メッセージ:「水で洗う」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

1月27日

担当:若竹孝行

メッセージ:「水で洗う」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:出エジプト28章~30章

29章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:4

「アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

今朝導かれましたのは、29章でありますが、祭司聖別の儀式の手順と心構えが記されています。祭司たちはまず、水で清められることが求められています。それが、今朝の中心聖句4節であります。この洗い清めることの詳細は、30章18節~21節に述べられています。祭司たちはまず、献げものをする前に、手と足を洗う必要がありました。祭司が誤って汚れたものに触ったまま献げ物をすると、献げ物は汚れるとされていたからであります。そして、祭司たちが会見の天幕に入るとき、つまり主の御前にでる時、水を浴びることとされています。その理由は、20節で●「彼らが死ぬことのないようにするためである。」と記されています。同じように、彼らが献げ物をささげる時も、手と足を洗わなければ、彼らは死ぬと忠告しています。汚れたままで主の御前にでる事は許されていませんでした。

祭司聖別の儀式においても同じであり、この後、29章7節では油注ぎの儀式があります。●「注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする。」と記されているとおりです。旧約聖書に出てくる油注ぎに用いる油は、特別なもので、調合法は出エジプト記の30章23節24節に記載されています。そして、これはその儀式だけのものであり、注意して取り扱うものでありました。25節には次のようにあります。●「あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。」 油注ぎは、聖さ、神への聖別という意味があり、とても重要なものであり、油注ぎの油をまねて製造してもいけませんでした。(30章32節33節)●「これを人のからだに注いではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものでなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人に付ける者は、だれでも自分の民から断ち切られる。」それだけ、特別な油であり、油注ぎ自体が限られた人(旧約では、王、祭司、預言者)にだけ与えられるものでした。

皆さんは、メシアという言葉をご存じでしょう。メシアは「油注がれた者」という意味であり、旧約時代では超人的な英知と能力、つまり聖霊様によるものでありますが、それらを有するイスラエルの特別な指導者、王を意味し、また新約時代では、救い主、イエス・キリストを指します。「油注ぎ」とは、「神への奉仕の力」を与えられることでもあります。特に、イエス・キリスト以降、イエス様を救い主と信じ告白する人には、イエス様の平安であり、助け主である聖霊様が、その人の心に宿り、その人は、神の宮とされます。その意味では、イエス・キリストを信じる人々には、聖霊が注がれている、つまり「油注ぎ」が行なわれていることになります。

それを端的にあらわす聖書の箇所は、ルカの使徒の働きの1章5節と8節です。これはイエス様が天に上って行かれる直前の励ましと約束のことばです。●「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によってバプテスマを授けられるからです。」●「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、それに地の果てまで、わたしの証人となります。」

そして、その後、弱弱しかった弟子たちは聖霊に満たされ、大胆にイエス・キリストを証しする者とへ変えられました。聖霊充満が油注ぎだとはっきりと分かります。そして、パウロもその聖霊充満が油注ぎであることを確信しています。2テモテ1章7節●「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」この時点で、イエス・キリストを信じ告白する人には、聖霊がその人の心に宿り、つまりは油注ぎの条件がそろっていることから、万人祭司、イエス・キリストを信じる人は全員祭司とみなされ、「神への奉仕の力」が与えられていること分かります。全員がイエス・キリストの証し人であるのです。全員が油注ぎの条件がそろっていることになります。

さて、ここまで油注ぎの話をしてしまいましたが、今朝のポイントは実はそこではありません。油注ぎが行なわれる手前にある、手足を水で洗う、そして水を浴びるという行為であります。「油注ぎ」が行なわれる条件として、手足を水で洗う、そして水を浴びるということが必須となっています。神になにかを献げる時、手足を水で洗わなければなりません。また祭司として主の御前に出る時、水を浴びなければなりません。これは、私たちに何を意味しているのでしょうか。

私たちはよく聖別され、油注ぎを、聖霊充満を求めます。しかし、順番を忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。まず水で手足をまた全身を洗い清めることが必須なのです。これをしないと「祭司としては死ぬ」のであります、つまり、「祭司として役割を果たせない、聖霊に満たされることはない」ということです。

では、「水で手足をまた全身を洗い清める」とはどういうことでしょうか。私たちの日常のふるまいの中できよくない習慣があれば、それを洗い清めなければなりません。除去し、または遠ざかり、改めなければなりません。

私たちの思いの中に、とくに主のためにと思っている中に、誘惑の声をきくならば、たとえそれが、か細い声であったり、遠くの方から聞こえてくるものであったとしても、水で、悔い改めの涙で洗い流してしまわなければなりません。また、聖く尊い目的であったとしても、自らの力を信じ、それにより頼み、遂行してしまう自我があるとするなら、それも押し流してもらわなくてはなりません。私たちは実に弱い、非力です。ですから自ら洗い流すことができない時が多いでしょう。常に主にそのことを願い求めなければいけないのです。それこそが悔いた心です。謙遜です。

私たちは、世の人々と世のまっただ中で暮らしています。これは避ける事はできません。しかし、世のものに心を奪われてはいけません。ヨハネは手紙の中で次のように警告します。1ヨハネ2章15節16節●「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」

「いやいや、私は世のものを愛してはいません」とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。ほんとうにそうなのでしょう。しかし、そのことをおっしゃる中に、心の隙が無いでしょうか。「世のものを愛していない人は、義人です」そして、「義人はひとりもいない」と言われるのも事実です。また、私たちが全員罪人であることも事実です。私たちは全員、神から離れるという罪を、神を一時的にでも遠ざける罪を背負っています。つまりは、この世をなんからの形で、また無意識に、自覚症状なく愛していることになるでしょう。私たちの罪は根深いのです。ですから、私たちの力ではその罪を取り除いたり遠ざけたりすることはできません。それができるのは、イエス様ただお一人です。イエス様に「その罪から遠ざけてください、罪を取り除いてください」と願い求める以外、私たちが、手足を洗い、水を浴びることはできないのです。

アロンとその子らは、耳たぶと手足の親指に血の注ぎを受けました。出エジプト記29章20節です。私たちも毎日イエス・キリストの血の注ぎによるきよめを求めなければいけません。

最後のヘブル人の手紙10章19節から22節を読み、黙想に入りたいと思います。

●「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血がふりかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだときよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」

黙想いたします。黙想の時に、「キリストには代えられません」という曲を聴いていただきます。

キリストには代えられません

https://www.youtube.com/watch?v=MDR0io7xfrc

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。