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メッセージ主題:『夕があり、朝がある』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.2.27主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年2月27日主日礼拝式を始めます。

賛美①:人生の海の嵐に

https://www.youtube.com/watch?v=IDj7uFkIqRY

賛美②:主を仰ぎて

https://www.youtube.com/watch?v=Viar5edeGzU&list=RDGMEMXdNDEg4wQ96My0DhjI-cIg&start_radio=1&rv=8dq4uQd8CjU

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:主はわれらの太陽 (2月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=ZWktcXSPVCY&list=RDGMEMXdNDEg4wQ96My0DhjI-cIg&index=1

賛美④:花も

https://www.youtube.com/watch?v=nLOKGTBm3ug

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:丘にたてる荒削りの

https://www.youtube.com/watch?v=R0TvOMBFvfk

【YOUTUBE配信開始】

2022年2月27日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を当たらにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記1章(新改訳聖書)

中心聖句:

「神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。」(5)

メッセージ主題:『夕があり、朝がある』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

今週から、「創世記」となります。創世記は50章ありますから、約1年かけて創世記を通して福音を伝えていきたいと思います。

創世記の1章1節には、●「初めに、神が天と地を創造した。」と、この世界は偶然の産物ではなく、神が意図的に創造したと明言しています。この宇宙を知れば知るほど、規則性があり、神が全知全能をもって創造したと考えざるを得ません。私は以前にも申しましたが、心臓のバイパス手術をし、その時に無機質の世界、死の世界のまぼろしを見させていただき、この有機的な世界は、神さまの恵みであふれているという、この世は、まさに神さまが愛を注ぎ込んでお造りになられた世界であると確信しました。

そして、闇の中に「光よ、あれ。」と仰せられ、光を生み出し、闇と光を区別されました。闇は夜となり、光は朝となりました。「闇の中に光が差す」ここに聖書の基本があります。混沌という闇の中に、真理という光がさしました。「無秩序の中に秩序が現われ」「死の中に命が現れました」

神さまは、六日間でこの世のすべてをお造りになられました。第1日目には、光と闇。第2日目には、大空と水。3日目には、陸地と植物。4日目には、太陽と月星。5日目には、鳥と魚。6日には、動物と人間。そして7日目は休息とされました。この創造の六日間は、「こうして夕があり、朝があった」と1日1日を締めくくっています。1日の締めくくりが夜ではなく、朝であることは、とても興味深いことです。次の日につなぐこと、夜の終わりである朝がある、ここにおいて、神さまの永遠性を垣間見ることができます。まさに、「闇の中に光が差す」聖書の基本があります。

使徒ヨハネは、世界の創造を「ことば、ロゴス」で表現しました。1章1節●「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」4節●「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」5節●「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」キリストが、罪の世界という闇に、世の光として来られた。ここにも聖書の基本である「闇の中に光が差す」ことが印象付けられています。またイエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪を一身に背負って、ご自身の聖いいのちによって私たちの罪を帳消しにしていただき、死という闇が覆いましたが、三日目に死を克服してよみがえり、光が再び差しました。再び、「闇の中に光が差した」のです。「夕があり、朝がありました。」そして、最終の黙示録が描く、最後の審判をへて、「新しいエルサレム」では夜のない永遠の世界に、私たちは招かれるのです。(黙示録22:5)

では、私たちは、この「夕があり、朝があった」という聖書の基本である「闇の中に光が差した」ということを、どのように、私たちの日常生活に取り入れればよいのでしょうか。

一つには、「明日がある」という希望です。もちろん、私たちがこの世で死を経験するとき、この世での明日はありません。ところが、この世での死を経験し、目を閉じて、再び目覚める時、それは天の御国で、主を賛美し祈る永遠の時間におかれていることを意味します。では、この世で、「明日がある」ということは、私たちにどのような意味があるのでしょうか。イエス様は●「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイの福音書6:34)とおっしゃいます。『今日できるだけのことし、明日の心配は無用』『一日一日を主に感謝し、大切に生きなさい』とおっしゃいます。しかし、明日の計画を立ててはいけないとか、明日という日はないとはおっしゃっておられません。いえ、明日という日は当然あるものとして語られています。「夕があり、朝があった」ということですから、明日と言う日に期待するのは当然のことです。しかし、こうも考えられないでしょうか。明日に期待するから、今日も頑張れる。今日の頑張りが明日のためにあるとも言えますが、明日が今日を充実させてくれるとも言えるのではないでしょうか。もちろん、イエス様が聖霊様を通して、今日と言う日を充実させてくださるのですが、私はどうも明日に期待しつつ、今日という日を主と共に歩ませていただいているような気がするのです。うまく説明できないのですが。

