ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.2.13主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年2月13日主日礼拝式を始めます。
賛美①:いつくしみ深き
https://www.youtube.com/watch?v=tjbyanYNDBs
賛美②:私は奇跡を信じる
https://www.youtube.com/watch?v=QdsPLFZgKXk&list=RDGMEMXdNDEg4wQ96My0DhjI-cIg&start_radio=1&rv=eE0s8HRv3_I
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:主はわれらの太陽 (2月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=ZWktcXSPVCY&list=RDGMEMCMFH2exzjBeE_zAHHJOdxg&start_radio=1&rv=S7eZhG68gAs
賛美④:きみは われのまぼろし
https://www.youtube.com/watch?v=Gdnyc_D_ucc
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
讃美⑤:いとも良きものを
https://www.youtube.com/watch?v=Ino-h2YoQ1M
【YOUTUBE配信開始】
2022年2月13日 主日礼拝メッセージ
メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節
●「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
●聖書拝読:ヨハネの黙示録21章(新改訳聖書)
中心聖句:
「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(3-4)
メッセージ主題:『神の民となる』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
●メッセージ
黙示録21章は、新天新地、新しいエルサレムのことが記されています。神の民、神の子がこの新天新地での住民となり、いのちの泉から価なしに飲むことができ、勝利を得る者とされる。つまり、永遠のいのちを得、平安と喜びのうちに、主を賛美し、主の御名を褒めたたえ、祈りに終始することを許される。
しかし、残念ながら、この新しいエルサレムに住むことの許されない人々がいます。それは、8節に説明されています。●「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」この8節だけ見てみますと、臆病者や不品行の者、嘘をつく者も、永遠のいのちをうける資格はないことになります。私たちは罪びとですから、臆病になることも嘘をつくことも、そして不品行を犯してしまうこともあるでしょう。では、私たちは救われないのでしょうか。しかし、キリストであるイエス様は、私たち罪人を救うために、この世においでくださいました。聖なるイエス・キリストの十字架での血潮によって、キリストを信じる人は、彼らの罪が洗われ、神の目に「罪なき者」として映り、神の裁きは過ぎ越されるのです。それが福音であり、その事を信じなければ、イエス様の十字架の死は、まったく犬死であり、復活はたわごととなってしまうのです。この8節で描写されている人々は、イエス・キリストの十字架とその復活を信じない人、イエス・キリストを否定する人のことです。ヘブル人への手紙では、12章25節に次のようにあります。●「語っておられる方をこばまないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」神を否定する、つまりは、神がお送りくださったキリストを否定する人は、新しいエルサレムには招かれないのです。
6節で、御座に着いておられる方が、「事は成就した。」とおっしゃいました。これは、予告されていた、キリストの再臨、そして新天新地であり新しいエルサレムが、現実のものとなることを物語っています。それは、イエス様が十字架上での言葉、救いの準備がすべて整ったことをうけ、「テテレスタイ、完了した」と明言されました。ヨハネによる福音書19章30節にあります。●「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」霊をお渡しになった時の言葉が最後で、ルカによる福音書23章46節●「イエスは大声で叫んで、言われた、『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」と記録されています。イエス様は、私たちを救わんと地上でのすべての準備を終了し、「完了した」とおっしゃって、そして再び私たちを天の御国に迎えるために来られる時、「事は成就した」とおっしゃって、私たちを招き入れてくださいます。
