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「第一の復活に預かる幸い」

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.2.6主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年2月6日主日礼拝式を始めます。

賛美①:主と共に(メドレー①)

https://www.youtube.com/watch?v=4u5_T5pvFV4&t=1012s

賛美②:主の宮(メドレー②)

https://www.youtube.com/watch?v=4u5_T5pvFV4&t=1012s

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:主はわれらの太陽 (2月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=ZWktcXSPVCY&list=RDGMEMCMFH2exzjBeE_zAHHJOdxg&start_radio=1&rv=S7eZhG68gAs

賛美④:主の足もとに(メドレー③)

https://www.youtube.com/watch?v=4u5_T5pvFV4&t=1012s

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:心に傷もつ(メドレー④)

https://www.youtube.com/watch?v=4u5_T5pvFV4&t=1012s

【YOUTUBE配信開始】

2022年2月6日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節

●「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

●聖書拝読:ヨハネの黙示録20章(新改訳聖書)

中心聖句:

「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(6)

メッセージ主題:『第一の復活にあずかる幸い』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

黙示録20章では、千年王国や第一の復活や第二の死のことが記されています。少し整理して、簡単に説明しておきたいと思います。

天の父の右の座におられるイエス様は、ある時、この地上に降りて来られます。イエス様の再臨んですが、それを携挙と呼びます。その時、イエス・キリストを信じる者は、その生死に関係なく、天にあげられ、イエス様と空中で出会い、天での主との平安な暮らしが永遠に続きます。

このイエス様の空中再臨の時期もしくは、地上再臨の時から千年間、2節3節にあることが起こります。●「悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」とあり、6節では、●「第一の復活にあずかる者は、、、、神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」とあります。このことから、この千年間を「千年王国」と呼んでいます。その後、最後の審判がくだり、キリストを否定する人々たちや悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれ、永遠の苦しみを受けることとなります。これが第二の死と呼ばれるものです。クリスチャンは、第一の復活にあずかる者ですから、後のことは何も心配ありません。神学で、意見が分かれるのは、携挙の時が、19章までに描かれた大患難時代の前か、最中か、後かであります。しかし、私はあまりこのことに興味がありません。携挙の時に私たちは完全に救われ、いつも主とともに暮らせるのです。地上で経験してきたことは、きれいさっぱり忘れるか、気にならないで、主への賛美と祈りに集中しているのではないかと、私は個人的に思っています。

そして、その携挙は、ふいにおとずれるため、私たちは目を覚ましておく必要があります。もちろん、目を覚ましておきなさいとは、起きていなさいということではありません。心の準備をしておきなさいということです。では、ふいにおとずれるイエス様の再臨に対して、心の準備はどのようにすればよいのでしょうか。

イエス様は私たちに心の準備をするために、花婿を出迎える十人の娘のたとえを話されます。マタイの福音書25章1節から12節です。十人の娘の内、五人は愚かで、あとの五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油は用意していませんでした。一方、賢い娘たちは、ともしびとともに油を用意していました。このたとえでは、花婿はキリスト、花嫁は天の御国での教会、花嫁の友である十人の娘はクリスチャンです。油は聖霊を示します。クリスチャンは聖霊に満たされて主の再臨に整えられます。イエス様のこの十人の娘のたとえで勘違いをしてはいけないことが一つあります。それは、十人の娘の内、半数しか救われないというところです。50パーセントのクリスチャンが救われないということでは決してありません。この譬えの数字にこだわってはいけません。イエス様はただ、再臨に備えるために、いつも聖霊に満たされていなさいと助言を下さっているのです。ですから、13節に●「目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」 これでお分かりにように、「目をさましていなさい」とは、「聖霊に満たされていなさい」ということです。

では、また質問ですが、「聖霊に満たされる」とはどういうことでしょうか。私たちクリスチャンは、心でイエス・キリストを信じ、口で「イエスは、わたしの主です」と告白すれば、聖霊様が私たちの心におくだりくださり、私たちの心に永遠に宿ります。離れることはありません。しかし、「聖霊に満たされる」ことは、聖霊様がお住まい下さっていることとは違います。「聖霊に満たされる」とは、私たちの自我がなくなるといいますか、私たちが聖霊様に心を明け渡し、完全に聖霊様に支配されることを意味します。私たちは、聖霊がお宿りくださっていますの、私たちの体は主の宮、神殿ともされています。しかし、私たちの体は肉の体でもあり、いたって不安定です。ですから、絶え間なく「聖霊に満たされている」状態ではありません。つまり、私たちの自我の邪魔がはいるゆえに、私たちは、永続的に完全に聖霊様に支配されることができないでいます。私の大切にしている御言葉、1テサロニケ5章16節から18節、●「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」しかし、19節に●「御霊を消してはなりません。」とあります。聖霊様は永遠に私たちの心におとどまりくださいますが、私たちが、「常には聖霊に満たされていない」状態、私たちの自我が聖霊様の支配を邪魔している状態があることをこの19節は物語っています。これが私たちの現実です。しかし、主に私たちの心を明け渡す、支配していただくのに効果的なのが、先ほどの1テサロニケ5章16節から18節までなのです。