と、ここまで導いていただいて、煮詰まってしまいました。主が私の手を止め、黙想しても、祈っても、何も出てきません。仕方がないので仮眠をすることにしました。仮眠は2時間のつもりでしたが、結局4時間与えられました。これからのメッセージは、私の手が止まってから、5時間後に導かれたものです。

また、もう一つの「夕があり、朝があった」の意味は、私たちの一日は、朝から夕までで、夜は明日のための一日の疲れを癒やす時間ですが、神の一日の区切りは朝までです。神に休息はありません。神は夜も働かれています。一日の区切りを夜明けまでだとすると、夜も仕事だと考えられます。一方、人間である私たちは、毎日24時間休息をせずに働くわけにはいきません。が、しかし夜の睡眠が、明日の活動のためのものではありますが、その睡眠をも仕事だと考えますと、その日の仕事の疲れを睡眠をとおしてとるのは、今日の仕事の締めくくりであるということになります。つまり、睡眠も大切な仕事であり、明日のための睡眠ではありますが、その日においての最後の仕事ということになります。

私は、今回、創世記の1章を改めて読み直して、なぜ「夕があり、朝があった」というところが気になったのか、主がなぜこの「夕があり、朝があった」に心をとめさせてくださったのか、分かったような気がしました。私は、昼間の仕事やしなければならない事を優先するあまり、1日24時間の中で睡眠の時間を削るしかない生活をずっと続けてきました。特に牧師にさせていただいてからはそうでした。睡眠を軽視しているわけでないと自分では思っていなかったのですが、睡眠は優先順位の最下位でした。そのような生活に終止符を打ちなさいと、主は私の心臓を打ち、11時間にもおよぶ心臓バイパス手術を経て、よみがえらせていただきました。しかし、私はあまりにも頑固、いやアホでした。食生活や睡眠軽視の生活を改善しなさいと主は直接行動に出、また周りの人々を用いて、そのことを再三再四忠告してこられたのに、心の中で「だって、しかたないやん。やることいっぱいあるし、ぼくかて、好きで睡眠不足やってるわけやあらへん。そもそも、主の仕事がふえてる。主の仕事は感謝や、けど、、、神さま、あなたが責任もってください。特に小阪チャペルに導いていただいてから、どんどん他の主の御用が増えているし。」とつぶやいておりました。そんな中でも、最近なるべく睡眠時間を増やすようには意識していました。この小阪チャペルの主日礼拝が夕方になったのも、私の睡眠時間を増やすことが目的のひとつでした。ですが、やはり睡眠を主から与えられた、一日最後の仕事であるとは、今の今まで、このメッセージを作っていて、煮詰まってしまったときまで、気が付きませんでした。主は私に、この「夕があり、朝があった」という御言葉から、何を気付かせたかったのか、何を語らせたかったのか、今ようやく分かったような気がします。これは私への個人的な『気付かせ』であったのです。申し訳ございません。皆さんへのメッセージではありませんでした。

