大阪エリム・キリスト教会
木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)
2022年2月3日
担当:若竹孝行
メッセージ:「聖なる者となる」(15分間メッセージ)
今朝の聖書通読箇所:レビ記10章~12章
11章を交読。(新改訳2017)
中心聖句:3&45
「動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。」
「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
おはようございます。そして、お帰りなさい。
11章は、食べてもよい生き物と食べてはいけない生き物の区別が記されていますが、これは聖いものと汚(けが)れたものとの区別とも言えます。たしかに、この規定は、細かいですね。動物、鳥、水中の生き物、地に群がる全ての生き物について、二つの区別、聖いもの、汚れたもの、つまりは食べられるもの、食べてはいけないもの。
神さまは私たちに、とても分かりやすいように、食べてよいものと食べてはいけないものという区別を教えられました。これは食べ物の規定のようにみえますが、それだけではありません。聖いものと汚れたものは、きちんと区別しなければならない、あいまいなものは、神の目にはないことを意味しています。なぜなら、この世の中には、私たちの考えでは、聖いものと汚れたものの区別がつきにくいものも多いからです。神には中間がありません。救われるか、救われないか、さばきは一つです。
現代の私たちは、混沌の世界の真っただ中に生きているとも言えます。たとえば男女の区別にしても、身体の性と心の性が必ずしも同一ではないということが明らかになってきています。昔からあった問題なのでしょうが、昔はそれが隠されていました。この性同一性障害の現象が、何が原因でこうなってきているのか、現代の私たちにはまだはっきりとは分かっておりません。胎児期におけるホルモンの影響かもしれないとおっしゃる学者のかたもいらっしゃいます。目を自然界に向けると、例えば、日本人の舌に慣れ親しんでいるウナギですが、幼魚の時は、オス・メスの区別はありません。成長するにつれ、オス・メスの区別がついて行き、自然の中で育ったウナギのオス・メスの比率は、ほぼ1対1です。が、しかし、幼魚から養殖されたウナギは、ほとんどがオスになるそうです。養殖の餌や環境が、ホルモンになにか影響を及ぼしているのかもしれません。とにかく、性同一性障害の現象は、今では、社会が認める方向にあります。それが、はたして神の目からみていいことか、いけないことか、クリスチャンの間でも賛否両論です。昔から伝統的に正しいと思われてきたことが、土台から崩れてきていて、新しい価値観や新しい世界観が生まれつつある、しかし、それを神が介在し神が認めておられるのか、私には今もってわかりません。神に中途半端はありません。救われるか、裁かれるか。聖いか、汚れているか。神の目には、はっきりと色付けされているのでしょう。
さて、この11章の私たちが聖なる者となるための食べられる生き物の規定でありますが、先ほども申しましたが、実際には食べ物の規定ではなく、霊的な規定ではないでしょうか。そうでなければ、私たちクリスチャンは、たとえば、ユダヤの人々が口にしない豚は食べられなくなります。私は、ハムも大好きですし、豚の生姜焼きも大好物であります。では、霊的な規定として、このことをどのように解釈すべきでしょうか。
まず、ひづめです。「すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもの」これは、聖別を示唆しているのではないでしょうか。世とはっきりと分かれることなくしては、クリスチャンとしての歩みは崖っぷちだとも言えるでしょう。私の今年の聖句としていただいた、ローマ人への手紙12章1節2節の内の2節●「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」私たちは、この世で生きています。仕事もしています。しかし、この世と調子をあわせることをしてはいけない、地の塩とならなければいけないとパウロは主張しています。このことが、「完全にひづめが割れているもの」つまり、地の塩として、「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分ける」識別力とそれに対処する知恵と力を主に求める者が、クリスチャンとして聖い者であるのではないでしょうか。
また、「反芻するもの」でありますが、反芻は瞑想や黙想を表しているのではないでしょうか。きよい動物は、ただ草を食べているのではなく、何度も何度も反芻し、自らの栄養とします。クリスチャンも聖書をただ読むだけではなく、それを咀嚼し、思い巡らし、味わい、他の聖句と合わせて反芻する必要があります。聖書は、実に消化には悪い、といいますか、奥が深い。何回読んでも、分からないこともたくさんありますし、他の聖句と合わせてやっと理解の入口に立つことができることもあります。また、聖書通読を1巡目、2巡目、3巡目と読み重ねていくたびに、理解が深まったり、まったく違う思いが示されたり、気付かされたりします。クリスチャンも聖なるものとされるためには、御言葉を、そして主からのメッセージを反芻するものでなければならないのでしょう。
また、この二つの「完全に割れたひづめをもつ」ことと「反芻する」こととは、二つで一つの条件、どちらか一方が満たしていればいいというものではありません。例えば、先ほどの私が例にだした豚などは、完全に割れたひづめをもちますが、反芻はしません。ですから聖い動物とはなりません。また、野うさぎは、その逆で、反芻はしますが、割れたひづめをもたないので聖い動物ではありません。
世と調子を合わせず、何が主に喜ばれるかを識別する知恵と力を主に求め、かつ、聖書を何回も読み、瞑想し黙想し、味わおうとする人こそ、聖い者となる素地があるのであります。