私たちが天に御国に招かれる時は、キリストが再度地上に降りてこられる、つまり再臨の時であり、今は、その準備中、いえ、主は、再臨のタイミングを図られておられます、それは神のみぞ知る時であり、私たちには知ることのできない時であります。ですから、常に私たちは目をさましていて、誠心誠意、いつなんどきでも、主を喜び、主に祈り、主に感謝すべきなのです。ひと言でいえば、「まず、主を求める」ということです。イエス様は、日々の生活の中で、「まず、主を求めなさい」とおっしゃっておられます。それが、マタイの福音書6章33節です。●「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」また、マタイ書の7章7節8節には、次のようにおっしゃいました。●「求めなさい。そうすれば与えらえます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」『日々の必要を求める前に、神の国でありその義である主、イエス・キリストを求め、信頼しなさい。後のことはわたしに任せなさい』とおっしゃっておられるのです。本当は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」この御言葉に尽きるのですが、臆病者の私たちは、なかなかその境地に至りません。
私は、高所恐怖症です。高いところは好きではありません。ガラス張りの真下がみえる展望台で、なかなかそのガラスに脚を踏み出す勇気がありません。「もしも、そのガラスに見えないヒビが入っていたら」と想像すると、足がすくんでしまいます。まったくの臆病者でございます。仮にイエス様がてまねきしてくださっても、無理かもしれません。そういう意味では、使徒ペテロよりも臆病者でしょう。なにせ、イエス様の招きに応じて、ペテロは水の上を歩こうとしたのですから。また、かりにイエス様が手を取ってくださって、ガラスの上を歩いてみなさいとおっしゃっても、しり込みしてしまうぐらい、頑固です。では、どうしたら、高所恐怖症の私が、そのガラスの床を渡れるのでしょうか。私はいろいろ考えた末、これだったら渡れるという方法がわかりました。それは、イエス様にわたしをおんぶしていただくことです。これだったら、私は、恐怖心よりも、イエス様の背中におんぶされる安心感の方が勝ると思いました。泣きじゃくっている子供が父親の背中で安心して寝入ってしまう。それと同じです。そして、気が付いたのです。臆病者で、かつ頑固者の私は、イエス様におんぶされるしか、私が安心して生きる道はないことを。
あるお話を聞いたことがあります。イエス様と共に歩ませていただいている時は、4つの足跡が、ところがある時は2つの足跡しかない。苦しみの時にイエス様はいらっしゃらなかったのか。いえ、そうではなく、イエス様がおんぶしてくださっていたのです。
今の私は、イエス様におんぶしていただいている状態です。ぜったいに降りません。イエス様の背中というこんな居心地のいい安心できるところはないからです。苦しい時も、楽しい時も、悲しい時も、喜びの時もいつも、私の居場所はイエス様の背中です。
おんぶは実にいいものです。おんぶされる人とおんぶする人は、優しい会話をしています。そして、おんぶされる人は、その安心感からか、本音をもらすことが多くあります。苦しいことを告白したり、悔しかったことを聞いてもらったり、悲しかったことを慰めてもらったり、面と向かって話すことが、こっぱずかしくても、同じ方を向きながら、目線を合わさずに話すと、なぜか素直になれます。そして、一番いいことは、おんぶしている人が行こうとしている道が見えているということです。イエス様の背中でおんぶされる時も同じであります。おんぶされていることによって、私たちが行こうと思う道ではなく、イエス様が私たちを連れて行こうとする道が見えてくるのです。
イエス様は、十字架で最後を迎える時に、『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』とおっしゃいました。「ゆだねる」ということ、自我のある私たちには、すべてを主にゆだねることはできません。なぜでしょう。「ゆだねてしまうと、自分がなくなってしまうのではないか」と思って、ある種の恐怖を覚えるのではないでしょうか。しかし、私のように、「ゆだねる」という言葉を「イエス様におんぶしていただく」と言い換えればどうでしょう。ほとんどの人が父親の背中におんぶされて、えも言えない安心感をいだいたのではないでしょうか。イエス様が天の父なる神様に、霊をゆだねなさったということは、地上でのすべての業を終え、父を信頼し、安心して主にすべてをたくされたのです。
皆さんも、イエス様の背中におんぶしてもらいたくはありませんか。
今日のメッセージのタイトルは、祝福でもある「神の民となる」であります。神の民は、「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。この天の御国での平安と喜びは、私たちの心を満たし、何の心配も不安も恐怖もない、安心感でつつんでくれるでしょう。そして、その安心感は、イエス様の恵みとして、今、私たちが経験することを許されているのです。
