メッセージ:「主にすがるなら」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年2月24日

担当:若竹孝行

メッセージ:「主にすがるなら」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:申命記10章~12章

11章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:22-23

「もしあなたがたが、私の命じるこのすべての命令を確かに守り行い、あなたがたの神、主を愛して主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

この申命記11章では、「今日、あなたがたに命じる命令を守りなさい」ということが執拗にでてきます。その命令を守れば豊かな祝福が、そむけばのろいがあると告げられています。その命令とは、いくつかあります。13節●「あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよ。」16節●「気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。」18節●「あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付き、記章として額の上に置きなさい。」19節●「それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。」20節●「これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。」22節●「あなたがたの神、主を愛して主のすべての道に歩み、主にすがりなさい。」

これらの命令の初め13節と終わりの22節は同じことを告げています。『主を愛し、主に仕える、また、主を愛し、主の道を歩み、主にすがる』 「主に仕える」ということは、「主の道を歩み、主にすがる」と言うことなのかも知れません。これは、私たちの発想の転換的なことではないでしょうか。「主に仕える」とは、「主に私を用いてください」とお願いするのと同じかもしれません。しかし、「主にすがる」とは、「主に全てを明け渡す、主により頼む」ギブアップして白旗をあげるということでしょう。「主に仕え、主に私を用いてください」とお願いする以前のこととして、「主にすがり、主により頼み、主に全てを明け渡す」ということがあるように思われます。

今朝は、この「主にすがる」ということをもう少し黙想してみたいと思います。

新改訳3版も2017版も、「主にすがる」という表現をしていますが、新共同訳では「主につき従う」となり、フランシスコ会訳でも「主につき従う」となっています。リビングバイブル訳では、「主に頼る」とあります。また、英語訳は、総じて hold fast to Him つまり、「しっかりと主にしがみつく」という表現が使われています。この英語にいちばん近い日本語表現は「主にすがる」ということになるでしょう。ということは、先ほど私が申しました、「主にすがる」=「主にすべてを明け渡す」とは違ってきます。「主にすがる」とは、「明け渡す」というのとはちがって、もっと必死、切実感があるように思います。英語のhold fast という言葉を聖書語句辞典で調べてみますと、ヨシュア記22章5節にも、今日の中心聖句と同じ表現がでてきました。●「ただ、主のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい。」残念ながら、ほぼ同じ表現ですから、これでは意味のふくらみが出て来ません。つぎに第二列王記18章6節には、●「彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った」とあり、「主に堅くつき従って離れることなく」が「主にすがる」という箇所でした。新約聖書には、残念ながら、この「主にすがる」という表現はでてきません。

「主にすがる」には、「どんなことがあっても、主から離れない」という、決意が見え隠れしています。このことで私が思い出されますのが、ルカの福音書18章35節から43節に表されています、あるエピソードです。少し長いですが、全文を読んでみたいと思います。

●「イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた。彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、彼は大声で、『ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください』と言った。先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく『ダビデの子よ、私をあわれんでください』と叫んだ。イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。『わたしに何をしてほしいのですか。』するとその人は答えた。『主よ目が見えるようにしてください。』イエスは彼に言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。』その人は直ちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。」この一人の目の見えない人は、マルコの福音書によれば、バルティマイという人でありました。(10:46-52)

このエピソードには「主にすがる」という表現は出て来ませんが、このエピソードには「主にすがり求める者」の二つの祝福が記されています。「キリストは、主にすがり求める者の声に耳を傾けてくださる」「キリストは、主にすがり求める者の人生を新しくしてくださる。」

「キリストは、主にすがり求める者の声に耳を傾けてくださる」

三つのキーポイントがあります。

1番目にバルティマイは、イエス様がキリストであると告白しています。「ダビデの子イエス様」とバルティマイは、告げます。ダビデの子イエスとはキリストのことを意味します。バルティマイは大声でイエス様がキリストであることを信じ、そのように告白しています。

2番目に、バルティマイは、信仰の妨害に屈しませんでした。先を行く人たちが、バルティマイを黙らせようとしますが、彼はますます激しく、告白し、救いを願います。

3番目に、イエス様はバルティマイの声に耳を傾けます。そして彼に望みは何かを尋ねます。もちろんイエス様はバルティマイが望んでいるものが何かはもともとご存じですが、彼が願いを口に出すことを待っておられたのです。告白することの大切さがここにあります。イエス様に願い求めることを口にだすことで、その人はイエス様を信じたことになるからです。

「キリストは、主にすがり求める者の人生を新しくしてくださる。」

バルティマイの「目が見えるようにしてください」という願いに対して、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃって、目をいやされます。ここで注意したいことは、「あなたの信仰があなたを救った」ということです。これは、決して信仰が強いから救われる、信仰が弱ければ救われない、という話ではありません。信仰は聖霊様の働きです。私たちの努力ではありません。「あなたの信仰があなたを救った」とは、神の憐れみが働かれたことを意味しています。また、そのようにとりなしをされたイエス様の愛の現われでもあります。そして、目の癒やしを受けたバルティマイは、新たな人生、目の見える人生を送ることになりますが、それだけではありません。「イエスについて行った」とありますから、主に従っていく人生へと変えられたことを意味します。これこそが、本当の意味で新しい人生、喜びと平安の人生であり、主イエス様を信じ、主にすがる人の姿なのです。

さて、「主にすがる」ということを見させていただきましたが、「主にすがる」過程として、(1)「イエス様がキリストであることを告白する」(2)「妨害に屈しない」(3)「祈りは必ず聞き届けられると信じ、口に出して言う」(4)「聞き届けられたと感謝する」(5)「イエス様に従っていく」ということの連続であることが分かってきました。「主にすがる」ことによって、私たちの人生は、今日、さらに新しくされるのです。そして「主にすがる」ということは、神の憐れみでもありますが、私たちの主への応答として、神を信じているということを告白し、またどんなことがあっても神から離れないという決意をともなうことでもあります。どうか、主の力と憐れみを信じ、つねに「主にすがる」ことを忘れない者とさせていただきましょう。「主にすがる」者には、必ず豊かなる祝福が受けられると、主が約束されておられます。どうか、そのことを一点の疑いもなく、信じ歩ませていただきましょう。

黙想いたします。黙想の時に、「聖い心」という曲を聴いていただきます。

聖い心

https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY&list=RD66Smhfbq-D0&index=17

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。