのです。子が親を慕うように、私たちに、神を慕うことをお許しくださっておられるのです。
このモーセの遺言のようなことばは、今のわたしたちにも、主はおっしゃっておられます。
またイエス様の最後のことばを思い出してみてください。
イエス様は復活し、天に戻られる前に、弟子たちに次のようにおっしゃいました。マタイの福音書28章20節 大宣教命令でありますが、そこに主の約束が含まれています。
●「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」とは、なんという祝福でしょうか。
信仰生活とは、イエス様のこの地上での思い出を語り、従って生きることではありません。イエス様を歴史にしてはいけないのです。信仰生活とは、主イエス様とともに今を生きる生活であります。ヘブル人への手紙11章1節では、つぎのように信仰を表現しています。
●「信仰は、望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確信することです。」
信仰とは、過去ではなく現在そして未来の出来事に対して希望をもつことでもあります。私は、「神を信じる」ということが分からないという方に、いつも簡単なことばで答えます。「神さまに期待すること、イエス様に期待すること」だと。「主に期待する」とは「主に全幅の信頼を寄せている」からこそできることであります。
そして、主なる神さまも私たちに期待してくださっています。ですから、「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」そして、今もそのように、伴ってくださっているのです。「先立って進まれ」「見放さなさず」「見捨てない」主が、私たちと共にいて下さり、寄り添っていてくださり、私たちに期待して共に歩んでくださるのです。
この最高の祝福をどうしてこばむことができるのでしょうか。どうして、わざわざ損する道を選ぼうとすることができるでしょうか。
詩篇23篇は有名な聖書の箇所ですが、これは、主の最大の祝福を確信した聖句です。
これを信じない限り、確信しない限り、皆さんは大損をするでしょう。
今一度、お読みしたいと思います。
詩篇23篇1節、
1「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
2「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、」
3「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。」
4「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、
それがわたしを力づける。」
5「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」
6「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、
そこにとどまるであろう。」
そして、主ご自身が伴われるのでありますから、私たちはその主のご愛にお応えする必要があります。それは、主の最高の祝福に感謝をささげることですが、詩篇1篇の2節3節にそのことが記されています。
●「主のおしえを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
神のことばである聖書の教えを進んで守り従い、また賛美を口に留めることです。主と常に会話し、交わりをもつことです。そうすることで、主のみこころが、私たちの思いとなり、私たちの行動は、主のみ旨にかなったものとなり、主が栄光を現されるのです。
どうか、「主がいつもともにいてくださること」「主が生きて働いてくださっていること」そして、「主が私たちに期待してくださっていること」それらのことを確信をもって歩ませていただきましょう。その時、あなたは何をしても栄えるのです。
お祈りいたします。