さて、ここまで、私たちが天に引き上げられる第一の復活、イエス様の再臨に備え、「目をさましていること」つまり「聖霊にみたされていること」「聖霊様に支配していただくこと」それには、たとえば「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝すること」が効果的であることを学ばせていただきました。また、イエス様を信じる者には、千年王国も最後の審判も関係ありません。しかし、私たちの周りには、まだイエス様すらご存じない方がたくさんいらっしゃいます。その方々にイエス様をお伝えし、共に救いにあずかり、第一の復活で、天の御国にいっしょに招待されるものとさせていただかなくてはいけません。

また、「聖霊にみたされていること」の副産物があるのをご存じでしょうか。私たちが天の御国で与えられる平安と喜びが、この地上で「聖霊にみたされていること」によって、体験できるのです。この平安と喜びを、今、体験できないとなると、その方は大損をしていることになります。イエス様は、そのためにも、イエス様ご自身の平安であり助け主でもある聖霊様を私たちにお授けくださるのです。

では、そもそもですが、「イエス・キリストを信じる」ということはどういうことでしょうか。私はいつも「イエス様に期待する」ことですと申し上げます。だれもがそうではないでしょうか。例えば、神社仏閣にお参りに行って願うのは、そこにいらっしゃる神といわれる方に期待するからでしょう。しかし、「イエス様に期待する」というのは少し違います。イエス様を信じるから、イエス様が何かをしてくださるのではありません。イエス様が私たちのためにすでにしてくださったことを知ったから、イエス様を信じイエス様に期待するのです。

では、イエス様は私たちに何をしてくださったのでしょうか。それは、私たちの罪を一身に背負って、この世をお造りになった父なる神さまに、ご自身の命をささげ、私たちの罪を、イエス様の血によって洗い流してくださったからです。罪は死を意味します。罪を償うには、死をもって償います。では、イエス様のいのちと私たちのいのちとでは、どれだけの違いがあるのでしょうか。私たちは生まれながらの自己中心の罪人です。しかし、イエス様は神の聖霊によって生まれ、肉体は人間ですが、罪のない、聖い方でした。イエス様は神の御子と呼ばれています。その神の御子の聖いいのちを犠牲にして、私たちの罪を洗い流してくださるのです。何の罪のないイエス様は、十字架刑という最も残酷なローマの処刑方法によって、いのちを落とします。しかし、三日目に、死を克服し、復活され、天にあげられました。もともと神のひとり子であられますから、死を克服されたということは、永遠のいのちを取り戻したとも言えるかもしれません。イエス様は、イエス様を信じる者の罪を帳消しにするだけではなく、その人が永遠のいのちを受けるご準備をしてくださったのです。それを、私たちは、イエス様の一方的な恵みと申します。このことを一つの聖書の言葉が示しています。ヨハネの福音書3章16節、聖書中の聖書と呼ばれる言葉です。●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

私たちがイエス様を信じるのは、イエス様が何かをしてくださるからではありません。イエス様が私たちのために尊いいのちを投げ出され私たちを救うために、父なる神様にとりなしされたからです。私たちがイエス様に期待するのは、私たちの祈りや願いが、イエス様の思いと同じようになるためです。私たちの自己中心が、イエス様中心へと変えられるためです。

黙示録は、いろいろと難解な箇所の多い書物です。しかし、キリストを信じる私たちは、今日の中心聖句20章6節で救われるのです。「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」イエス・キリストを信じる者は、イエス様の再臨によって第一の復活にあずかる者とされ、天の御国で、聖なるものとして、賛美と祈りを永遠にささげる者とされるのです。これが、幸いなる者であります。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんにもお話をお聞きしたいと思います。八さん熊さんよろしくお願いいたします。

