メッセージ:「主にある奉仕」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年2月10日

担当:若竹孝行

メッセージ:「主にある奉仕」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:民数記4章~6章

4章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:49

「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれの奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

祭司レビ族には、ケハテ、ゲルション、メラリの三諸族がありました。彼らには、主によってそれぞれの奉仕が与えられました。ケハテ族は、宿営が移動するたびに、聖所のすべての用具を運ぶ役目が、また、ゲルション族は、幕屋の幕、会見の天幕などの幕とその用具を運ぶ役目が、また、メラリ族は、幕屋の板と柱や横木とその用具を運ぶ役目が与えられました。彼らが直接、それらに触れることのないように、覆いをかけて運ばれました。なぜなら、それらは聖なるものであり、それらに直接触れると、死ぬからであります。また、役目を仰せつかわっていない種族がたとえ覆いをかけてあったとしても触れると、死ぬのであります。

ある事故が、サムエル記第二6章6節7節に次のように記録されています。

それは、ダビデの一行が、丘の上にあるアビナダブの家に相当長期間置かれていた神の箱を、そのアビナダブの家から、新しい荷車に載せ、移していく途中の出来事です。

●「彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。」

ウザは故意に触ったわけではなく、聖櫃が落ちそうになったから、条件反射的に触っただけでした。しかし、ウザは死にました。これを読むと神の仕打ちが厳しすぎるのではないかと思われがちですが、神は聖櫃を運ぶのは、ケハテ族だけであり、それも、聖櫃に触れることのないように担ぎ棒を通して運ぶようになっていました。この事故は、神は愛のお方でありますが、何よりも神は聖なるお方であることを私たちに思い起こさせてくれます。その聖なる性質は旧約聖書時代も新約聖書時代も変わりません。ウザは実はアビナダブの息子で、聖櫃を見慣れていました。もちろん、聖櫃の中を見ることはありません。中を見ると死をまねくからです。が、しかし、ずっとそばにあった聖櫃ですから、緊張感が薄れていた、ウザに心の隙があったとも考えられます。それが、この事件の発端でしょう。なるべくしてなったとも言えるでしょう。慣れというのは、実に恐ろしい。礼拝のとき、心にあぐらをかいてしまっていないか、礼拝のたびに、チェックしないといけないでしょう。

さて、今朝は、私はこの聖櫃や聖所の聖なる用具などの取り扱いに終始するつもりはありません。現代の私たちが、この章から学ぶべきことは、わたしたちそれぞれに、主への奉仕の役割が与えられているということです。

一つ目の役割は、神に私たち自身のことについて、申し開きすることです。ローマ人への手紙14章12節には次のようにあります。●「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。」これは、パウロが兄弟姉妹同志、互いにさばきあわないようにするように勧めています。裁きは主のものです。主のかわりに人を裁くというのは高慢です。もちろん、法の裁きは別問題であります。日常的におこる人への非難、そして裁き。悲しいことであります。ですから、私たちは、人を裁いていないかどうか、自分自身をいつもチェックしなければなりません。このことは、「奉仕」というイメージではないかもしれませんが、わたしはこれも、具体的な主への奉仕をする前準備であり、「奉仕」の根底にあるものだと信じています。聖い神への奉仕は、それ自身聖いものであり、その奉仕をする者も聖くなければいけません。もちろん、私たち自身で聖くなることはできません。イエス様の血潮によって、悔い改めて聖くしていただかなければいけません。ですから、奉仕をする前に、日常的に私たちの行動をチェックし、悔い改めへと導いていただかなければいけません。

さて、二つ目の役割は、「とりなしの祈り」であります。隣人の霊魂の救い。パウロは「福音を宣べ伝える」役割を次のように表現しています。1コリント9章16節、23節です。

●「私は福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」

●「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」

福音宣教だけではなく、「とりなしの祈り」も、先に救われた者の責務です。祈りは力です。祈りの力を信じるべきです。がむしゃらに祈ることも必要ですが、主の御心がどこにあるのかをさぐり求めながら祈り続けることも大切です。祈りは聞かれますが、御心に合わない祈りは、的外れになってしまうでしょう。とても難しいことですが、「主の御心通りになりますように」と主の応答を待つ姿勢も大事です。また、「とりなしの祈り」は、ブーメランのように私たちに帰ってきます。他の方々のために祈る祈りは、聖い祈りであり、主がその祈りをお聞き届けくださる場合は、私たちに「励まし」という力を与えてくださいますし、祈りがなかなか聞き届けられない場合は、私たちに「忍耐」という力をくださいます。

そして、三つ目の役割は、教会での実質的な奉仕であります。

●「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(1コリント12:27)

●「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(コロサイ1:24)

教会のかしらはキリストです。なぜなら、教会や集会というものは、欠けのあるものです。その欠けを補ってくださるのが、聖霊様であり、キリストです。キリストが私たちのかしらである限り、私たちが、主のために、主に良かれと思ってしたことでも、しょせん私たちは不完全なものですから、かならず欠けがあります。ですから、その欠けをうめ、その弱さを強くしてくださるのがキリストであります。私たちは、不完全な者であったとしても、教会のそれぞれに重荷を負って、主に用いられます。そして、その重荷は、主が手伝ってくださって、軽くしてくださるのも事実です。主に期待しつつ、教会での奉仕を喜びとすることが大切です。主に求め、主に手を差し出す者には、かならず主がご自身のもとへと引き戻してくださいます。このことを信じられる人は、幸いであります。表に立つ奉仕も裏方の奉仕もかわりません。しかし、表に立つ奉仕は危険がともないます。人々はその奉仕者をほめてしまうことが往々にしてあるからです。栄光は主のものであります。ですから、表に立つ奉仕者は、特に謙虚でなければなりません。その危険にさらされる最も危ない奉仕が、主のみ旨を代弁するメッセンジャーである牧師でしょう。「今日の説教は良かった、恵まれました」と言われれば言われるほど、危険度が増します。ほめるのであれば、牧師ではなく、またほかの奉仕者でもなく、主をほめたいと願います。奉仕に対するねぎらいの言葉は「ありがとうございます」で十分であり、それ以下でもそれ以上であってもいけないのではないかと、私は個人的に思わされています。

ご自分が主のために何ができるのか、その能力や機会を与えられているのか、またどのような役割をしたいと思わされているのか、聖霊様に導かれているのか、静まって主に問う時間を持つようにしてみましょう。

主を深く知れば知るほど、自分が何をすべきなのか、主のみこころがどこにあるのか、主がお語りくださるでしょう。心の目を主に開いていただきましょう。

黙想いたします。黙想の時に、「心の目を開いてください」という曲を聴いていただきます。

心の目をひらいてください

https://www.youtube.com/watch?v=TqXKTTI7XA8&list=RDMMTqXKTTI7XA8&start_radio=1

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。