メッセージ:「心の隙」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年2月17日

担当:若竹孝行

メッセージ:「心の隙」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:民数記25章~27章

25章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:1-2

「イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

3節に●「イスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。」とあります。「くびきをともにした」とは、「くっついた」「親密な関係となった」ということです。「くびき」で思い起こすのは、イエス様の「わたしのくびきを負いなさい」というお言葉です。『わたしと密接な関係をもちなさい』とおっしゃっておられたのだと、この「くびき」という言葉だけで、イエス様の慈愛に満ちた眼差しを想いうかべることができることは、まことに感謝なことです。このままイエス様のことを語らせていただきたいという衝動にかられるのですが、今朝は民数記でありますから、少し我慢して、25章を見ていきましょう。

「イスラエルは、バアル・ペオルとくびきをともにした。」イスラエルの神以外のほかの神を受け入れたことになります。そして2節に「民は食し、娘たちの神々を拝んだ」とありますように、イスラエルは偶像礼拝をしてしまったのであります。イスラエルが偶像礼拝に陥ったバアルとは、カナンの地では最も人気のある神であったそうです。バアルは、雨と収穫の神であり、カナンの肥沃な土地での農耕神でありました。イスラエルが、まさに入ろうとしていたカナンの地の農耕神に、イスラエルは魅了されて行きました。

イスラエル遊牧民族の神、創造の神であるヤハーウェ信仰と、カナンの地に以前からあった農耕神の信仰との間での、人々のせめぎ合いがあったと思われます。では、イスラエルは、なぜバアルに魅了されていったのでしょうか。ひとつの理由としては、神に導かれてエジプトを脱出し、カナンの地を目ざして40年間という長い年月の試練の旅は、イスラエルを疲弊させていったということです。そして約束の地、カナンを目前にして、肥沃な土地での豊富な食べ物に我を忘れてしまいました。そのことが、2節のところにある●「その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し」という記述に示されています。

昔からよく言われるように、男性の気を引き、また亭主を家庭に戻って来るようにするには、「男の胃袋をつかむ」という表現があります。今も昔も、おいしい食事というのは、恋愛においても結婚においても長続きの秘訣のひとつのようであります。イスラエルもこのおいしい食事に心を許してしまった感があります。衣食住という生活の基本の中でも、食がなければ生きていけません。イスラエルは、神さまからいただく日々の糧であった、あまり味気のないマナに飽きてしまっていた、感謝の気持ちが薄らいでいたのではないでしょうか。なにせ、40年間、毎日マナを食べ続けたのでありますから。

そして、もう一つの理由は、色気であります。動物としての人間の基本には、食欲と性欲があります。種族の存続のためには、この二つは必要不可欠です。私たちの神も、食欲と性欲に関して、子孫を残すという意味においても、主の栄光を現す意味においても、許されているところです。ただし、この25章では、モアブの娘たちとの淫らな性行為があったことが記されており、神はそのことをお許しにはなりません。罪は死をもって償わなければなりません。バアルを拝んだ罪によって死んだ者は、二万四千人でありました。

二万四千人という死者の数が、この罪の償いとして多いのか少ないのか、私には分かりません。ですが、26章で記されていますように、結局、約束の地に到達したモーセが率いたイスラエルの民は、●「エフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかにはだれも残っていなかった」とありますから、神への不信仰に対する神の怒りは相当なものであったと考えざるをえません。

しかし、この時には、ある一人の祭司の行動によって、神の怒りは鎮められました。11節にそのことが記されています。●「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを断ち滅ぼすことはしなかった。」 神のねたみを自分のねたみとする行動とはどういうものだったのでしょうか。6節から8節に記されていますが、神を恐れず罪を犯したイスラエルの男とその罪をともにしたミディアン人の女を、槍で腹を刺して殺したというものです。

では、神の怒りが自分の怒りとなる正当性はどこにあるのでしょうか。それは次の自問によって検証されなければならないでしょう。①なぜ、私は怒りを覚えるのか。②誰の権利が侵害されているのか。③神の真理が損なわれていないか。そして、怒りの正当性が検証されたとしても、暴力や報復は、怒りを表す間違った方法であることは覚えておかなければなりません。その上で、ピネハスの怒りの行動は例外中の例外だということができます。しかし、この聖書の箇所では、ピネハスの行動は、主によって正当なものと認められ、ピネハスと彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となることが約束されました。

神は、ピネハスの行動を、イスラエル全体の悔い改めともとられた可能性があります。イスラエルは、食欲と性欲に基づいた罪と偶像礼拝の罪を犯しましたが、犠牲とともに、悔い改めによって、赦されました。私たちは実に弱い生き物です。特に誘惑には弱い。食欲や性欲だけではなく、名誉欲、所有欲、金銭欲など、リストをあげればきりがないかもしれません。しかし、それらの欲は誘惑によるところが多いのではないでしょうか。それもほんのか細い声で、耳元で誘惑するのです。そのか細さゆえに、人は聞き入れてしまいます。では、その誘惑を断ち切るのは、どのような判断基準が必要なのでしょうか。私は、その基準は御言葉にあると信じています。イエス様は40日40夜、断食をして、わざわざ悪魔に誘惑をさせました。マタイの福音書4章1節から11節にあります。3回、悪魔はイエス様を誘惑しますが、3回とも御言葉を用いて、その誘惑を退けます。ここに真理があります。誘惑に対する防御は、私たちの強い意志ではありません。御言葉とその御言葉を信じる信仰です。

これは、日ごろから聖書を読み、御言葉を味わい、黙想し、祈り、その御言葉を自分のものとしようとする積極性によって培われる、いえいえ、聖霊様がそのように培ってくださるのだと思うのです。心の隙はだれにでもあり、誘惑はだれにでも訪れます。しかし、その防御は御言葉とその御言葉を信じる信仰にあります。神への恐れにあります。弱さを認め、主にすがろうとする時こそ、主は聖霊様を通して、より多く働かれるのです。自分の力ではなく、主の力を信じ、主に拠り頼みましょう。そして、御言葉とその御言葉を信じる信仰によって、誘惑を断ち切る力をいただきましょう。

黙想いたします。黙想の時に、「より頼む」という曲を聴いていただきます。

より頼む

https://www.youtube.com/watch?v=yayg-1YVh5g&list=RDZWktcXSPVCY&index=2

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。