―――――

八: あ~、今日は、若さん、えらい熱はいってはったなぁ。

熊: しゃぁないやん。今日もわてらのけたら、女性ばっかりや。

そら、若さんも熱はいるはいる。

八: けんど、若さん、黙示録1章ずつ、神さまに導いてもらってたけど、

むずかしいとこ、ぜーんぶ飛ばして、結局、「信じる者は救われる」ちゅうことしか

いってはれへんのとちゃうか。この20章まで。

熊: あ、八も気が付いてた。若さんな、実は黙示録にがてやねん。

だって、しゃぁないで、わてら、イエス様の再臨のぞんでるやろ。

イエス様が来られたら、もうそれで、天国行きや。

黙示録のほとんどのこわーいところ、関係あらへん。天におんねんから。

八: せやなぁ。まあ、黙示録は、イエス様信じひんかったら、あんさん、こうなんねんでぇ~

みたいな。

熊: だから、イエス様の恵みが光んねんなぁ。

ま、せやけど、今日は、「目をさましていなさい」というところが、わてには光ったわ。

八: 「目をさましていなさい」から「聖霊にみたされなさい」

そして「聖霊様に心をあずけなさい」、、、、

熊: 若さん、「聖霊様に心をあずけなさい」とはゆうてはれへんで、

「聖霊様に支配されなさい」ゆうてはったんや。

そして、自己中心からイエス様中心へ、って。

八: せやったな。でも、わてら、「イエス様にあって自由や」ゆうてんねんけど、

「聖霊様に支配されなさい」って、ちょっと矛盾してんのとちゃうか。

熊: そうか。「イエス様にあって自由や」ゆうのは、「社会の目を気にせんでええ」とか

「既成概念にとらわれんでもええ」ちゅうこっちゃ。

八: けんど、あれやで。わてら、「既成概念のかたまりやで」。

「あれせなあかん、これせなあかん」ゆうて。社会生活してるからな。

熊: 社会生活はしてるけどな、ほんとに気にせなあかんことは、そんなにないと思うで。

八: なるほどなぁ。イエス様はわてらの日常生活にまで気を使ってくれはんねんや。

熊: 八、信仰生活と日常生活を分けたらあかんで。

八: わ、分かっとるわな。教会だけが信仰生活やなくて、日常生活に信仰があるんやって。

けど、ありがたいやないか、イエス様がわてらのすべてにかかわってくださんねんから。

熊: せやなぁ。「聖霊様に支配される」ゆうもの、考えようによっては窮屈ちゃうし。

だって、聖霊様がぜ~んぶ責任もってくれはんねんやろ。

八: まあ、それは、熊が聖霊様にぜんぶお任せしたらの話やで。

自分の欲得がでてきたらあかんで。

熊: そのぐらい、分かってるわいな。けんど、なんでも「おまかせ」っていうのはええよな。

わてなんか、いっぺんでええから、値札のないすし屋で、「おまかせ」ゆうてみたいわ。

八: あほぅ。そんなもったいないことしてどうすんねんな。

クルクルやったら何回行ける思てんねん。

熊: そんなん、あるわけないか。けんど、「イエス様におまかせ」なぁ。これええでぇ。

そやかて、イエス様が前払いしてくれてはんねんやろ。イエス様のおごりや。

いくらでも言うことききたいわ。

八: しらんでぇ、そんなことゆうたら、えらいことになるでぇ。

熊: なんでやねん。

八: だって、若さん、それイエス様にゆうたさかい、牧師にさせられてしもたんやから。

熊: そうやったな。そら、あかんな。イエス様に白旗あげたんやもんな。

八: 若さん、「イエス様におまかせ」コース、大変ですな。

―――――

八さん熊さん、牧師もええもんでっせ。なんやったら、かわりましょか。え?遠慮しとくって?

まあ、それの方がいいかもしれませんね。そっち側で気楽にやっといてください。今日もありがとうございます。八さん熊さんの言うとおり、「イエス様おまかせ」が一番いいのはわかってるんですけどね、どうしても、茶碗蒸しとウナギのにぎりを先に注文してしまうんです。なかなか自分の思いがイエス様の思いにならない、むずかしいもんですね。

さて、今から、黙想いたします。

●黙想:詩篇4篇をお読みいたします。

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書24章44節。

「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

では、黙想いたします。詩篇4篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:いのちの木

https://www.youtube.com/watch?v=4u5_T5pvFV4&t=1012s

●献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と共に捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