ここで、そもそもですが、「聖なる者」とはどういった方のことでしょうか。全くの聖なる方は天の父なる神様であり、その御子イエス・キリストであり、御子イエス様がお送りくださる聖霊様です。私たちは全員罪人でありますから、完全な聖なる者とは、この地上ではなれません。私たちが聖い者とされるのは、天の御国に招待され、永遠のいのちを授かるときでしょう。しかし、この地上でも聖さを追い求めることはできます。到達するかどうかは別の話ですが。ヘブル人への手紙12章14節では次のように述べています。●「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」主に出会うときの聖さとは、主を純粋に求める心にあるでしょう。それは、聖霊様の働きによるものであるともいえます。
また、パウロはローマ人への手紙6章22節で、聖さのことを次のように説いています。●「今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。」私たちは、イエス・キリストを信じた時点で、「聖潔に至る実」を得ているということでありますが、では、この「聖潔に至る実」とは何でしょう。ある解説書では、それは、「キリストにある聖い生活によって生み出される聖霊の実」ということです。そして、聖霊の実とは、皆さまよくご存じの御霊の実のことで、ガラテヤ書5章22節23節にそのことが記述されています。●「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」この9つの実ですが、「御霊の実」は、実は単数扱いです。ひとつのイメージとしては、御霊の実のなかに9つの種があるようなこと。または、ぶどうの一房が御霊の実で、9つの粒がついているというイメージも描かれるでしょう。また、実が愛、喜び、平和と数珠つながりになっているというイメージもあるかもしれません。しかし、どちらにしても、この9つの実は切り離しては考えられないのです。また、聖潔に至る実は、イエス・キリストを信じた時点から鈴なりになっているのではなく、実となる、または種となる可能性を秘めたものがあって、クリスチャンとして聖く生きていくうちに、その実が成熟していくということかもしれません。その御霊の実が、この地上で完熟になることはないでしょう。しかし、そのような御霊の実を成熟させる行ない、つまりガラテヤ書5章24節にあるように●「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけ」つづけた(ひづめが割れ、世となじまない)行ないが尊く、主に喜ばれることではないでしょうか。その行ないには、もちろん、日々の悔い改めも、聖書の通読と味わいも含まれているでしょう。
さて、ここまでいろいろと考えをめぐらさせていただきましたが、今日の11章45節だけを見させていただいたとき、聖なる者とはどういう人のことを言うのでしょうか。
●「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
皆さんはどう思われますか。私には、主を飢え乾きをもって求める人、その人を主が聖なる者とされるように響くのです。確かに主は、ひづめが完全に割れ、反芻する動物を通して、聖なる者とはどういうものかを示唆してくださいました。しかし、主は11章の最後の方で、律法を超えた教えを、私たちにお示しくださったような気がするのです。
「聖なる者とならなければならない」とは、主が私たちを聖なる者へといざなう召しを表しているように思えるのです。そして、ヨエルは言います。2章32節●「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」 この「呼び求める」とは1回限りの呼び求める行為ではありません。「呼び求め続ける」「どんなときにも、どんなところでも、なにがあろうとも、主を呼び求め続ける」行為であり、そのような心、信仰を主は求めておられ、またそのような人を救おうと約束されておられるのです。主を呼び求め続ける人が、聖霊様の働きによって内から聖なる者へと変えられつつあるのです。
そして、そのような人は、自分だけが聖なる者へと変えられつつあることに、満足してはいけません。まわりの方々にも、「共に主を呼び求め続けられるように」また「ともに救われる者とされるように」することに使命があることを忘れてはいけません。パウロは訴えます。
1コリント9章16節●「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」
23節●「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」 そして、
2テモテ4章2節●「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
私は、個人的にも、主を呼び求め続ける者となり、主に喜んでいただきたい。それとともに主の証し人として、いつでも、主を、そして、みことばを宣べ伝える者でありたいと願います。私は、まったく完全ではありません。いえ、逆に欠点の多いものです。しかし、そんな私をイエス様は、お前は高価で尊いと愛してくださいます。その愛に応えたいと願っています。それが真の聖なる者とされることに通じると信じるからであります。主を呼び求め続けましょう、そして、主に私たちを用いていただきましょう。聖なる者として。
黙想いたします。黙想の時に、「土の器」という曲を聴いていただきます。
土の器
https://www.youtube.com/watch?v=8-cdd5jy4lc
お祈りいたします。
●主のいのり
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。