さあ、イエス様の背中におんぶしてもらいませんか。ほら、イエス様は私たちがイエス様の背中に乗れるように、私たちよりも低く、身をかがめてくださっておられます。
さて、今日も天国長屋の八さん熊さんにご登場いただきましょう。
八さん熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: イエス様を信頼して、すべてをゆだねる、
ちゅうことが、イエス様におんぶしてもらうことでっか。なるほどねぇ。
わても、おとつぁんにおんぶしてもらうの、好きやったわ。
熊: イエス様は、マタイの福音書11章28節から30節で、次のようにおっしゃってはる。
●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。」っておっしゃったんやけど、
若さんは、その上いきはんな。
八: それ、どういうこっちゃ。若さんが、その上いきはるって。
熊: だってそやないかいな。イエス様は全部の荷物を負ってあげるとはおっしゃれへんかった。
イエス様の軽い荷を負いなさい、ゆうてくれはんねん。
けんど、若さんは、自分もおぶってもらって、荷物なんてもってはれへん。
八: あ、そうか。おぶってもらってたら、荷物もたれへん。
イエス様の首にしっかり、しがみついておかなあかんからなぁ。
熊: イエス様もなんぎやろうなぁ。重荷をもつだけやのうて、若さんかつがなあかんねんから。
八: そやろ。それに、若さん、このコロナの二年間で8キロも肥えたゆうてたし、
イエス様も大変や。これ以上、若さん肥えたら、イエス様かて腰いわすで。
熊: そやなぁ。ダイエットして、自分勝手からくる心の重荷もかるうせんとな。
八: そやで、若さんかって、これ以上体重ふえたら大変や。
イエス様の首にしがみついておかなあかんねんから。
熊: それが、イエス様を求めるちゅうことかも知れへんな。
八: しがみついておくことがかいな。
熊: そやで。しがみつくことによって、イエス様の背中と自分の胸や腹がぴたっとくっつく。
そうすると、イエス様も動きやすい、導きやすいちゅうもんや。
八: イエス様が導かれるのは、天の御国や。
おんぶされたまま、天の御国到着ちゅうのもええなぁ。
熊: 天の御国に付いたら、降ろしてもろて。天の御国は喜びと平安につつまれた、新天新地や。
そんじょそこらの新地とちがうで、永遠のいのちを授かるところや。不老不死や。
八: そこで、神の民として、うれし涙はあっても、悲しくつらい涙はあれへん。
熊: イエス様は、わてらのために、居場所を作ってくれはってる。
八: そや、それは、イエス様の約束やからな。ヨハネの福音書14節2節3節や。
●「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えにいくのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を整えたら、また来て、
あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです。」
熊: いやはや、らくちんらくちん。イエス様がわてらの居場所を作ってくださって、
わてらはおんぶしてもろて、いたれりつくせりちゅうのは、こういうこっちゃな。
八: そや、天の御国ではこの上ない幸せが待ってる。
熊: それに、わて、天の御国にちょっとホッとしてることがあんねん。
八: なにや、その熊がホッとすることって。
熊: わて、かなづちかさかい。
八: 熊は、大工やから、かなづちぐらいもっとるやろ、それがどうしたんや。
熊: いや、そのかなづちとちごて、わて泳ぎはまったくダメやろ。だから安心やねん。
八: なんど泳ぎできいんかったら、天の御国は安心やねん。
熊: そやかて、新天新地には、海がないから。
―――――
八さん熊さん、ありがとうございます。熊さんは金づちですか。新天新地には海はありませんから、よかったですね。イエス様に愛想つかされんように、せいぜいダイエットします。それに、御言葉をたべて、心のダイエットもせなあきませんね。御言葉は噛めば噛むほど味わい深く、また食べれば食べるほど、いらんものがそぎ落とされるかんじですから。
では、黙想いたしましょう。黙想箇所は、詩篇116篇です。
●黙想:詩篇116篇をお読みいたします。
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書16章33節。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
では、黙想いたします。詩篇116篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:今日まで守られ
https://www.youtube.com/watch?v=QLQ_rllmylw&list=RDGMEMgGOgHdkrBSNHvacS9Sp8bg&start_radio=1&rv=IDj7uFkIqRY
●献金の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と共に捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