神は、六日間の創造の手を止め、七日目を「安息日」とされ●「すべてのわざを休まれ」ました。このことは2章に記されています。また、●「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とありますように、安息日は「祝福」されて、また同時に「聖別」されました。そして、安息日を守ることは、十戒の一つともなっています。また、安息日にかかわらず、休息をとることは、人間のいとなみにおいて、適切で正しいものであることを、神は安息日を通して、私たちに示されておられます。休息や睡眠は、主が示された、私たちのとるべき時間なのです。休息や睡眠は、主が、創造の六日間の中で、私たちにとって必要であることを、「夕があり、朝があった」という言葉の中に込められているのではないでしょうか。事実、現代の科学では、人は睡眠をとっている時間に、身体は、より多く成長しているということが分かってきました。神は私たちを成長させるために、そして疲れを癒やすために、また傷やこわれた箇所を修復するために、睡眠という、神が、私たちの身体に対して、もっとも集中して働かれる時間を設けてくださっているのです。実に、睡眠不足は、神のわざを妨げる行為だったのです。私は神に従っているつもりでしたが、実は、神の仕事をじゃましていたのです。睡眠も一日の最後の仕事であり、睡眠をとってやっと、私たちの一日が終わる。そして、睡眠中に、神は私たちの身体のメンテをされ、また成長という改良を加えてくださるのです。「夕があり、朝があった」世界の創造の時から、神は私たちに朝を迎えさせるために、「闇の中に光が差す」ために、私たちに睡眠を与え、その間に神は直接私たちの身体のメンテという仕事をなされるのです。睡眠不足は、主の栄光を現さないばかりか、主の仕事をじゃましていること、そして、人の子は安息日の主でもありますが、睡眠の主でもあることを覚えさせていただきましょう。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場していただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 「睡眠不足は、神さまの働きのじゃまをしている」

これには若さん、冷や水をあびせられたやろな。

熊: せやな。わてらが口酸っぱくして、「睡眠、ちゃんととりや」ゆうても、

なかなか言うこときかへんかったさかいなぁ。

八: けど、最近、すこしましになってきててんけどなぁ。

熊: せやけど、やっぱり、神さまからピシャーっと言うてもらわなあかんねん。

これから、もっと忙しなるんやから。

八: せやな。けど、わてらも気をつけなあかんな。

睡眠はわてらの仕事なんやさかい。

熊: 八からその言葉がようでたなぁ。八は、一日10時間ぐらい寝てるやないか。

八: 最近なぁ、なんかこう、まぶたがラブラブやねん。すぐくっつきとうなる。

花粉症のせいかな。

熊: あ、花粉症のせいにしたら、花粉症がかわいそうやわ。

八: まあ、ええやん。神さまにじっくり10時間働いてもろて、わての身体メンテしてもらわな。

なんやったら、マッサージもおねがいでけへんかな。

熊: イエス様、八のやつ、あんなことゆうてまんで。ちょっとお仕置きしたって。

そや、若さんの仕事、八にまわしたって。

八: アホぬかせ。牧師の仕事は、牧師がするんや。信徒がしたらあかん、ろくなことおきひん。

熊: 牧師を手伝うことぐらい、できるやろ。ま、ええわ。

八、おまえ、ええかげんにしとかなあかんで。神さまにマッサージお願いするなんて。

八: けんど、若さん、神さまにマッサージお願いしてはったで。

熊: ほんまかいな。そら、八、なんか聞き間違いしてんのとちゃうか。

八: ほんまやて。若さんな、「私の頑なな心を砕いてください。

堅くなっている心につまっているものを、マッサージをしてはき出さしてください。」

熊: なるほどな、心のマッサージか。それは、いいかもな。

八: けんど、心を砕かれたら、マッサージするところとちゃうやろうに。

熊: 若さん、砕かれた後、マッサージして癒されたいんかもな、神さまに。

まあ、心のマッサージやったら、だれもがしてもらいたいかもな。

八: やろ。まあ、できれば寝てる間にしてもらいたいねん。痛いのん、かなわんし。

―――――

八さん、私の祈り、聞いてはったんですね。壁に耳ありって言われますけど、薄壁いちまいやから、どうしようもありませんな。まあ、聞き流しておいてください。八さん、熊さん、ありがとうございます。けれど、神さまに心のマッサージおねがいするのもいいもんですよ。体のマッサージと同じで、凝っていて、血の循環が悪いところが痛いですけど、後が楽になります。私は、定期的にお願いしていますよ。さて、今日は、「夕があり、朝があった」というところから、メッセージをとりつがさせていただいた、というよりも、私個人に気付きをあたえられました。皆さんはいかがでしたでしょうか。

では、黙想いたしましょう。黙想箇所は、詩篇30篇です。

●黙想:詩篇30篇をお読みいたします。

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書1章38節。

「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出てきたのである。」

では、黙想いたします。詩篇30篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:傷跡

https://www.youtube.com/watch?v=JYOE8Kb8LA0&list=RDGMEMXdNDEg4wQ96My0DhjI-cIg&index=2

●献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、悔いた心と共に捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